第三十八話 鮮血に染まりゆく、純白の花嫁衣裳

 アイリーンは、まだ五十メートル以上離れている屋根の上からエゼルバルドとヒルダが敵へと攻め寄せている姿を、二射目を番えながら見下ろしていた。


 巨体を見せつけていた敵は金属製の矢で頭部を撃ち抜いて亡き者にした。金属の兜を貫通する能力を持つ金属製の矢を使用するまでも無かったと敵の見た目に惑わされてしまったと臍を噛んでいた。

 それを考慮すれば、高価な金属製の矢を使う事も無いだろうと今は何処にでも売っている矢を数本矢筒から引き抜き、そのうちの一本を番えているに過ぎなかった。


 五十メートルも離れていれば、相対する二人が発する声など満足に聞き取れる筈も無く、詰め寄るエゼルバルド達を眺めるしかなかった。


 イライラが募り始め、敵を射抜いてやろうかと弦を引き絞ろうと右腕に力を込め始めた時である。エゼルバルド達と相対する敵の口が開いたと視認したと同時に、くるりと身をひるがえして逃げ始めた。


 アッと声を上げたが、時すでに遅し。矢を射掛けるタイミングを逸し、アイリーンもエゼルバルド達を追い屋根の上を駆ける羽目になってしまった。


 そんなときでも、アイリーンにも一つ、考えが浮かんでいた。

 それは敵の逃げる方向をコントロールする事だ。


 逃げる敵を追うだけであれば何時までも捕まえる事は出来ないだろう。幸いな事にアイリーンは屋根の上を自由に走り回れるとあれば、敵が逃げる方向へ先回りも容易い。


 そして、敵を追い込む場所は、この地区に未だ堂々と建つ背の高い塔だ。その塔であれば、周囲から独立しており入り口から進入したとしても、出口を兼ねているそこ以外に逃げ口は無く、塔を上へ上へと上るしか選択肢は無い。


 塔の構造については、立ち入り禁止地区へ向かう途中に南瓜橙パンプキンオレンジから耳にしていた。

 なぜ彼女が塔の構造を知っていたかと言うと、その近辺でアパートの屋根から頭を一つも二つも飛びぬけているその塔が気になり、足を運んでいたのだ。

 それが、こんな形で役に立つとはと、アイリーンも、南瓜橙パンプキンオレンジも思ってもいなかった。


 アイリーンが射掛ける正確無比な矢は、敵を屠るなど容易い。だが、走り回る敵の眉間を射抜くことはそのアイリーンをもってしても不可能に近い。もし、狙った矢が逸れ担いでいる荷物を射抜きでもしたら目も当てられぬ事になるだろう。

 そんな事をしてしまったら、ヒルダからどのような仕打ちが待ち受けているか想像するだけで恐ろしい。

 そうならぬ為には敵を追い詰め、捕まえるしか無かった。


 それからアイリーンは屋根の上を想像だにせぬ速度で走り抜け敵の前方へと回り込むと、番えた矢を正射して行った。


 鉄の鏃を先端に付けた矢を正確に敵の足元を穿つ。それに驚いた敵は足を一瞬止め、方向を変えるとすぐに走り始める。

 それが何度か行われ、十本ほどの矢を消費したところで敵を塔の前への誘導に成功した。


「後は、塔の中に逃げて貰うだけね」


 さらに、矢筒から数本の矢を引き抜くと即座に矢を放ち、一射目で敵の足を止め、二射目で敵のすれすれを矢が通り抜けて行った。

 誘導された敵は既にアイリーンの術中にはまっており、彼女の意のままに操られ塔へと逃げ込んだ。







 彼は赤髪をなびかせるアイリーンの姿を視認しており、彼女の放つ矢に恐怖を抱いていた。

 ガッシュを一射で仕留めた腕前を持っているにも関わらず、十射もしてかすりもしないのは、後方から重圧プレッシャーを発しながら追い掛けてくる二人に捕まえさせる魂胆であると、見え見えの攻撃を見抜いていた。

 だが、この人っ子一人見えぬ地区で頭一つ、いや、二つ高い塔への前へと差し掛かった時に受けた攻撃に、彼は戦慄を覚えずにいられなかった。


 一射は同じように足元へ、続く二射目は安全な距離を取らず、顔のすぐ傍を通り抜けて行ったのだ。脅しであろうが、何時でも何処を射抜く自信を見せて来たのだ。

 そうなったら、居てもたってもいられず、矢の届かぬ場所へと身を隠すしか考えられなくなった。


 彼の視界にはにも無人の塔が建ち、入り口も封鎖が解かれているとなれば、逃げ込むには持って来いだと浅はかにも思ってしまった。

 彼が担ぐ大きな袋を交渉の材料にすれば、死地を脱す事も可能であるともほくそ笑むのだった。


 彼が塔の中へと逃げ込むと、肩を落として愕然とした。

 その場所から塔の頂上に向けて設けられた螺旋階段が、採光の窓から漏れる白い光に照らされ浮かび上がっていただけなのだ。

 部屋など一切合切無く逃げ道も無い、ただ遠くまで見張るため建てられたとわかれば愕然とするのも当然であろう。


 後方から追いかける二人に追い付かれては拙いと、仕方なしに螺旋階段を駆け上り塔の頂上を目指す。螺旋階段を半分程駆け上った所で塔へ侵入する二人の姿を視認し、さらに急ぐのであった。







 物見の塔に逃げ込んだとアイリーンからの合図で知ったエゼルバルドとヒルダは、時間をおいて塔へと踏み込んだ。

 塔の外で一拍置く間に聞こえて来た足音から、物見の塔を駆け上っていると知った。上へと上らざるを得ぬ状況を一拍置くことで作り出すと、二人は敵を再び追いかけるのであった。

 だが、敵は既に袋のネズミである、急いで追い掛ける必要も無く、ゆっくりと重圧プレッシャーを掛けながら螺旋階段を上って行く。


 螺旋階段を上り切り、塔の頂上へと二人は姿を現すと敵の姿を探す。

 しかし、探すまでも無く屋上への出口の対角線上にいる敵へとゆっくりと足を進める。


「もう逃げられないぞ、その荷物をこっちへ寄越せ」

「そうよ!わたしのドレスを返しなさい!」


 エゼルバルドとヒルダは揃って武器を敵に向け、背中に担いでいた大きな袋を渡す様にと声を荒げで叫んだ。


 敵はそれを聞き、これは幸いとニヤリと笑うと袋からドレスを無造作に盗り出し、手すりから外へとぶら下げた。

 汚れた手で無造作に取り出されたと知ったヒルダは、怒りのまま敵に襲い掛かろうとしたが、それをエゼルバルドが制止しその場へと留めた。


「はっはっは!お前達はこれが欲しいのだろう、取引しようじゃないか」

「取引?何と取引するんだ」


 今にも飛び出しそうなヒルダを抑えながら、敵からの提案にとりあえず耳を傾ける。


「まぁ、決まっているさ。まずは我の身の安全だ」

「お前の持っている荷物を返すんだったら、考えなくもいな。ヒルダ?」


 ヒルダは無事にドレスが返ってくるのであれば仕方が無いとエゼルバルドに頷いて返事を返す。だが、敵はそれで済ませれば良かったのだが、欲が出たのかさらに要求を口にしてしまった。


「もう一つ、その女を我が脱出するまでの人質とした「断る!!」……い?」

「巫山戯るのもいい加減にしろ!」


 敵が全ての台詞を口にする前に怒りの形相をしたエゼルバルドが言葉を遮った。そして、欲を出した敵を切り捨てようとブロードソードを高く掲げて叫び返す。


「貴様、この荷物がどうなってもいいのか?」

「だからどうした?」

「はっ?」

「だからどうした?と聞いてるんだ!!」


 つい先程まで怒りを露わにしていたヒルダは、体全体から怒りをほとばしらせているエゼルバルドを止めなければと冷静に立ち返った。

 自分以外が怒りを向けているときは”案外、冷静になるものなのね”とヒルダの脳裏に浮かんできていた。


(いえ、そうじゃないでしょ)


 思考が冷静になり始めたヒルダは頭をブルブルと振り、今はエゼルバルドを観察している時ではないとその考えを引っ込めた。

 エゼルバルドもドレスも、全てが無事になる方法が無いかと考えるのであるが、短時間で脳裏に浮かぶ筈も無く自らの力不足を嘆くのであった。


「お前を殺してやるからそこを動くなよ」

「……ちょ、ちょっと、止めてよ…」

 エゼルバルドを止めようとするが手を伸ばした時にはすでに遅く、重心を低くした彼が敵に突進を仕掛けた後となり、宙を掴んだ後だった。


「死ねぇ!」


 数メートルの距離があった間合いを一気に詰めると、敵を両断しようと一気に振り下ろした。


「ひえぇぇえぇぇ!」


 エゼルバルドの突進に恐怖したためか、ドレスを手放すのも忘れ敵は体を回転させて、すんでの所で攻撃を躱す事が出来た。だが、一瞬の出来事のため、自らのシャツが紙一重で切り取られ素肌が露わにしていた。


 それからも逃げる事を諦めず、手すり沿いを紙一重で逃げ回り、ある時は剣の切っ先でシャツを切り裂かれ、ある時は髪の毛を刈り取られ、生きた心地がしなかった。


 さすがに逃げ場を無くした敵は息を切らせながら手すりを背にすると、”こんな荷物を持っているから死にそうな目に遭うんだ”と頭に浮かんできた。

 逆に考えれば、手中に収めている大きな袋とドレスはまだ武器になると考えると、迫りくるエゼルバルドを恐れながら荷物を高く掲げた。


「く、来るな!攻撃するのならこの荷物を切り裂くぞ」


 護身用のナイフを懐から取り出し、左手で掲げた袋にそれを突き付けた。

 数回、剣を振り回し怒りが収まり始めていた為か、エゼルバルドは急に動きを止めてブロードソードを向けるに留まった。


 敵は”これで一息つける”と安堵の溜息を吐いたのだが、そうは問屋が卸さなかった。

 あれだけ暴れていたエゼルバルドが急に動きを止め、牽制に留めたかを深く考えれば結果は違ったかのかもしれない。

 そう、その場にいない、もう一人の存在を脳裏に少しでも留めていればだ……。


「ぐっ!!」


 かすかに聞こえた風切り音と共に左腕を鋭い痛みが襲った。塔が周辺の建物に比べ高いとしても、百メートルも二百メートルも高い筈も無く、姿さえ見えれば屋根の上を移動していたアイリーンの射程範囲の中に当然ながら入っていたのだ。

 敵の腕、それも肘関節を貫くように彼女が放った正確無比な一射が吸い込まれていた。それにより高く掲げていた袋を手放し足元へと落としていた。


 それに乗じ、敵の近くまで来ていたヒルダが襲い掛かるのであったが、敵は何を思ったのか、ドレスを肩に乗せたまま手すりを乗り越え塔から身を投げてしまったのだ。


 飛び出していたヒルダと言えども、敵に手を伸ばした時にはすでに遅く、彼女の手の届かぬところを地面に向かって落ちていた。


 刹那の時が過ぎる頃、手すりを越えて”グシャッ!”と鈍い音がエゼルバルドとヒルダの耳に届いた。


「うう、わたしのドレスがぁ……」


 瞳に涙を浮かべ力なくへたり込むヒルダは、今にも泣きだしそうであった。あれだけ走り回りドレスを取り返せる一歩手前まで来たにもかかわらず、この結果は余りにもヒルダには重く圧し掛かっていた。


「ご、ごめん。オレがもっと上手くやれれば……」


 悲しみのヒルダに優しい言葉一つも掛けてられぬと、優しく抱きしめるしか出来なかった。


「とりあえず、下に見に行こう。結婚式はドレスをもう一度作って挙げればいいんだから」

「……う、うん」


 ヒルダの手を取りゆっくりを立ち上がると、大きな袋を担いで彼女の肩を抱きながら塔を降りて行く。一歩一歩が重く、重い足取りは進むに時間が掛かり、上った時の三倍も時間を要した。

 それほどまでに楽しみにしていたドレスを駄目にしたヒルダの悲しみは深かった。


 塔の裏手に回ると、身を投げた敵とその傍らにアイリーンが、そして、遅れてこの場に来たスイールとヴルフ、それからエルザがそこに立っていた。


「エゼルごめん、ウチが肘じゃなく頭を射抜いてたら……」

「終わった事だ、それはもういいよ。相手が何処の誰かを調べなくちゃいけなかったんだから。アイリーンは自分の仕事をしたんだから謝らないでよ」


 ヒルダの沈んだ表情を目にして謝らなければと思ったアイリーンは、エゼルバルドからの言葉を耳にして、救われた気持ちになった。

 過ぎた事とは言え、残念な結果に終わりアイリーンも反省をしていたのである。


「そういえば、こいつはなんで身を投げたんだ?ドレスを渡せば命だけは助けたのにな……」

「おいおい、お前さんのは命だけじゃろうが。逃がすまでは考えておらんかったろう」


 ヴルフに言われればその通りで、命は助けたが逃がす気にはなれなかった。敵はそれを感じ取り、拷問を受けるくらいなら身を投げて命を絶つ事を選んだのだろう。


「確かにそうだね。仕方ないか……ヒルダ?」


 ヴルフとの会話が終わろうとしたときに、ヒルダはエゼルバルドから離れ、ドレスの下へと歩みより膝を付いた。

 彼女の視線の先には、首を折り地面にぶつけた頭皮から血を流している敵の傍らに、鮮血に染まりつつあるドレスがあった。


 そして、手を伸ばし、汚れ行くドレスをそっと手に取って、自らの服が鮮血に汚れる事も気にせず抱き寄せるのであった。


「…………ッ!!」


 だが、そこでヒルダが触った感覚は、その身に覚えている感覚ではなく、全く違う感覚をその手に感じ取っていたのである。




※ドレスを取り返したと思ったら敵が流した血で染まって行く……。

 こんな結末は……あれ?

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