化け猫 直腸脱 Ⅱ

「直腸脱とか、膣脱とか。要するに管状の内臓が捲れ上がって出た状態ですね。普通のペットの直腸脱より、お産を頻繁にさせる畜産業での膣脱の方がよくあるんじゃないかと思います」




 直腸脱の他、大動物では膣脱というものがある。


 どちらも基本的な原因は同じだ。




 例えば腸内に寄生虫がいたり、または別の理由で便意が止まらなかった時、トイレで踏ん張っても踏ん張ってもなかなか出ない、しぶりというものが直腸脱の原因となる。


 膣脱では難産による踏ん張り続けや、胎児を無理矢理に引っ張って出産させることが原因となる。


 あとは両者に共通することだが、そもそも入口を締める括約筋が緩んでいた時だ。




「こういう症状、見たことないですか?」




 カドが問いかけてみると、竜とリリエは顔を見合わせた。


 二人は思う浮かべたものが同じなのだろうか。似たような顔をしてこちらを見てくる。




「腸が出ると言えば、ねえ?」


『うむ。腹から零れ落ちるものよな』


「なんでしょうね。平穏なトイレでの悲劇と、苛烈な戦場での悲劇。真逆じゃないですか」




 あっけらかんと言う二人に対し、カドはげんなりとした表情を返した。




「まあ、この化け猫は物理的な衝撃とかが不運にも重なって飛び出しちゃったんですね。なくはないことだと思います」




 カドが顎を揉んでいると、竜とリリエがじっと見つめてくる。


 二人は改めて知ったこの症例に特別な治療法でもあるのかと興味を持った顔だ。




「事故で偶然出たのなら再発はしにくいと思います。予後はこうやって粘膜が脱出してからどれくらい時間が経っているかによりますね。飛び出た粘膜を括約筋が締めて怒るうっ滞や、粘膜表面の乾燥が進んでいるとその部分は壊死しちゃいます。そういう時は駄目になったところを切って、正常な部分を縫合しなきゃならないから大事ですね」




 ある程度のところまで見定めたカドは、さてと息を吐く。




「これから痛いこともするので麻酔を使わせてもらいます」


『麻酔? 痛み止めのことか? そのような物、いつの間に用意したのだ』


「リリエさんの厨房を借りた時に使ったスパイスから毒素生成で複製、濃縮してひとまず使えるようにしました」


「ひゃいっ!?」




 一体どうやってと自らも疑ってかかっていたリリエは、カドから指摘を受けて酷く慌てた。


 竜からは、お前はそんなものを厨房に……と、呆れも通り越した感情を向けられ、さらに狼狽した様子を見せる。




「えっ、ちょっと待って!? いくら私でも毒なんて調理には使っていないわ。ねえ、カド君。悪い冗談はよして!?」


「いえ、厨房の物体を利用しました」


「物体……!?」




 あらぬ疑いだと必死に訴えようとしていたリリエは、カドの無慈悲な再肯定を受ける。それによって、竜からはより冷ややかな眼差しを向けられた。


 リリエは否定の根拠がなくなって押し黙る。


 そんな彼女の浮き沈みも気にすることなく、カドは続けた。




「あのピリピリしたスパイス。僕の世界だと山椒って呼ばれるものが凄く近いんですよね。あれは辛味ではなくて実際には痛覚の痺れで、高純度に抽出できれば自然由来の麻酔成分にもできるんじゃないかって話もありまして」




 しかし、費用対効果的に従来の薬をなかなか凌駕できないために有名にはなっていないものだ。


 それを伝えてみると、リリエは勝ち誇った顔になる。




「ほ、ほら見なさい。私は毒物なんて使っていなかったわ。あれは世間でも広く使われているスパイスよ!?」


『汝は人を殺すほどに凶悪な辛さの食物を好いていた故、さもありなんと思ったのだが』




 リリエのズボラさ、辛党なところがあらぬ疑いを生んでいたらしい。


 二人はなんやかんやとまだ争っているが、カドとしてはどうでもいいところなので一人元の話に戻す。




「というわけで、毒素生成で作った麻酔を腕に打って試したんですよね。自分の魔力で作ったものなので、効果さえ確認できれば残留性もなく消せて便利でした。麻酔を魔法で作って自由に消せるとか手術の適応年齢とかが物凄く広がりますよ。恐ろしいメリットです」




 例えば壊死毒や出血毒のように細胞が壊れる作用もあればこうはいかなかった。


 局所麻酔といえば神経を破壊するのではなく、痛みの電気信号を伝えられなくすることで効果を発揮している。


 それをなしていたものが消えれば麻酔の効果も消え失せ、何事もなかったかのような結果しか残らないのだ。




 しかし竜とリリエにとっては自分の身に毒を打って試したとしか伝わらなかったらしい。


 呆れや驚き、心配がない混ぜになった表情を向けられる。




『毒を己で試すなど、命知らずか』


「まあ、自分にも使える安全性じゃないと実用には耐えないですし」


「もし何かがあったらどうするつもりだったの?」


「食用にされてきたものですし、消せますから。麻酔無しで手術をするリスクよりはマシだと思ったのでひとまず使えるようにしておきたかったんです」




 自分には医療という持ち味はあるものの、それを活かすための準備を全くしないというのはありえない。


 丸裸のままでも呑気にする戦士なんていないのと同じである。




 それにこれからは冒険者の街にも行くことになる。不測の事態が起こった時に取れる選択肢は増やしておいて損はないだろう。


 リリエの心配は尤もだが、これでもまだ足りないくらいだ。




「治療を今後行うのなら麻酔、鎮痛剤、抗生物質、ステロイドはどうにか確保したいところですし、どうにか研究しないと……」




 カドはぽつりと呟く。


 前の二つはともかく、抗生物質とステロイドについては全く未知であるらしく、竜とリリエはまた疑問顔である。




「こちらの話です。今はこの子の処置をしましょう。ドラゴンさん、痛みを抑えるためにちょっとチクッとするので、それを伝えて猫の体を押さえてください」


『良かろう』




 竜に代弁してもらうと、化け猫はフギャッと鳴いて逃げようとしたが、竜が押さえ込む方が早い。


 カドはその隙に毒素生成によって作った麻酔を指先に集める。


 こうして作った毒素は飲ませることにも使えるが、血流操作と同じ要領で形を維持することができるのだ。




「……っ」




 しかし併用しようとした途端、ずきんと頭痛が走った。


 これはアルノルドを血流操作や操作魔糸で延命している影響だ。


 用途を規定する使い始めに最も魔力を消費し、あとは燃料としての魔力と最低限のコントロールで済んでいるのだが、こうして併用をすると流石に響くようだ。




 深呼吸をして集中し直したカドは再度、毒素生成を発動した。


 それで化け猫の脱出した腸の周囲にチクチクと刺し、少しずつ注入していく。


 数分もすると局所麻酔としての効果を発揮したらしい。カドが革手袋をはめた手で触れても反応がなくなった。




「はーい、じゃあ触診して状態を確認していきますね」




 こんな場所に手をやられるなんてどんな生物でも嫌だろう。


 しかし竜による押さえと局所麻酔でどうにかなる。オアーと不機嫌そうな声を漏らされるが、それまでだった。




 触診しなくてもわかることだが、化け猫自身が舐めていた影響で直腸粘膜は少し充血していた。


 けれども脱出してからそれほど時間が経っていないらしく、粘膜表面はまだ湿っている。




 カドは革手袋をはめた手で脱出した部位を触ると、その炎症の具合や押し戻せるかどうかを確かめていった。


 こんな作業は特異も特異なのだろう。リリエはうわぁという言葉すら発せられない様子で顔をしかめていた。




「うん。これならただ押し戻せばちゃんと血が通ってじきに腫れも引くと思います。本当は潤滑油的なものがあればよかったんですけど、仕方がないのでこのまま戻しましょう」




 炎症で腫れた部位を押して戻そうとするのだ。局所麻酔がなければ暴れて整復どころではなくなっていただろう。


 なんとか押し戻してみても再脱出の気配はない。


 それを確かめたカドは最後にふむと唸る。




『どうしたのだ。もう処置は終わったのであろう?』


「そうなんですけど、再脱出を防ぐための処置はどうしようかなと思いまして。本当なら腸がまだ腫れているから、普通の便をするとなるとより一層踏ん張ることになります。だから安定するまでは下剤で軟便にしつつ、肛門を巾着みたいに狭める縫合をして再脱出を防いだりするんですよね。もしくは筒を入れ込んで縫い止めるとか、本当に酷ければ直腸をお腹の中で縫い止めるとか」


「筒を、刺すの!? お尻に!?」




 リリエはそれは信じられないと言いたげに目を瞬く。


 驚きもあるが、人間の発想はやっぱり凄いと小声で漏らしているように聞こえたのは気のせいだろうか。




「あ、はい。うんちを通しつつ、腸がある程度安定するまではそういうのを入れっぱなしにするって処置がありますよ」




 こんな手法が人間でも実践されているのかは知らないことだが、少なくとも動物業界でなら特殊な一例でもなくありえることだ。




「質問なんですけど、もう他の階層に移りますか?」




 カドは使い物にならなそうなリリエではなく竜を見つめる。




『否。この階層にはまだ他の幻想種も見えた。それらにも望みはあるだろう』


「なるほど。それならこいつについてはこのまま予後観察にしましょう。腫れも少なかったですし、しぶったり筋肉の衰えだったりもしていないから多分大丈夫だと思います」


『左様か。ではこれは離すとしよう』




 竜が前脚での押さえをどけた途端、化け猫は森に逃げた。


 これは完全に嫌われただろう。これが二層の魔力を持った幻想種でも無駄足になっていたに違いない。




 まあ、逃げたものについてはもういい。幸い、竜が他に見当を付けてくれているらしい。


 カドは彼に問いかける。




「僕には見当たらなかったんですけど、どこにいるんですか?」


『そこな森に、魔素が安定しておらぬサラマンダーがいる。同様に治療をするのだな?』


「もちろんです」




 カドが頷きを返すと、竜は先を歩いて案内を始めた。


 しばらく進むと竜が立ち止まり、何かを見るため目線を下げている。




 その視線を追ってみると、赤いオオサンショウウオが地面でのけぞっていた。


 開口呼吸をし、いかにも苦しそうである。


 これだけでは状態がよくわからないのだが、全体像を見たカドは腹部に注目した。妙に膨れているのが見て取れる。




「ふーむ。レントゲンでもない限りは確定診断ができないんですけど、まさか卵詰まりとか……?」




 カドは膝を折り、その状態をより観察し始めるのだった。

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