25話 「普段から丁寧に!」

 「……」

 「……け、健斗君」

 今は実習の時間。俺は今あることにぶつかっていた。夏帆が俺を励ますように声をかけるが、残念ながらその癒しの声は俺の耳には届いていない。

 なぜなら俺は今、実習のテキストに書かれたある課題にぶつかっていてそこからなかなか前に進めていないからである。

 今、集中力をマックスにしてその課題に取り組んでいるために夏帆が気を遣ってかけてくれた声も聞こえていない。

 持ったシャーペンを動かす手を俺は丁寧に進める。そして___。

 「よし! 出来たぞ! 今度こそ!」

 「はい! 今回こそいけるはずですね!」

 「おう!」

 俺はやっと夏帆の声に気が付いて夏帆に元気よく返事をして、ある決戦の場所に向かう。

 そこに待ち受けているのは____。

 「はい、これで何回目かな? 佐々木君。今回こそちゃんとできたんだろうね?」

 教員が待ちかねたかのように手を出してくるので、俺の最大限の力を注ぎこんだテキストを手渡す。

 そして教員がそのテキストに俺の力が結集したものをまじまじと見つめた。

 「ふむ……」

 「どうでしょうか!」

 「うん、まだダメだね。ちゃんと形が綺麗に描けてないし。 雑すぎじゃない?」

 「いや、これ本気で描いてこれなんですけれどもそれは……」

 「はい、もう一回やり直しー。これは長くかかりそうだねぇ?」

 教員の煽り言葉を喰らいながら俺はテキストを突っ返された。そのテキストを持ってとぼとぼと自分の実験机に戻る。

 「また……ダメだったよ……。申し訳ない」

 「い、いえ! 私は大丈夫です! こればかりは私は助けられないので応援とかしかできませんが……健斗君が終わるまでずっと待つのは苦じゃないですよ」

 夏帆はいつも通り優しい笑顔で俺を励ましてくれる。今日ばかりはちょっとでも恨み節が出てもいいぐらいなのに、そんな雰囲気は一切出ていない。女神である。

 ちなみに俺は何をしているかと言うと___スケッチである。

 ちなみに何のスケッチをしているかというと、様々な器官や臓器の標本を顕微鏡で観察して特徴的なところを見つけてスケッチするというものである。プレパラートの数は大量にあってスケッチする量も多い。結構大変である。

 え、大学生にもなって美大生でもないにスケッチなんかするのかと思ったそこの君! 最初も俺はそう思っていました。

 しかし残念ながらスケッチをする場面がありました。小学校三年生で初めて理科の授業をして周りの植物や動物を描いてみましょうのあの時からずっと自分のスケッチって下手くそだなぁと思いながら約10年以上。まさかここ一番躓くとは思いませんでした。

 ちなみにこのスケッチが教員に通れさえすれば今日の実習は終わりなのだが、俺が躓きまくっているせいで夏帆はだいぶ早く終わっているのにずっと待つ羽目になっている。申し訳なさ過ぎてマジで泣きたい。

 当然みんな知っているとは思うが、スケッチというものは美術センスとかそういうのではなくてちゃんと特徴的なところを重点的に描く対象物を丁寧に描けているか。

 こういうのをやると普段から”かく”という行為をどうしてきたかがよく分かる。文字を書く。スケッチ、絵を描く。どちらの”かく”にしてもちゃんと丁寧に普段からやってきたかが問われる。

 分かりやすく言えば、普段字を雑に書いている人が大事な書類を前に丁寧な字を書くことに苦労したり、何度もやり直しにさせられるあれの事。

 俺は今、そのスケッチバージョンになっている。どういうこっちゃ……。

 ちなみに奈月のほうはさっさと終わらせて俺の背中を小突いて「お先ー♪」と言いながら楽しそうに帰って行った。

 もう周りを見渡せば半分近くの班が帰っているし、教室に残っている人たちも荷物をまとめて帰る準備をしている。

 「ううっ……ごめんよ夏帆。俺が非力なばかりに……」

 「いえいえ。なんかひもの結び方といい、スケッチの事といいちょっと健斗君の苦手なところが見られて私としてはちょっと楽しいです」

 やっぱり夏帆って隠れドSじゃないかな。

 「夏帆、この後バイトとかそういった予定のほうは大丈夫?」

 「そういうことはしていないので全然大丈夫です。落ち着いてゆっくり終わらせてくれたらいいですよ」

 そんな優しい夏帆に励まされながら俺はスケッチという強大な敵に立ち向かった。

 「何ですかこれ? 臓器にダンゴムシなんか付いていたら一大事ですよ?」

 「……」

 「これは……ミミズか何か?」

 「……」

 

 ~30分後~


 「……まぁ、いいでしょう。これで受け取ります。佐々木君はとってもスケッチが下手くそということがよく分かりましたよ」

 「すいませんでした……」

 やっとのことで教員が渋い顔で俺のテキストを回収した。ちなみに教員といっても普段講義をする教授や、生徒とかなり年の近い人もいる。そういう若い人の中にはコミュ力ある人がいて、生徒と友達感覚で話す人もいる。この人はちなみに後者のようで軽いノリで結構ぼろくそ言われた。まぁでもこの人以外の教員に見せたらさらに長引きそうだったし、大目に見てくれたようでここは感謝。

 何はともあれ、長きにわたる戦いが終わった。

 「お、終わった……」

 「健斗君、お疲れ様」

 周りを見るともはや誰も教室は残っておらず、終わったのは断トツの最下位。俺が疲れた顔をしている場合ではない。一番大変だったのは夏帆であることに街がないのだから。

 「ご、ごめん……こんなに遅くなっちゃって」

 「いえいえ」

 「さあさあ、君たちが最後だからパパっと部屋を出ちゃって。もうここの部屋の電気消すよ? こんなにまさかかかると思わなかったし」

 俺と夏帆はそんな教員の言葉に促されて教室を出た。ロッカーで着替えて荷物をまとめたらやっと家に帰れる。

 「健斗君があんなにげっそりしているところはなかなか見れないでしょうからいいものを見せてもらいました」

 「いやぁ、お見苦しいものを」

 「解剖とかしているときはすごく冷静に作業を進めていたので、何でも起用に出来るのかと思ったらこういうところがダメっていいのがまた……」

 「そ、そんなに面白かったのか……」

 「はい。この世の終わりみたいな顔しながらスケッチしてましたよ?」

 耐えられないとばかりに夏帆が楽しそうに笑っている。随分と待たされたことを怒るのではなく楽しそうにしていてくれてちょっと救われる。

 「ギャップ萌えするやろ?」

 「うーん、こんなに待たされるギャップ萌えはちょっと……」

 意地悪そうな笑みで俺をさらに揺さぶりにかかる。今日のこの失態では、もはや何も言い返せない俺。

 夏帆もだんだんと打ち解けてきてこういう面がよく見えるようになってきた。ぶっちゃけ上品な感じで雰囲気が堅かった最初のころよりもはるかに魅力的だと思う。

 「うう……今度飯でも奢らせてください」

 「はい! ではお誘いを期待させていただきますね!」

 夏帆に今度また一緒に食べに行ったところにでも誘うか、それとも休みの日にでも誘うか。それは後々考えよう。

 本気で丁寧に文字を書く、絵を描くということをしようと改めて俺は決意したのであった___。

 

 

 

 

 

 

 

 

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