第3話 ― 6

 赤尾は何も答えなかった。答えられなかった、という方が正確か。

 嘘をついても無意味だろうと悟っていたし、だからといって肯定するのは嫌だった。できることならその単語だって聞きたくはなかったほどだ。

 そのまま無言を貫いていると、やがて桃宮のほうが「まあ、いいか」と赤尾から視線を背けた。


「あたしがここまでやる理由は、あたしが正義のヒーローに憧れてるからだよ。そうなりたいから、あたし自身が思い描くヒーローらしいことを、あたしの立場でできる限りやってる」


 一切の澱みなくそう話す桃宮は、そう言いながらも足元に視線を走らせていた。時折しゃがみこんでは川の中の小石を掴んで、すぐに手放す。こちら側は橋からだと下流になるので、会話のついで程度にだが茜色のお守りを探す手を止める気はないらしい。


「だから分類としてはたぶん、自己満足じゃないかな。せっかく受けた依頼なのに、とかいう気持ちも無くはないけど、そういうのは全体の一割くらい。少なくともボランティア精神とか、そういうのじゃないよ」


 じゃあ、もう少し橋の近くも見てくるね。その言葉を最後にして、桃宮は川の中を進んでいった。川岸に棒立ちになっている赤尾からは遠ざかっていく形になる。その背中を眺める赤尾の頭の中はぐちゃぐちゃになっていた。

 どんどん遠くに行く小さな背中が、八歳の頃の自分と重なって見えていた。そのことに気付いてほとんど無意識に拳を握りしめていたことに、少し遅れて気が付く。遠のいていくその距離は、物理的な物だけではなく桃宮と自身との決定的な「差」であるように感じられて赤尾は苛立っていた。


 今川の真ん中にいるのは、八歳の頃の自分だ。八歳の時に叩きのめされる前の、まだ「折れていなかった」自分だ。遠目に後ろから見る八歳の自分は、直視できない程度には眩しい。


「……なんでだよ」


 ぽつり、と言葉がこぼれたのが、引き金になった。


「なんでだよ、なんでだよ、なんでだよ!」


 すう、と息を胸いっぱいに吸い込む。胸の奥のむかついた気分ごと、もう一声。


「――ふざっけんなよ‼」


 多少距離があってもさすがに赤尾の叫びは届いたらしい。橋の下でお守り探しを続けていた桃宮がその声に反応して顔を上げ、こちらを見ていた。それを睨みつけながら、口を真一文字に結びながら、赤尾は桃宮のほうへと早足で向かう。鞄と携帯だけ川岸に投げ捨てるように置いたが、靴は脱ぐのももどかしくて履いたままだ。靴下もズボンも濡れることなどお構いなしに歩を進めた。


 何故、と問うのは別に先ほどと同じ意味ではない。単なる妬み嫉みだ。

 俺は諦めたのに。折れたのに。あんなに叩きのめされても助けてくれるヒーローなんかいなかったのになんで今更だ。

 なんであんたはそんなにキラキラした目で、なんで自信満々に、憧れたままでそこまで来れたんだ。


 理由や経緯はどうあれ自分は諦めたのだ、正義のヒーローを。最終的には手放したとはいえ、決して望んだものではなかった。許されるならまだ持っていたかったその夢は最後まで自分を助けてくれることはなかった。自分勝手だと分かっていても、子供心には正義のヒーローに裏切られたと思う方が楽だった。

 ヒーローはいない。ヒーローは自分を裏切った。だから、ヒーローなんか嫌いだ。

 そう思って距離を取って、もういい加減気持ちの整理もつきつつあったのに。少しずつだが、あの夢を見る回数だって減ってきていたのに。なんで今なんだ、ふざけるな。


 ――羨ましくなるからやめてくれ。


 足元もろくに見ず、勢いに任せて水の中をかき分けて進んだせいで何度も足を取られながら、桃宮のところまでたどり着いた。川の深さそのものは膝下までしかないが、すでに何度も転んだので全身ずぶぬれだった。


「あの、赤尾くん? ……大丈夫?」

「俺は‼」


 心配半分、驚き半分、やや引き気味といった表情の桃宮が問いかけてくるのを真上から塗りつぶすように大きな声を出す。視線は桃宮を通して、全く別の物を見ていた。


「依頼内容がお守りの奪還だったから探します! 引き受けた依頼を達成していないので! 義務感で探します! 正義のヒーローなんかじゃなくて、依頼された内容を遵守するためにお守りを見つけますから!」

「え、あ、うん、はい」


 火を吐くようなその剣幕は、後輩相手だというのに桃宮が思わず敬語になるほどだった。赤尾のほうはその反応すら見ようともせず、橋の下であちこち手あたり次第に小石を掴んでかき分け始めた。

 ひとしきりイライラはした。叫ぶだけの気力も奮い立たせた。赤尾を今突き動かしている原動力は、まるきり子供のような衝動だった。


 負けるもんか。認めるもんか。

 正義のヒーローなんて、いないんだから。


 もう講義とか依頼とか、そんなことすら大義名分に使う以外では頭の中から完全に抜け落ちていた。後にあるのはただ、桃宮に重なって見える過去の自分との勝負だけだった。

 正義のヒーローを謳って人助けなど、あってたまるか。背後で動く気配がしないことすら、こうなってくると癪に障る。振り返るとまだ混乱気味な桃宮が立ち尽くしているのが見えて、赤尾はほとんど脊髄反射で口を開いた。


「どうしたんすか、正義のヒーロー。俺より先に見つけてみろよ」


 義務感で、事務的な理由で、正義のヒーローっぽくない動機と言動で。ヒーローなんかより上を行ってやる。赤尾のそれは完全な宣戦布告だった。

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