【第七章】オン・ユア・マーク

第71話 何かがはじまる予感がした

 夏合宿から1週間。俺たちの周りに特段変化は無かった。


 あまりにも穏やかにすぎる日々に、あのtaku氏のSNSでの投稿なんてまるで無かったのかと錯覚するほどだ。もっとこう、街中で玲や琴さんが声を掛けられるとか、ストーカーまがいの行為に怯えたりとか、そういう事件が起きるのではないかと懸念していたので、少し肩透かしを食らったような気分だった。いや、平和であることは何よりなのだが。


 そして、またライブの日がやってくる。


 9月12日の日曜日。cream eyesにとって初めてとなる休日のライブだ。チケットが一気に売り切れたのは、暦の関係もあるだろう。


 下北沢駅の南口を出て、ライブハウスSHAKERへの緩い下り坂を進んで行く。前に来た時には無かった雑貨店が狭い通りを彩っていた。やはりこの街は変化が早い。

 一歩一歩をしっかりと意識して踏み込まなければ、そのまま飛んで行ってしまいそうだ。浮足立つ、とはこういうことなのだろうか。恐れているのか、期待しているのか、自分でもよくわからない。

 イヤホンでJJDのライブ音源を聞いて、気持ちをいつもと変わらないところへ持っていこうとした時、SHAKERの前に停まっている大きなバンが目に入った。


「何だあれ」


 スモークガラスというやつだろうか、車内が見えないようになっていて、何とも怪しい。何時もならそこまで気に留めなかったかもしれないが、今日という日にそこにいるなら、警戒しないわけにはいくまい。

 そんな風に訝しんで車を眺めていると、スライドドアを開けて一人の男が降りてきた。スマートホンを片手に誰かと通話しているようだが、その姿を見て疑惑はさらに深まっていく。

 年齢はおそらく40台半ば。てかてかのグレースーツに第三ボタンまで開けた黒のワイシャツ。胸元に光る金のネックレスにサングラスを身に着け、色黒の肌に一昔前のサーファーの様な茶髪のロン毛がなびいている。


 堅気の人間じゃない。咄嗟にそう思った。


 さすがにそれは想定外だ。バンドに興味のない変な奴が来るかも、くらいには思っていたが、まさかそちらの筋の方までいらっしゃるなんて。

 いやいや、でも人を見かけで判断するのは良くない。それに、今日のライブを見に来た人とは限らないではないか。たまたまこの近くで抗争が勃発していて、その応援に来たのかもしれない。うん、きっとそうだ。それなら安心だ。


 何が安心なのかわからない理屈で無理やり自分を納得させ、その男の横をすり抜ける。すると、男が電話で話していた内容が耳に入ってきた。


「……はい。はい。……えぇ。大丈夫です。……はい。…………すいません。……はい。……よろしくお願いします」


 何か思ってたのと違う。


 勝手に警戒しておいて失礼な話だが、妙に残念な気持ちを抱えながら地下へ向かう階段を下りた。重い防音扉を開けると、その向こうには見慣れた顔が並んでいる。


「おはようございまーす」


 玲、琴さん、京太郎、そしてライブハウスのスタッフたちだ。今回は元々三番手での出演予定だったのだが、SNSの過熱ぶりを見たライブハウス側の配慮により、急遽出演順が最後に回された。そのため、リハは一番手だ。みはるんは少し遅れてくると事前に連絡が入っていた。


「遅えぞ」


「うるせぇ」


 遅刻魔に言われたくないし、そもそも予定時刻より10分早くついている。


「何や、みんな小心者やなぁ」


「一番乗り琴さんだったじゃないっすか」


「琴さんもそわそわしてたんですか?」


「ウチは斎藤ちゃんと話があっただけや」


「またまたぁ」


 浮足立っていたのは自分だけではなかった。俺は思わず笑ってしまった。


「玲、新曲は大丈夫そう?」


「バッチリです。今朝も個人練で歌い込んできましたから。前みたいな失敗はしませんよ」


「そりゃ頼もしいな」


 夏合宿の時に生まれた新曲は、「サマメモ(仮)」から「グラジオラス」へと名前を変えていた。さすがに仮タイトルがダサすぎたと思う。


「リハまで少し時間あるんで、私たちちょっと買い出し行ってきますね」


「今日は引き籠らなあかんからなぁ。今のうちに食料と飲み物を買い込んでおかな」


「別に兵糧攻めされるわけじゃないんですが」


「みはるん駅に着いたみたいだから、俺ちょっと迎えに行ってくるわ」


「了解。じゃあ俺は荷物番してるから。あ、外に変な車停まってたから、みんな一応気を付けて」


 少し不思議そうな顔をした三人を見送った後、俺はPAに提出するセットリストを書こうと思ったのだが、一人の女性にそれを妨げられた。


「君が朔くん?」


 その女性はものすごく気さくな感じで俺の名を呼んだ。しかし、その顔に心当たりは無い。心当たりはないのだが、どこかで見たことがあるような気がした。

 以前シンタローさんに会った時、京太郎さんと琴さんがそんなことを言っていたが、まさか今回も有名人なんだろうか。いや、それじゃ彼女が俺の名前を知っている理由にならない。


 だが、それより何より、これは素敵な出会いってやつなんじゃないか? 運命の相手は初めて会った気がしない、なんて話も聞いたことあるし、この女性、よく見ればかなり可愛い顔をしている。黒髪のショートカットで一見ボーイッシュだが、涼しげな目元と光沢のある唇がとても魅力的だ。読者モデルの琴さんよりも線の細い体は、いささか痩せすぎのような気がしたが。


「アタシの顔に何かついてる?」


「あ、いや……」


 しまった。あまりにもじっくりと顔を眺めすぎた。よし、ごまかそう。


「あの、何で俺の名前を? どこかで会ったことありましたっけ?」


「何それ。ナンパのつもりかな」


 女性はからかうような表情を見せる。声を掛けてきたのはそっちじゃないか。


「別にそんなつもりじゃ……」


「あはは、ごめんごめん。アタシが君を知ってたのはね、SNSで見たからだよ。ボーカルの玲ちゃんに、ドラムの琴ちゃんに、ギターの清志郎きよしろうくん、であってる?」


「あぁ、大体あってますね」


 そういうことか。cream eyesのSNSアカウントには、プロフィール欄にメンバーの名前が載っている。taku氏の投稿もあったし、今日の出演者が見ていても何ら不思議はない。


「アタシは牡丹ぼたんって言うの。古臭い名前でしょ」


「そんなことないと思いますよ。良い名前じゃないですか」


 俺はこの時、心の中でガッツポーズを決めていた。何せ、一度は言ってみたい台詞ナンバーワンである「良い名前だね」をかますことができたのだから。本当はもっとクールに、「牡丹……か。良い名前だね」って言いたかったけれど。まぁ許容範囲だろう。


「ありがと。ってか敬語使わなくていいよ。多分年も近いだろうし」


「それじゃ遠慮なく。で、牡丹さんはいくつなの?」


「19。さん、もいらないよ。なんかお婆ちゃんみたいだし。牡丹って呼んで」


「一個下か」


「あ、でもね、明日誕生日なんだ。二十歳になるの」


「マジか! おめでとう。そんじゃあ同学年タメだ」


「そうみたいだね」


 あれ、何か良い感じじゃないかこれ。


「アタシもさ、ベースやってるんだ。今日3番手で出演するlalalapaloozaラララパルーザってバンド」


 しかもベーシストか。うん、とても良いぞ。ちょっと運命感じちゃったりするぞ。


「朔たちの写真がSNSに流れてきたときさ、ぶっちゃけ何だこいつらーって思ったんだけどね。どうせちょっと女の子が可愛いだけのクソバンドだろって」


「口悪いなおい!」


 しかももう呼び捨てだ。こちらは許可していないのに。別に構わないが、随分距離感の近い子だな。


「あはは。でもさ、ネットに上げてた曲聴いたら印象変わったんだよね。特にベースの音がすごく気に入ったんだ。何か芯があるっていうか、まぁとにかくかっこよくってさ。そしたら、次の対バン相手にcream eyesの名前があるじゃない? だから今日は絶対朔と仲良くなってやろうって思ってたんだ」


「何だろう、そんな風に言われるのめちゃくちゃ嬉しいんだけど」


 あの音源を録る時、自分なりにかなりの努力をした。だから、それを音だけ聞いて評価してくれたことがものすごく嬉しかった。先ほどまでのよこしまな思いが吹き飛ぶほどに。


「今cream eyesはめっちゃ注目されてるじゃん? 仲良くしといたら得がありそうだし」


「結局そこかい!」


「あはは、朔って突っ込み体質? 君のベースがかっこよかったってのは本当だよ」


 そう言うと、牡丹は背負っていたケースから自分のベースを取り出した。それを見た俺は、柄にもなくドキッとしてしまった。それは、彼女が魅力的だったから、という訳ではない。いや、それもちょっとはあるのだが。


「そのベース……」


「これ? いいでしょ~。一日早い誕生日祝いってことで、お父さんが譲ってくれたんだ。ライブで使うのは今回が初めて」


 日に焼けた白いボディにべっ甲柄のピックガードのついたfenderのジャズベース。刻まれた細かな傷や凹みが、歴戦の風格を感じさせた。


 そして、俺はそのベースを知っている。リアボリュームの摘みが純正の物から金属製の物に交換されていたり、ピックアップの間に猫のシールが貼られていたり。昔から、何度も何度も見てきたその姿を、見間違うはずがない。

 それに、牡丹の言っていた「お父さんが譲ってくれた」という台詞。それで俺はもう確信していた。どうりで彼女の顔を見たことあると思うわけだ。確かに面影がある。


「牡丹、君の名前を教えてくれる?」


「ん? だから牡丹だよ」


「苗字を、教えて」


 牡丹は笑っていた。


「あれ、もしかして気づいちゃった?」


「あぁ。だって、俺大ファンだから」


「ベース見ただけで気づいちゃうなんて。本当に好きなんだね。何だか嬉しいかも」


 少し照れているような、誇らしげなような、そんな仕草で牡丹は答えた。


「アタシは寺井てらい 牡丹。Jone Jett's Dogsのベーシスト、寺井 利明としあきの娘だよ」

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