第107話 王国歴二〇一五年十一月十日

 クレア様の頑張りはすさまじかった。

 臨時政府と革命政府の間を行きつ戻りつしつつ、その折衝に邁進した。

 お互いに立場を譲らない双方の話に根気よく耳を傾け、落としどころを模索した。

 日に日にやつれていくクレア様を見るのは忍びなかったが、それも長くは続かないと分かっていた私はぐっと我慢した。


 そして、ついにその日がやってきた。


 王国歴二〇一五年十一月十日。

 デモはついに武装蜂起へと変わったのである。

 臨時政府軍の半数が革命政府軍につき、武力衝突が起こった。

 戦いの趨勢は革命軍に有利と新聞各紙が報じている。


「……間に合いませんでしたわ」


 学院の窓から群衆と政府軍の衝突を目撃したクレア様は、力なく立ち尽くしていた。

 私はその手を強く握りしめながら、慰めるように言った。


「クレア様は最善を尽くしました。こうなってしまったのは、もう仕方のないことです」

「でも、わたくしがもっと頑張っていたら……」

「クレア様は十分に頑張りましたよ」

「……」


 私の慰めはきっと届いていない。

 責任感が強く、今や貴族と平民両方の気持ちが分かるクレア様にとって、この結末は耐えがたいものだろう。

 その心中は察するに余りある。


「こうなった以上、もはやわたくしに出来ることはありません。旧時代を担った貴族として、潔い最期を迎えますわ」


 クレア様は顔色を取り戻すと、毅然として言った。

 しかし――。


「いいえ、クレア様。クレア様には旧時代を糾弾する側に立って頂きます」

「……え?」


 私の言葉に、クレア様は不思議そうな顔をした。

 私はその顔を見返しながら、背を正す。

 とうとう、全てを打ち明けるときが来たのだ。


「レイ、あなたは何を言っているんですの?」

「クレア様は新時代の側に立ち、旧時代の終わりを見届けるのです」

「何を馬鹿なことを。わたくしはフランソワ家の息女。旧時代の象徴ですわよ?」


 クレア様は引きつったような笑いを浮かべていた。

 私がなにか悪い冗談を言っているとでも思っているようだ。


「クレア様。旧時代の象徴はクレア様ではありません。ドル様です」

「同じ事でしょう?」

「いいえ、違います。クレア様には、ドル様たち旧支配層――つまり貴族たちを断罪するお立場に立って頂きます」

「なっ……、何を言っていますの!」


 クレア様が気色ばむ。

 無理もない。

 私が言っていることはこういうことだ。

 すなわち――貴族たちを裏切れということ。


「旧時代を担った者たちを裏切って、わたくし一人おめおめと生き残れといいますの!? まっぴらごめんですわ、そんなこと!」


 この反応も予想の範囲内だ。

 クレア様の性格からして、こんなことをすんなり受け入れるはずがない。

 しかし――。


「これは、ドル様のご意向でもあるんです」

「……え? ちょ、ちょっとお待ちなさい。……え? お父様の?」


 私を責める声色が一気に消沈する。

 クレア様の動揺が手に取るように分かった。


「だって……、お父様は……。ど、どういうことですの、レイ!」

「この革命の流れを作ったのは、他ならぬドル様なんですよ」


 私がそう言うと、クレア様の中の疑問はなおも深まったようだった。


「あなたが何を言っているのか、全然分かりませんわ!」

「順を追って話します。長くなりますから、座って下さい」


 私はクレア様を促して、椅子に座らせた。

 クレア様は早く続きが聞きたいようだったが、とりあえず私の言葉に従ってくれた。


「クレア様もご存じの通り、王国の政治には腐敗の兆しがありました。貴族たちはそのほとんどが私利私欲に走り、権力闘争に明け暮れていました」

「……ええ。でも、それとこれと何の関係が――」

「その中にあって、この国の行く末を真に案ずる数少ない貴族がいました――それがドル様です」

「お父様が? でも、お父様は王室をないがしろにして、この国の政治を我が物にしようと……」


 クレア様がそう思い込むのも無理はない。

 ドル様の偽装工作は徹底していた。


「ドル様はご自分を犠牲にして悪徳貴族の中心となったのです。全ては今日この日、平民たちの手によって終わらされるために」

「……なんたることですの」


 クレア様が絶句している。

 平民を見下し、貴族であらねば人にあらずというようなドル様の態度も全てが虚飾。

 クレア様ですらそれを見抜けなかった。


 私は続けた。


「かつてはドル様ご自身も、貴族の現状に疑問を抱いてはいらっしゃいませんでした。それが変わったのは、クレア様のお母様であるミリア様が亡くなった時のことです」

「お母様が亡くなった時……?」


 ミリア様はクレア様が四歳の誕生日を迎えたその日に亡くなっている。

 ドル様とともに馬車の事故に遭ったのだ。

 ドル様は一命を取り留めたが、ミリア様は助からなかった。


「ミリア様の事故は、別の有力貴族によって仕組まれたことでした。謀殺だったのです」

「そんな……!」

「ドル様はその日からお変わりになりました。こんなままでいいはずがない、とお考えになるようになったのです」


 権力闘争に明け暮れる貴族というものを、ドル様は見限ったのだ。


「ドル様は悪徳貴族を演じる一方で、革命勢力を支援することさえしていました。覚えていらっしゃいますか? 私がクレア様のメイドになった日のこと」

「……ええ。確かあの時、あなたが何事かを口にして、その瞬間からお父様の様子が変わりましたわね」

「あの時、私はこう言いました。『アーヴァイン=マニュエル、三月三日、五十万ゴールド』 あれは、ドル様が密かに行っていた、レジスタンスたちへの金銭支援の内訳だったんです」


 レジスタンスの金庫番であるアーラの弟アーヴァインへの融資は、ドル様の他に誰も知らないはずのもの。

 ドル様からすれば、私の発言は思いも掛けないことだっただろう。

 私はドル様が抱える秘密を盾に、クレア様のメイドとなることをドル様に了承させた。


「人払いされた後、私はドル様にこう言いました。ドル様のおこころざしは立派ですが、クレア様を巻き添えになさるのですか、と」

「どうしてそんな……」

「ドル様はこの国の未来のために、ご自分はおろかクレア様をも犠牲にするおつもりでした。クレア様のことは心から愛していらっしゃいますが、未来のためには致し方ない、そう諦めておいでだったのです」


 そこに、私が入れ知恵した。


「私はドル様に別の選択肢を提示しました。貴族たちが打倒されても、クレア様が生き延びる道を。ドル様は娘が生き延びる道があるのなら、と私の案を採用して下さいました」


 私がドル様に提示したのは、クレア様が旧時代の貴族と袂を分かち、断罪する側に回るというシナリオだった。

 私はそれをクレア様に説明した。


「私がこれまで行ってきた色々な活動は、すべてそのためです。クレア様の名声を高め、貴族から距離を取らせ、新時代に生きて頂けるように」

「なら……なら、あなたは! 初めからこうなることが分かっていて!」


 クレア様の顔が悲痛に歪んだ。

 私は心が強く痛むのを感じたが、続ける。


「はい。革命が起きることも、その結果ドル様を始めとする貴族たちが滅びることも、それがどうあっても避けられないことも知っていました」

「そんな……私は……あなたを信じて……!」

「申し訳ありません、クレア様。ご処分はいかようにも」


 そう言った瞬間、クレア様は憤怒の表情を浮かべて私に腕を振りかぶった。

 私は目を閉じて、甘んじてそれを受け入れようとした。

 しかし、いつまで経っても、頬に痛みは走らなかった。

 目を開けると、クレア様は目を閉じる前と同じ体勢のまま、静かに涙を流していた。


「お父様もあなたも……勝手過ぎますわよ……」


 クレア様は敏い人だった。

 ドル様や私の行いは許せない。

 でも、その行いの動機が、全て自分のためであることに気づいていた。

 だからこそ、理不尽を感じていても、私たちを責めない。

 いや、責めたくても責められないのだ。


「クレア様にはこれから革命政府に合流して頂きます。アーラに話は通してあります」

「……」

「間もなく、王室が革命政府に錦の御旗を与えるはずです。そうなれば、逆賊となるのは貴族たち。クレア様には彼らの断罪をして頂きます」

「……」

「クレア様?」


 私が言葉をかけると、クレア様は返事をせず静かに立ち上がり、窓の方へと歩み寄った。

 窓の外では、相変わらず戦闘が続いている。


「ねえ、レイ。わたくしが平民になったら、どんな暮らしをすると思いまして?」


 そして、唐突にそんなことを聞いてきた。

 私は少し面食らったが、とりあえず考えてみる。


「そうですね……。最初は戸惑うことが多いと思いますよ。バカンスの時の私の家みたいに」

「そうでしょうね」


 クレア様がこちらに背を向けたまま頷くのが見えた。

 私は続ける。


「でも、すぐに慣れますよ。私が常につきっきりでお世話しますし」

「そう……。あなたも一緒に暮らすのですわね」

「もちろんですよ。クレア様のためなら張り切って働きもします」

「そうですわね。そういうことも必要になるのでしょうね」


 そこでクレア様はふと沈黙した。

 私は不安になって、とにかく言葉を紡ぎ続ける。


「犬も飼いましょう」

「猫が良いですわ」


 私の詮無い提案に、クレア様が応じる。


「庭とか欲しいですか?」

「花壇も欲しいですわね」

「子供は何人作りましょうか」

「作れませんでしょ」

「じゃあ、養子とか」

「可愛い女の子が二人欲しいですわ」


 そんなやり取りを続けている内に、私は手応えを感じた。

 クレア様も「そうですわね」と一度言葉を切ってから、


「あなたはきっと、私を不幸にはしないのでしょうね」


 そう言ってくれた。

 その口調は、まるで夢見るようで。

 ……夢?


「――すわ」

「え?」


 私は続けて発せられたクレア様の言葉を聞き逃した。


「クレア様?」

「お断りしますわ、と言いましたの」


 そう言って振り返ったクレア様の表情はさっぱりとしていて、何かつきものが落ちたような顔をしていた。

 頬はまだ涙に濡れていたが、瞳には強い光が戻っている。


「何を仰ってるんですか、クレア様。もう他に選択肢はないのです」

「いいえ、ありますわ。貴族の一員として、旧時代と滅びるという選択肢が」


 先ほどとは違い、今度は私の方が困惑する番だった。

 クレア様が何を言っているのか分からない。


「そんな……。無意味です! だって、そんなことをしても誰も喜ばない!」

「ええ、そうでしょうね」

「ドル様も……そして私も、クレア様に生きて頂くためにずっと――」

「ええ、その思いやりには感謝していますわ」


 クレア様の顔には微笑みすら浮かんでいた。

 私は背筋が薄ら寒くなっていくのを止められなかった。


「待って……待って下さい。ドル様や私が黙って事を進めたことを怒っていらっしゃるのですか? それについては謝ります。でも、素直に話したらクレア様は――」

「そんなことは受け入れられない、と拒否したでしょうね」


 まずい、まずい、まずい。

 私はなにかとてつもない間違いを犯していたらしい。

 この展開は予想していなかった。


「お父様もレイも、真にわたくしのことを案じて下さったのでしょうね。それは分かります。怒ってなどいませんわ」

「だったら、どうして!」

「だって――」


 クレア様は一度言葉を切ると、私をひたと見据えて言った。


「わたくしは、貴族ですもの」


 私は言葉を失った。


「貴族とは、有事の際に責務を果たすために贅沢を許された存在ですわ。今までわたくしがワガママの数々を許されていたのは、まさにこの日、この時に責務を果たすため」

「だから、そんなのもういいんですって!」

「いいえ。わたくしの最後の責務――それは、旧時代の貴族として平民たちの選択を受け入れることですわ」


 私は見くびっていた。

 いや、知っていたはずなのに分かっていなかった。

 クレア様がどういう人であるか。

 クレア様にとって、貴族であるとはどういうことなのかを。


「クレア様……考え直しましょうよ……一緒に新時代を生きていきましょう……?」

「ごめんなさい、レイ。こればかりはいくらあなたの願いでも叶えてあげられませんわ」

「後生です……私と約束したじゃないですか……最後まで諦めないって」


 学力試験と学院騎士団試験の時の話だ。

 クレア様は神に誓ってくれたはずなのだ。

 それなのに。


「そういえばそんなこともありましたわね。なんだか懐かしいですわ」


 やめてよ。

 そんな過去形で言わないで。


「イヤ……イヤです……。クレア様……行っちゃやだ……!」

「ごめんなさい、レイ」


 駄々をこねる私に、クレア様はそっと近づくと――。


 唇を落とした。


「約束を違えたお詫びに、ファーストキスくらいは差し上げますわ」


 ああ……、私は悟ってしまった。

 クレア様は行ってしまうのだ。


「さようなら、レイ。どうか息災で」


 そのまま、クレア様は部屋を出て行った。

 私は後を追いかけたかったが出来なかった。

 クレア様を引き留める言葉が、何一つ思い浮かばなかったからだ。


「クレア……様……」


 この結末を避けるためだけに奔走してきた。

 ずっとずっと、クレア様の命を救う、それだけのために。

 でも、全てが無駄だった。


 かつてドル様に全ての計画を持ちかけたとき、彼に言われた言葉を思い出す。


『キミのプランは非常によく出来ている。だが……娘が受け入れるだろうかね?』


 言葉にならない思いが頬を伝う。

 ファーストキスは、味なんて何も分からなかった。

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