第72話 彼女になってあげようか?

 寺井 利明。Jone Jett's Dogsのベーシストで、ファンからの愛称はテリー。年齢は確か40代後半だったはず。


 俺が初めてベースを手にした時、初心者向けの教則本を無視して最初にコピーを始めたのがJJDの曲だった。弦の抑え方も、ピックの握り方もよくわからないまま、事前に買っていたスコアのTABタブ譜だけを頼りにして。だから、テリーのベースラインは俺の細胞に刻み込まれていると言っても過言ではない。

 JJD解散ライブのDVDは、もう何度見たかわからない。そこで演奏された曲は、当然のように全曲コピーしている。再生しすぎたためか経年劣化のためか、最近ではたまにディスクの読み込みエラーが出るようになってしまったが。

 何かのインタビュー記事でテリーに娘がいるということは知っていた。ベースに貼られた猫のシールは娘の仕業だから剥がせないんだと、柄にもなく家庭的なことを言っていたからよく覚えている。でもまさか、その娘と相まみえることがあるなんて思いもしなかった。


「アタシが寺井 利明の娘だってことは内緒にしといてね。君のバンドメンバーにも。親の七光りとか思われるの嫌だし、アタシはアタシの力で成功したいの。そのために名前だって『牡丹』だけで通してるんだから」


 牡丹は人差し指を口に当てて、小声で言った。寡黙な印象が強いテリーとは対照的な、人懐っこい仕草だった。


「了解。でも、そのベース使ってたら気づく人いるんじゃない? 俺みたいに」


 俺は高鳴る心臓の鼓動を悟られないように、必死に平静を装っていた。だって、あこがれ続けたバンドの身内が目の前にいるのだから。土下座してでもお近づきになりたいと思うのは、そうおかしなことではないだろう。


「いや~どうかな。これを見ただけでお父さんのだってわかる人なんて、多分そんなに多くないでしょ。最近の若い人ならJJDを知らない人の方が多いし」


「そんなこと……」


 そんなことない、と言いたかったが、それは無責任な発言な気がして言えなかった。元々JJDは万人受けするバンドではない。CDのセールスだって、俺の記憶が正しければ週間チャートでシングル5位、アルバム2位が最高位のはず。決して売れていないわけではないが、それも10年も前の話だ。

 そのため、最近の若者はJJDを知らない、という事実は認めざるを得ない。


「だからさ、朔がこれを一目でお父さんのだって見抜いちゃったのは、何かすごい嬉しいよ。朔の心の中に、お父さんたちの音楽が生きてるんだって感じがする。でもまぁ、確かに朔の言う通り気づく人が他にもいるかもしれないね。そしたらそん時に公表するよ」


「牡丹は、JJDが好き?」


「あたり前田のクラッカー!」


 それはいにしえのギャグである。同年代で知っている人なんてまずいないだろう。けれど、その古いギャグはJJDのボーカル&ギターが好んで使っていたのだ。だから、ファンの間では鉄板のネタなのである。


「ぶっはははは!」


「あ、わかる? このネタわかる?」


「あたり前田のクラッカー」


 俺はキメ顔でギャグを返した。


「あははははは!」


「いやー、作る曲や歌詞は死ぬほどかっこいいのに、面白いこと言おうとすると壊滅的につまらないんだよね、あの人」


「あはは、そうそう。天は二物を与えないってやつなのかな」


「そのくせ、ミュージシャンになってなければコメディアンになっていた、とか言っちゃうし」


「そうそう! ほんとヤバいよね!」


 こんな風にJJDの話題で盛り上がったのは、花見の時に秀司と話した時以来だ。やはり、共通の好きなものがあると、話していてとても楽しく心地よい。


「戻りました~」


 ひとしきり盛り上がったところで、玲と琴さんと、みはるんを連れた京太郎が戻ってきた。


「よいしょっと……朔さん、その人は?」


 玲は大量のお菓子と飲み物の入ったビニール袋をテーブルに置いた。今日一日分にしてはあきらかに量が多すぎる気がするが。


「今日の対バン相手、lalalapaloozaのベースの牡丹。なんと……痛ったぁ!」


 なんとJJDのテリーの娘さん! と口走りそうになったところで、牡丹に思いっきり足を踏まれた。そりゃそうだ。さっき内緒にしてくれと言われたばかりなのだから。


「さ、朔さん!? 大丈夫ですか?」


「あ、あぁ……大丈夫、何とか」


「初めまして。あなたが玲ちゃん?」


「あ、はい。もしかして……」


「そう、SNS見たんだ。うんうん、実物もかなり可愛いね~」


 牡丹は玲の全身を舐め回すように見て言った。性別が違えば、間違いなくセクハラで訴えられることだろう。


「あ、ありがとうございます。えっと、朔さんとはお知り合いなんですか?」


「ううん、今日が初対面。何で?」


「いや、朔さんが『牡丹』って呼び捨てにしてたので……」


「あぁ、それね。アタシが頼んだの。そう呼んでって。敬語とか苦手なんだよね。だからさ、玲ちゃんもタメ語で良いよ。だからアタシも玲って呼んでいい?」


「えっと、私を呼び捨てにするのは全然構わないんですけど……」


 玲は困惑している様子だった。玲は基本的に礼儀正しい子で、自分と同い年の人間以外にタメ語を使っているのを見たことが無い。同学年でも、浪人して年が上の相手には敬語を使っている。


「牡丹、言うたっけ? 年はいくつなん?」


 見かねたのか、琴さんが助け舟を出した。


「そういう君は琴ちゃんだよね? うわー写真で見るより全然美人じゃん! 何この髪、サラッサラ!」


 牡丹は琴さんの絹のような長い髪に躊躇なく触れた。本当に距離感が近い。むしろ近すぎる。琴さんが怒らないか心配になるくらいだ。


「ありがとうね。で、いくつなん?」


 琴さんは特段気にする様子も見せず、再び問いかけた。


「ごめんごめん。アタシかわいい女の子に目が無くってさ。あはは。あ、年は19だよ。でも明日で二十歳はたちになるんだ~」


「あらおめでとさん。でも、そんなら玲ちゃんにタメ語で話させるのは諦めたげて。この子、年上には敬語の方が楽なんよ」


 玲はブンブンと頭を上下に振っていた。


「へ~、そういう人もいるんだね。敬語って、疲れるからみんな使いたくないと思ってたんだけど。琴ちゃんはタメ語平気なんだ」


「そもそもウチは年上やしな」


「もしかして敬語使えとか言っちゃうタイプ?」


「別にどっちでもええわ。ウチも牡丹って呼ばせてもらうし」


「オッケー。じゃあタメ語で! よろしくね、琴!」


 そう言えば、琴さんのことを呼び捨てにする人を初めて見たかもしれない。みんな「さん」か「ちゃん」をつけて呼んでいるし。あぁ、奈々子さんだけ例外的に「琴っち」だったっけか。まぁあの人は他の人の呼び方も独特だもんな。


「すごい盛り上がってたみたいですけど、朔さんと何の話をしてたんですか?」


「うーんとね、内緒!」


 牡丹がこちらにウィンクをばちこんと飛ばしてきた。俺は何となくそれに乗っかって頷いた。特に深く考えていなかったが、女子と秘密を共有するということが何となく嬉しくて、少し浮かれていたのかもしれない。


「え~、なになに? 気になるじゃ~ん。あれかな? さっくんも隅におけない、ってやつ?」


 みはるんがおもちゃを見つけた猫のような目で割って入ってきた。この手の話題に持って行くのが大好きなんだろう。


「そう言えば、君はバンドの関係者? この前の写真にはいなかったけど」


 牡丹が問いかけると、みはるんはドヤ顔で答えた。


「ふふん。私はね、このバンドのスタッフだよ。ま、それだけじゃないんだけどね」


「あ、わかった。清志郎くんの彼女でしょ?」


「え、清志郎って誰?」


「え?」


 みはるんが素で聞き返す。牡丹もキョトンとしていた。しまった。さっきちゃんと名前を訂正しておくべきだった。


「あぁごめん。うちのギターの名前は、清志郎じゃなくて京太郎なんだ」


「え、ウソ! なーんだ。ごめんごめん。ってか朔もさ、さっき間違えた時にちゃんと教えといてよ。適当だなぁ」


「京くんの名前を間違えるとか失礼なんですけど~」


「どうも、椎名 清志郎です」


「あはは、アンタの名前もうそれでええやん。『京』の字が入ってるのが京都人としていけ好かんかったし」


「俺の両親に謝ってください!」


「あはははは」


 牡丹はあっという間に俺たちに溶け込んでいた。玲以上のコミュ力お化けかもしれない。


 だが、俺はひとつの疑問を抱いていた。


「ねぇ、何でみはるんが京太郎の彼女だってすぐにわかったの?」


 あの会話の流れなら、みはるんが俺の彼女である可能性もあったはずだ。だが、牡丹は迷わず「京太郎の彼女だろう」という予測を立てた。それはなぜか。


「だって、朔は童貞でしょ」


「はぁ!?」


「見ればわかるよ」


「見たらわかるの!?」


 何という事だ。童貞と非童貞は見た目に差が出るものなのか? 俺には判別できない。女子ならみんなわかるのか? そう言えば、SNS上でtaku氏の投稿にも「ベースは絶対に童貞」というコメントがついていたことを思い出す。

 しかしだとしたら、俺は今まで「童貞です」という看板を掲げて街を歩いていたことになるじゃないか。今日だって、ちょっとクールを装って駅から歩いてきたって言うのに、そんな看板がついてたら滑稽で間抜けなだけじゃないか。


 いや、それよりも。


 俺のことを見れば童貞だとわかる。だからみはるんは京太郎の彼女だろう。この論理ロジックが成立するためには、もう一つ重要な要素ファクターが必要だ。それはつまり、京太郎が既に……


「ごめんな」


 泣き出しそうな俺の視線を感じ取ったのか、京太郎は右手で謝罪のポーズを取った。それを見た瞬間、俺の中で何かが崩れる音がした。


「信じてたのに!!」


 俺はテーブルを両手で叩いて突っ伏した。あぁ、この悲しみを一体何に例えよう。


 京太郎が初めてみはるんを談話室に連れてきた時、ある程度の覚悟は決めていたつもりだった。それでも、俺は京太郎のヘタレさをどこかで信じていたのだ。いや、信じずにはいられなかった。

 夏合宿の時、いつもと変わらぬムッツリっぷりで俺たちを導いてくれた京太郎を見て、俺は安堵していた。やっぱりこいつは変わっていないと。


 だけど、現実は違ったのだ。京太郎は既に、俺の手の届かない場所にいる。どうして、一緒にそこへ連れて行ってくれなかったのか。どうして、俺を置いて行ってしまったのか。


「さ、朔さん?」


 突然突っ伏して動かなくなった俺の顔を、玲が心配そうに覗き込んだ。


「う、うぅ……」


「泣いてる! 朔さんが泣いてます!」


「え、嘘! マジ!? ほんとだ! 何で!?」


 何でも何も、この状況を作り出したのは牡丹じゃないか。世の中には、知らない方が良いこともあるというのに、全てを白日の下に晒してしまったから俺はこんなにも傷ついたんじゃないか。


「あはははは」


 めっちゃ笑っている。牡丹と琴さんとみはるんがめっちゃ笑っている。悔しい。


「って言うか、朔は本当に童貞だったんだ」


「は? さっき見ればわかるって……」


「スタッフの子と清志郎……じゃなかった。京太郎くんが一緒に入ってきたでしょ? 朔の彼女だったら、朔が迎えにいくはずじゃん」


 つまりこういうことだ。


 牡丹は「見ればわかる」と言ったが、それは「(京太郎がみはるんを連れてきたんだから、みはるんが京太郎の彼女だということは)見ればわかる(だから相手のいない朔は童貞でしょ?)」という意味だったのだ。

 行間を読めと言うにしても難易度が高すぎる。もはや叙述トリックの域だ。って言うか、俺が童貞かどうかは全く関係ないじゃないか。


「別に童貞かどうかなんて気にする必要無いのに」


「男はみんな気にしてます。一番繊細な部分なんです」


「そうなの? じゃあアタシで童貞捨ててみる?」


「……今なんて言った?」


「アタシが彼女になってあげようか、って言ったの」


 俺は今、何を言われたんだ? 頭の処理が追い付かない。確かに聞こえたはずの言葉が理解できない。「カノジョニ・ナッテア・ゲヨウカ」とは、一体どういう意味だ? 何語?


「そ、そ、そ、そんなのダメです!」


 玲が大きな声を出してテーブルを叩いた。上に乗っていたビニール袋から、詰め込んだスナック菓子がひとつ落ちた。


「あれ、ダメ?」


「だ、ダメです! そんな、初対面なのに……」


「うーん、でも朔とは気が合うし、今彼女いないんでしょ? 私もフリーだから、別に良くない?」


「ダメですダメです! 絶対ダメ!」


 頑なに否定する玲を見て、牡丹は悪戯っぽく笑った。


「そっか。玲がそこまで言うなら、今はやめておくね」


 その時、入り口のドアが開いて二人の女性がフロアに入ってきた。どうやら、lalalapaloozaの残りのメンバーの様だ。


「それじゃあまた後で。お互い良いライブにしようね」


 メンバーの元に戻っていく牡丹を、俺はぼーっと見送った。未だに、何が起きたのかピンと来ていなかったのだ。


 ただわかることは、俺の隣に立つ玲が顔を真っ赤にしていること。みはるんがめちゃくちゃ悪い笑顔を浮かべていること。琴さんがやれやれと言った風に溜め息をついていることだけだった。

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