第2話 ― 3

「赤尾くん、落ち着きなさいって。腹が立つのもわかるけど、熱くなりすぎ」


 三島さん怖がってるでしょうが、と言われて初めて、依頼人の女性がさっきまで以上に身を縮めて俯いていることに気付いた。元々気弱そうな外見に加えて、赤尾ではないとはいえ同じ男性に付きまとわれた恐怖で弱っているところにさっきの口調は、いくら何でもやり過ぎた。

 すいません、と言って一歩下がると、三島の肩の力がほんの少しだけ抜けたのがわかった。


「事務局に話しちゃうと、後が怖いのよね。大事なお守りは向こうの手元にあるわけだし。お祖母さんのくれたお守りって、多分替えが効かないやつでしょ?」


 桃宮の言葉で赤尾も理解した。もし学務課に話して、仮に事務局が動いたとすれば犯人である坂崎という男を確実に刺激することになる。そのことで相手が逆上でもしようものなら、三島が大切だと言ったお守りをどう扱われるか分かったものではない。

 ほとんど人質みたいなものじゃないか、と呟くと「みたいな、じゃなくて向こうは完全にそのつもりでしょうね」と桃宮が吐き捨てるように言った。


 依頼を聞くのにわざわざ部室からこの教室まで出向く必要があった理由も察せられる。桃宮の口ぶりを考えれば大学内の学生には「文芸部イコール悩み相談窓口」といった図式がそれなりにあるはずで、万が一にも三島が文芸部の部室へ出入りするところを坂崎に見られれば、それは事務局に訴えに行くのと同じように刺激することになる。


 人が少なくなった時間帯の使われていない教室で隠れるようにして依頼してきたのだって、三島なりに細心の注意を払って場所を選んだ結果なのだろう。それでもなお怯えるように身を小さくしているのは、万が一を警戒しているのか。


「そのお守りは、まだ坂崎とかいう男が持ってるの?」

「はい、それは間違いないです。今日も、私に近づいてくるとき、手に握ってるのが見えましたから」


 見せつけているのだろう。お前の大事なものは自分の手元にあるからなと、それは完全な脅しだ。

 わかったわ、と言いながら桃宮が三島の肩に軽くその手を乗せた。


「この件は、あたしが引き受けるから。もう大丈夫」


 ともすれば軽々しい印象を受けそうな言葉だったが、桃宮の口調は真剣そのものだ。その真剣さが伝わったからだろうか、話しながらも常に小さく震えていた三島の肩が離れた位置からでも落ち着いたのがわかった。

 もう少し詳しい話を、と桃宮が言いかけたタイミングで教室内にチャイムの音が響く。そういえば別の教室は講義中だった。講義終了のチャイムで、ドア一枚隔てた外側の廊下がにわかに騒がしくなり始める。

 まずいのではないか、と赤尾は廊下の方に視線を向ける。噂の坂崎がこの時間帯にまだ講義を受けているのかはわからないが、万が一にもこの状況を見られでもしたら面倒なことになるだろう。


「三島さん、その坂崎ってやつ、この時間帯でも講義受けてるの?」


 同じことを思ったらしい桃宮が三島にそう尋ねる。三島のほうは無言で首を横に振った。ごめんなさい、と小声で続く。


「私が受けているのと同じ講義にいたら怖いので、その時間帯だけは把握してるんですけど……」

「そう、だったらここで話を続けるのはちょっと怖いわね」


 桃宮が再度尋ねると三島は、今度は首を縦に振った。


「じゃあ、連絡先だけ教えてもらえる? 詳しい話は携帯のほうでやり取りしましょ。それなら姿を見られる心配もないわけだし」


 お悩み相談窓口のようなことをやっていると、似たような経験もやはりあるのだろうか。手際よく連絡手段を確保した桃宮は「先に出て連絡するから、五分待ってから出てきなさいね」と言うなり教室の外へ向かった。赤尾もそれに続く。

 続こうとして、数歩だけ歩いたところで足を止めた。


「あの、三島さん」


 自分でも何を言おうとしているのかよくわかっていないまま、呼びかける。状況はさすがにわかっているので早口だ。

 依頼の話をしている間、苛立ちに任せて噛みついた以外はほとんど無言だった赤尾が声をかけてくるとは向こうも思っていなかったのだろう、うつむき気味だった顔を軽く上げて、その表情は少し不思議そうだ。

 ええと、あの、と纏まらない言葉で少し躊躇ってから、


「俺、絶対、お守り取り返しますんで」


 結局出たのはそれだけだった。


「え……あ、はい、その、お願いします……?」


 少し間を空けてから返ってきた言葉はやや疑問形だ。何を言っているんだ俺は、と赤尾は盛大に自分の後頭部を殴りつけたくなった。元々向こうはそうして欲しくて依頼してきているのに、何故自分はそんな気休めにもならないような言葉しか吐けないのか。

 これ以上失言を重ねたくなかったし、そもそも自分がここにいては桃宮が万が一のためにと話を切り上げたのが無意味になる。そんな理屈半分、羞恥半分で赤尾は三島の反応をそれ以上見ないようにと早足で教室から出た。


「冷めてるのかと思ったけど、結構気合い入ってるじゃない」


 廊下に出ると、教室のすぐ外で桃宮が待機していた。赤尾を見る目は完全に面白がっている。

 何を言い返しても癪に障る気がした赤尾は、ただ無言でその場を立ち去るのだった。

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