虫の知らせ

 ……虫の知らせ、という言葉を知っているだろうか?


 なんの根拠もないのに、良くないことが起こるような気がする……そんなものだったと、僕は記憶していた。

 そして、文字通り『虫の知らせ』が来たとき、事態は、すでに最悪の状態だった。



「……あれ?」



 明日ミネドールを出る準備をしていたとき、フローラが不意に声をあげ、窓を開いた。



「フローラ……? どうした?」


「今……あっ、ほら! あそこに」



 フローラが指差した先、そこには、一頭の蝶がいた。鮮やかな蝶の羽はボロボロで、ふらふらと飛び、やがて、風にあおられ、力尽きたように地面に落ちた。



「……気になるか?」


「はい……」


「そっか。……ウタ!」



 アリアさんがわざと明るく僕を呼んだ。



「なんですか?」


「ちょっと見てくる。すぐに戻るからな!」



 そして部屋を出て外へ行った。ちょっと気になって窓から外を見ると、アリアさんは地面に落ちた蝶をそっと拾い上げた。

 そしてそのまま、見えるところから消える。……アリアさんのことだ。きっと、サラさんあたりに、庭に埋めてもいいか聞いているんだろう。


 アリアさんが部屋に戻ってきて、再び準備を始める。

 それから何時間か経ったあと、部屋でくつろいでいたら、なにやら慌ただしい足音が上ってきた。



「……っ、アリアっ!」


「姉さん……? どうしたんだ?」



 サラさんはあがった息を整え、一つ、大きな深呼吸をすると、アリアさんに訊ねる。



「はぁ……っ、お前、エドって騎士を知ってるか?」


「エド……?」



 僕には聞き覚えのない名前だったが、アリアさんは知っているようで、不思議そうな顔をしながらうなずいた。



「あぁ、知ってるよ。父さんの幼馴染みで、よく護衛をしていてくれた人だ。見かけは怖いが、優しい人だよ。

 ……でも、どうしてエドのことを?」


「……アリアが、知っている……ってことは、本当、なのか…………」


「姉さん……?」



 ……サラさんはどこか絶望に満ちたような、そんな顔をしていた。なぜそんな顔をするのか、僕らには分からなかった。



「…………ウタ、アリア。こっちに来てくれ。ポロンとフローラはここにいた方がいい。分かったか?」


「わ、分かった。おいらたち、ここにいるよ」



 ただならぬ気配を感じ取ったのか、ポロンくんはそう言うと黙りこみ、フローラは黙ったままうなずいた。



「よし……。こっちだ」



 階段を一段一段降りていくサラさんの足取りは重かった。顔色は悪く、心なしか体も震えている。



「……姉さん、本当にどうしたんだ?」



 アリアさんが訊ねるが、答える代わりにサラさんはこんなことを言った。



「……私からは、言えない。私だってまだ、受け止めきれていないんだ」


「…………」



 そして連れていかれたのは、客間のようだった。



「……入ってみろ」


「…………」



 サラさんに促され、恐る恐るといった感じでアリアさんは扉を開く。


 なんの変哲もない部屋のベッドに、一人の男性が眠っていた。綺麗な銀髪、体は鍛えあげられ、屈強そうに見える。が、その頬はこけ、酷くやつれているようだった。

 その人を見た瞬間、アリアさんは血相を変えベッドに駆け寄った。



「エド……?! どうしてここに」



 その言葉に反応したのか、男性はピクリと体を震わせ、少しだけ目を開いた。



「…………アリア、さま……!」



 そしてその声の主がアリアさんだと分かると、無理矢理体を起こそうとしたが、アリアさんがそれを制する。



「いい! ……そのままで」


「さっき、ラトが外で見つけてきたんだ。馬車から落ちて、気を失ってるのをな。

 少し診た感じ、栄養失調だ。何日も食べないでいたみたいだからな。今、食事を作らせてる。馬車は心配するな。今ごろラトが馬に餌をやってるよ」


「どうしてそんな……」



 それに答える前に、エドさんは僕を見て、警戒するように言う。



「……君は、誰だ?」


「……柳原羽汰、です」


「私と一緒に旅をしている。大丈夫、こいつは信頼できるやつだ」


「……そう、ですか。ヤナギハラ・ウタ……聞いたことがありますよ、エヴァン様から」


「……聞いておいた方がいいかと思って呼んだ。

 …………すまない。私からは、なにも言ってない。言えなかった」


「そうですか……構いませんよ。俺から伝えますから」


「…………伝えるって、なにを?」



 怯えたようにアリアさんが言う。僕はそっとその隣に歩みより、エドさんを見た。



「そう怯えることじゃありません……と、普段ならば言えるのですが」


「そうとうよくないこと……なんですか?」



 僕が言うと、エドさんは静かに目を閉じ、そして、アリアさんを真っ直ぐに見て告げる。



「……今すぐ、国へ戻ってきてください、アリア様」


「…………」


「…………」



 しばらくの静寂が、その場を包む。



「この十日間、飲まず食わずであなたを探していました。そしてようやく……ようやく、見つけたのです。どうか、戻ってきてください」


「…………理由を、聞いてもいいか?」



 …………そのあとのエドさんの言葉は、覚えていない。ただ、それを聞いたアリアさんは僅かに笑みをこぼし、エドさんから離れた。



「……は、はは…………。嘘だろ? なぁ、吐くならもうちょっとましな嘘を――」


「嘘でも夢でもありません。……これが現実です。現実なんです」


「だって、そんな……そんなことあるわけない。そんなこと、あっちゃいけない」


「アリアさ」


「嘘だっ! そんなの、絶対嘘だ! 私は認めない! 絶対に認めない! だって……っ、だって…………!」


「アリア……!」



 パニックになり、過呼吸になったアリアさんをサラさんが優しく抱き止め、ソファーに座らせ、ゆっくりと息をさせる。



「…………これが、現実じゃなかったらって……俺だって、思いましたよ」



 エドさんが伝えた内容は、こんな感じだった。



 ――マルティネス・エヴァンが死んだと。

 誰かに、殺されたと。

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