第5話 ― 3

***


 ――赤尾の奴遅いな。

 茶原がそのことを気にしたのは、後輩が校舎のほうへ走って行ってからもう十分ほど経過してからだった。

 撮影機材のほうはほとんど準備が済んでいる。自分や赤尾が素人であることを依頼人の榎園もちゃんとわかっているため、複雑だったり扱いにくかったりするような道具はほとんど使われていない。

 使うとしても設置は榎園自身がやってくれているので自分は実質アシスタントというよりも荷物運搬係でしかなかった。


 やはり体調が悪いのだろうか、と考えて茶原は申し訳なさを感じた。桃宮曰く写真部員の誰かによる嫌がらせで、橙山を庇って赤尾がペンキを被ったのはつい先日の事だ。それを抜きにしても精神的な疲れは相当な物だろう。


「難儀な性格してるよなぁ、あいつ」

「んー? どしたん茶原、赤尾くんのこと?」


 思っていた言葉がぽつりと口から出ていたらしい。近くにいた橙山にそう尋ねられてしまい、苦笑いをしてごまかす。


「寝不足らしいですけど、それならそれで無理せず休めって」


 昨日桃宮に話をした際、率先して依頼内容を説明したのは茶原ではなく赤尾だ。そして実を言うと、赤尾の報告には一部足りていない内容がある。

 床にばらまかれた画鋲を見つけた時は榎園に待ってもらい、百はあるのではないかという画鋲を赤尾は率先して片付け、その際に何度か指先も怪我している。

 廊下の向こうからボールが飛んできた際には、後列にいた茶原がその存在に気が付くよりも早く赤尾が榎園や橙山の前に出てボールを受け止めた。荷物を両手に持っていたこともあって、顔面キャッチだ。


 茶原だって後輩にここまでされて黙っているというのも立つ瀬がない。撮影の合間合間に何かトラブルがあっても防げるように警戒しているのだが、自身が赤尾より先にトラブルに飛び込めた例は未だ無かった。

 赤尾の警戒度合いが高すぎるのだ。物陰から飛んでくる何かの音に、足元に散らばる小さな何かに、誰より早く悪意の気配を察知して身構える。まるで肉食獣に襲われることを常に警戒して生きる野生の小動物のような危機察知能力。

 そんなものを現代日本で会得していることそのものが、幼少期がどれだけ暗い記憶だったかの証明だと茶原は思っている。


「まー、あれどう考えても寝不足じゃないだろうけどねぇ」

「橙山先輩、そこは気付いてないことにしましょうよ」


 そんなことを考えている横で橙山も思うところがあるのか、緩い口調と同時にため息をつく。まだ機材設置やらなにやら、榎園でなければわからないような準備をしている最中のため彼女の出番はまだ少し後だ。


 赤尾が入部した際の事情は二人もある程度聞いている。桃宮への宣戦布告や、正義のヒーローという言葉への態度など。その言葉を嫌いになった理由はさすがに聞いていないが、その言葉とあの警戒心の高さがイコールで繋がるのはそう不自然なことではない。

 そしてそれゆえに、


「ちょっと心配だよねぇ、あの子」


 橙山の言葉に茶原も、言葉に出さないながらも激しく同意した。

 危険や悪意を誰よりも早く察知し、それが向けられている方向を把握し、誰よりも早くそれらの前に出て悪意の向けられた相手を守る。その際に己の怪我も何もかもを度外視して、それでいてそのことを誇ろうともしない。

 行動を要約してしまえば、彼が大嫌いだとうそぶく存在と大差ないのだ。そのことに、当の本人が気づいているかどうかは不明だが。


 正義のヒーローを嫌いながら、正義のヒーローと似たような事をしようとする。その動機が正義のヒーローを否定するためだというのだから屈折している。赤尾自身も明確に自覚はなくともその点にはストレスがあるようで、最近はヒーローを否定する言動が彼自身に言い聞かせる物のようにすら茶原には見えていた。


「茶原、あんたも気にしてあげてね。私ももうちょっと相談乗れるようにするからさぁ」

「先輩のは相談に乗るっていうか、酒入れて絡んでるだけでしょう」

「年齢二つ空いてるとやっぱり聞きづらいもん。お酒でも使わなきゃ気を遣うでしょ」

「やり過ぎると引かれますよ」


 ――まあでも、あれは放っておくと、変な方向に迷走しそうだしなぁ。

 昨日自分に持ちかけた「ちゃんとした文芸部」の話もその迷走の一つかもしれない。赤尾が帰ってきたら少し相談にでも乗ってやろうか、なんて事を茶原が考えていた時だった。


 ぱしゃん。


「ひゃあああ! 何、今度は何⁉」


 水風船が割れたような、コップ一杯の水を床にぶちまけたような、湿っぽい音が茶原の耳に届いた。同時に悲鳴を上げる橙山の声。茶原のすぐ後ろだ。

 振り返ると、茶原のすぐ後ろの地面がびっしょりと濡れていた。橙山はそれより少し遠い位置で尻餅をついていた。とりあえず無事ではあるようだ。


 濡れた地面の上には、何やら半透明の何かの欠片が落ちている。なんだこれは、と思っていると少し離れたところでもう一つ、また一つと同じ音がして、たまたま視界内で爆ぜる瞬間を見たおかげで茶原は状況を理解した。防犯用のカラーボールだ。


 コンビニなどでもレジの後ろにあるのを見かけることが多い特殊塗料入りのアイテムだが、実はあのアイテムには「練習用」として中身に水が入っている物も存在する。以前部誌の短編用にとネタ探しをしていて偶然見かけて得た知識だ。値段もインターネット上で大学生が購入可能なくらいには気軽なものである。

 飛んでくる方向は――見えた、本校舎の上の階の一角。


「橙山先輩と榎園先輩はとりあえず向こうまで走って校舎に! ちょっと俺見てきます!」


 中身が水でも無視できるような妨害ではない。L字の校舎の、犯人がいるのとは別の方を指さして指示してから、茶原は犯人がいるであろう方向へと駆け出した。

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