第63話 海

「じゃあ、クレア様。まずは水面に顔をつけてみましょう」

「絶対に手を離すんじゃありませんわよ!? 絶対ですわよ!?」


 悲壮な顔をしているが、言っていることは酷く幼い。

 私ははいはいと頷いてクレア様を促した。


 クレア様と私は、私の自宅からほど近い海岸に来ていた。

 地球の日本ではほとんど見られなくなってしまったような、真っ白な砂浜とエメラルドグリーンの海が広がっている。

 さっそく海水浴としゃれ込みたいところだが、まずはクレア様が泳げるようにならなければそれもままならない。


 という訳で、クレア様の水泳教室をしている訳である。

 クレア様の金槌具合がどれほどかと確認したところ、なんと水に顔もつけられないとのことだった。

 水に怯えるクレア様をひとしきり愛でつつ、私はクレア様にまず顔をつけるように言った。

 クレア様は清水の舞台から飛び降りるかのような決死の覚悟で顔を水につけたのだが――。


「ぷはっ!」


 わずか三秒にも満たずに顔を上げた。


「どうですの!? 今、ちゃんとつけられましたわよ!」

「そうですね。十秒くらいはつけましょうか」

「なっ!? そんな高度なことを初めから要求しますの!?」

「いえ、全然高度じゃないです」


 この調子では、今日中に泳げるようになるのは無理そうだなあ、と私は思った。


 ところで、浅瀬とはいえ海に入っている以上、クレア様も私も水着である。

 クレア様は真っ赤なビキニタイプの水着に白いパレオを巻いている。

 プロポーション抜群のクレア様が着ると、本当にファッション誌のモデルさんのようだ。


 中世ヨーロッパの世界観であるはずのこの世界に現代的な水着があるのは、やはりゲームの開発者が現代の日本人だからだろう。

 これでやぼったい中世の水着なんて着せた日には、ユーザーから苦情が出るに違いない。


 もっとも、このゲームは元々乙女ゲームなので、女性陣の水着よりも男性陣の水着の方が気合いが入っている。

 今は男性陣が誰もいないから、関係ない話ではあるが。


「次は十秒を目標にしてみましょう」

「くっ……。いいですわ。ミスパーフェクトたるこのわたくしに、不可能などありませんわ」


 そう言ってクレア様は、再び悲壮な覚悟をにじませた顔で水に顔をつけた。

 どうでもいいけど、水に顔をつけるだけだよ?


「ぷはっ! 何秒でした!?」

「五秒ですね」

「くっ……。何という難易度……。一体、この世界で何人のものがそんな芸当を出来るというのかしら……」

「いや、ほとんどの人は出来ますからね!?」


 クレア様がここまで水と相性が悪いとは。

 火属性適正であることと関係してるのかな。

 ないか。


「ちょっと休憩したいですわ」

「なんのですか!? まだ二回顔を水につけただけですよね!?」

「十分じゃないですの。五秒も顔をつけられれば、そのうち泳げるようになりますわ」

「なりませんよ!?」


 私の抗議も虚しく、水泳の練習は休憩となった。


「レイちゃーん、クレア様ー。お弁当をお持ちしましたー」


 声の掛けられた方を見ると、母がバスケットを片手にこちらに手を振っていた。

 水着で。


 母は黒のワンピースタイプの水着を着ていた。

 サイドに白いラインが二本入っている。


 つまり、スク水である。


 三十ピー歳のスク水ってどうなんだろう。

 アリかナシかで言えば普通はナシなんだろうが、すでに触れたとおり母は非常に見かけが若い。

 普通に高校生くらいにしか見えないから、アリという人もいるかもしれない。


「ちょうどいいタイミングでしたわ。今、一休みしようと思っていた所でしたの」


 クレア様は渡されたタオルで身体を拭きながら言った。


「そうでしたか。何メートルくらい泳げるようになりましたか? クレア様のことですから、もう百メートルくらいは楽勝ですか?」


 邪気のない笑顔で母が尋ねる。

 彼女に悪気はない。

 悪気はないのだ。


「そ、そうですわね……。それくらいですわ」


 嘘つけ。


「ふふ、流石ですね。あ、これお弁当です。サンドイッチにしてみました」


 母がバスケットに掛けられた布を取り去ると、そこには水筒とサンドイッチが並んでいた。


「……ありがとうございますわ」


 と、礼を言うものの、クレア様の表情は堅い。

 やはり口に合わない可能性を危惧しているのだろう。


「大丈夫です、クレア様」

「?」


 私はクレア様に小声で耳打ちした。


「今日のサンドイッチはマヨネーズや辛子など、私が入れ知恵していますから」

「! でかしましたわ!」


 マヨネーズのいいところは、作り方こそ突拍子もないが材料そのものは平民でも手に入るところである。

 味は単調になってしまうかもしれないが、サンドイッチならマヨネーズさえあれば食べられない味にはならない。


「どうぞ、一口」


 そう言って母はサンドイッチを一つクレア様に差し出した。

 クレア様は恐る恐ると言った様子で一くち口に運んだ。


「! 美味しいですわ!」

「まあまあまあまあ。よかったです」


 マヨネーズ作戦は功を奏したようで、クレア様も食べられる味になったようだ。


「このまよねぇずっていう調味料、本当に美味しいですね。レイちゃん、これは都で流行っているの?」

「うん。ブルーメっていうお店が始めた調味料。貴族様の間でも好んで食べられてるみたいだよ」

「そうなの。そんな高級料理に使われている調味料を知ってるなんて、レイちゃんもクレア様にいいところに連れて行って貰っているのね」

「うん」

「……? そうでしたかしら?」


 もちろん、私がマヨネーズをこの世界に持ち込んだとは言わない。


「それにしても、クレア様はとっても可愛らしいですね。その水着も都の流行かしら」

「オートクチュールで作らせましたの。この腰に巻く布はパレオと言うのですけれど、これが今年の流行ですわね」

「はぁ……。素敵」

「お母さん、落ち着いて。今、悪癖が発動したら、クレア様が大変なことになるから」

「!」


 クレア様が慌てて我が身を抱きしめるようにして後ずさった。


「分かってるわよぉ……。意地悪ね、レイちゃんは。それにしても、レイちゃんの水着は……はぁ……」

「ちょっと、ため息付かないでくれる?」


 言いたくなかったので黙っていたが、私の水着も母と同じスク水である。

 この世界ではどうやら平民の水着と言ったらこれらしい。


「水着もそうですけれど、お母様はあんなにお胸が豊かですのに、レイは……」

「言わないで下さい。後生ですから」


 乙女ゲームの主人公の宿命なのか、私のスタイルは至って普通である。

 いや、悪くはないのだ。

 むしろ整っていると言っていい。

 ただ、いわゆる「優れたスタイル」というものには二種類がある。

 女性が考える均整の取れたファッションモデル体型と、男性が考える理想のグラビアモデル体型である。

 私は乙女ゲームの主人公なので、女性にとっての優れたスタイルをしているのだ。

 結果、スレンダーなプロポーションをしているのだが、メリハリのあるスタイルのクレア様や豊満な体型の母と一緒にいると、どうしても貧相に見えてしまう。

 私自身はスレンダーな体つきが嫌いではないのだが。


「私は成長期なので、これから大きくなるんですよ」

「まあ、頑張りなさいな」

「憐れみの目を向けるのやめてくれません!?」


 などとじゃれていたその時――。


「おや?」


 急に太陽が雲に隠れて、冷気のようなものが漂ってきた。

 気づけば、辺りは霧に覆われている。

 これは……魔力で出来た霧……?


「!? レイ、見なさい!」


 クレア様の鋭い声が飛んだ。

 その指さす方向を見ると、霧の向こう、沖合からボロボロの帆船がこちらにやってくるのが見えた。


「あれは……幽霊……船……?」


 母の呆然とした声が、そのまま私の認識そのものだった。

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