第75話 この木陰の下で

 今日は金曜日。


 始業式後の特別編成授業期間も今日で最後と言う事で、本日は短縮授業になっており午後からの授業も無く下校となる。

 野江先生の話だと、同じ敷地内にある大学、及び隣県の幼稚舎と小中等部も合わせた新年度恒例の合同職員会議が行われると言う事で勿論部活も中止で、生徒会である俺達以外の生徒は既に帰宅していた。


 元々この学園は高等部のみから始まり、その後隣接して大学が設立され、今では隣県に幼稚舎と小中等部が有ると言う。

 この情報は日曜日にポックル先輩が家に遊びに来た際に聞いた話であり、ポックル先輩自身幼稚舎の頃より刻乃坂学園に通っているとの事だ。

 その時、弟達もと言っていたので、ウニ先輩とドキ先輩もそうなのだろう。

 それがまさか三つ子とは思わなかったけどね。

 恐らくその下の千晶ちゃんと言う妹さんも今中等部に通っているのかな。

 ドキ先輩の件で、俺にお礼参りをしようと企んでいるようなので出来れば会いたくないなぁ。


 そして今、俺は一人、誰も居ない中庭に立っていた。

 帰宅命令の出ている生徒は勿論、教師達さえ既に大学側にある大講堂の方に移動しており、高等部であるここには現在生徒会室に居る皆以外誰も居ないだろう。

 なので中庭は現在俺の貸切だ。


 何故俺が一人で中庭に居るのかと言うと、昨日のオリエンテーションの時間に本日提出の書類配布が有ったらしいのだが、俺はその時まだ学園長室に居た為、全く寝耳の水の状態で先程のHRの際に初めてその事を知る。

 どうも本日の合同職員会議で使う書類らしく、それまでに書き上げないといけないようだ。

『ごめ~ん忘れてたわ』と言う野江先生の言葉と共に渡された書類は記載項目が地味に多くて眩暈がした。


 ハハハッ、このうっかり屋さんめ!


 しかし、野江先生って結構うっかりミスが多いよね。

 そんなうっかり水流ちゃんの仕業によって、宮之阪と八幡は先に生徒会室に向かって貰い、俺だけ教室に残りせっせと書類を書いていたと言うわけだ。

 そして職員室で迫り来る合同職員会議の開催時間に焦っている野江先生に復讐する為、わざと勿体ぶって書類を渡して、それにより涙目になって『後で覚えておきなさいよ~』と言う捨て台詞を吐きながら走って遠ざかるその後ろ姿に満足した俺は、生徒会室に向かって歩き出す。

 その途中、ふと中庭を見ると緩やかな風に緑に生い茂った枝葉を震わせている、一本の大樹と言っていい程の大きな木が立っているのが見えたんだ。


 この木は刻乃坂学園のシンボル。

 学園案内には元々この木の横に最初の校舎を建てたのが始まりと有り、まさにこの学園の象徴であり歴史の生き証人と言うべき存在だ。

 創始者の旦那さんの手記に挟まっていた写真にもこの木が度々映っていた。

 

 昨日ギャプ娘先輩と一緒に見たよな。

 そして、先生に見付かって逃げ出したっけ。


 春の心地良い日差しの中、優し気に揺れている緑の葉々を見ていたら、何故か強い既視感が湧いてきて、気が付くと俺はこの木の側に立っていた。


 何故だろう……? この木の肌触りに覚えが有る?

 見た目だけなら手記の写真だけじゃなく、入学式の後の校内散策の際や火曜日の学園内巡りの時にも近くで見ている。

 しかし、この手に馴染む感触は何故だかとても懐かしく、記憶の奥底が揺さぶられた。

 ただ、それは別段嫌な物ではなく、とても優しい気分にさせてくれる。

 日光を優しく遮るこの木陰の下で、俺はこの懐かしくも愛しく感じる木に手を当てて目を瞑る。

 入学するまでこの学園に来た事が無いと思っていた俺だが、親父の母校なのでもしかすると小さい時に連れられて来た事が有ったのかもしれないな。



「あら? あなたは高等部の生徒ですね? 本日生徒は下校指示が出ている筈ですが?」


 懐かしい感触の欠片を記憶の奥底に落ちていないかと探っていると、突然誰かに後ろから声を掛けられた。

 この誰も居ない静寂の中、誰なんだろう?

 凛としたその声は厳しさの奥に慈愛に似た温かさを感じた。

 声から女性……、しかもかなり高齢である事が推測される。

 俺はその声の主を見極めようと振り向く。

 そこに立っていたのは着物姿の女性、そして推測通りかなりの高齢のようだ。

 しかし、その立ち姿は声と同じく凛とした佇まいで、年齢を感じさせない気品さが有った。

 ただ、立ち姿とは異なり、その表情は何かひどく驚いたように目を見開いている。


「あの……? どうかしました?」


 俺の顔を見た途端の事だ、俺の事を知っている人なのだろうか?

 しかし、残念ながら俺にはこの人に心当たりが無い。

 俺が引っ越す前の知人なのか?

 知り合いのお婆さんと言うと駄菓子屋の鬼婆ぁくらいしか記憶にないけど……?


「も、もしかして、こう……さん?」


 そのお婆さんはか細く震えながら俺に対してそう尋ねる。

『こう……』? 最後が聞こえなかったけど、光一と言おうとしていたのだろうか?

 ならやはり知り合いなのか。

 俺は『はい、そうです』と言おうとしたが、お婆さんは急に俯き首を振った。


「そんな訳無いわね。……ごめんなさい。少し懐かしい人の面影と重なったのよ」


 あぁ良かった。

 その言葉からすると知り合いではなかったようだ。

『はい、そうです』なんて言ってたら大恥かくところだったよ。


「懐かしい人ですか。すみませんその人じゃなくて」


 謝っても仕方無いのだけど、一瞬何かとても残念そうな顔をしたので、少し申し訳無いと言う気持ちになってしまった。

 俺がそう言うとお婆さんは優しく微笑み首を少し振る。


「ふふ、良いのよ。そんなに気にしないで。その人はもう居ないの。懐かしくて私の大切だったあの人……。そう、あれはあなたくらいの歳の頃だったわね。丁度この季節、そしてあなたの立っているこの木陰の下で、今と同じように振り向いて……」


 そう言うと、何かを懐かしむようにお婆さんは目を閉じる。

 大切な人との出会いの風景を思い出しているのだろうか?

 その瞳にうっすら涙が浮かんでいた。


「あら嫌だ、ごめんなさい。恥ずかしい所を見せたわね。普段はこんな事は無いのだけど、何故だかあなたを見てると言葉が零れてくるわ。 で、あなたはここで何をされていたのですか?」


 涙を手で拭いながら、少し恥ずかしそうにお婆さんはそう言った。

 その声は最初の凛とした厳しい色は無く、奥に潜んでいたと思われる慈愛が顔を出しおり、とても優しい口調になっている。


 え~と、ここに居た理由?

 まぁこの木が気になったのは有るけど誰も居ない中庭に居る原因は野江先生だよな。

 俺は担任のうっかりミスで先程まで書類を書かされていた事を説明した。


「あら、大変ね。フフフ、本当にうっかりした先生だこと」


 お婆さんは俺の話を聞いて、楽しげに笑っている。


「でも頼りになる良い先生なんですよ。その後廊下を歩いていたんですが、何故かこの木が気になって中庭まで来てしまったんです」


 一応うっかり水流ちゃんのフォローはしないとね。


「そう……、あなた、この木の事を好きかしら?」


 お婆さんは俺にそう聞いて来た。

 そう言えばギャプ娘先輩も昨日同じ事を聞いて来たっけ。

 結局感想を言いそびれてしまったけど。


 好き……か?


 そうだな~? 今までここまで近付いた事も無かったし、特に意識はしていなかったけど、この手に馴染む懐かしい感触。

 優しく包んでくれる様な木陰、そして見上げるときらきらと輝く木漏れ日。

 どれもがとても素敵に感じる。


 うん、好きだな!


「好き……、だと思います。それにきらきら輝く木漏れ日を見上げながら、この木陰の下で寝転んだら最高でしょうね」


 地面は綺麗に整備された芝生なので寝心地も良さそうだ。

 多分実際にやっている生徒も居るんじゃないだろうか?

 俺の言葉にまたもやお婆さんは言葉を失っているようだ。

 しかし先程より短く我に返り、嬉しそうにほほ笑んでいる。


「そう、そう……」


 何かを噛みしめるようにそう言って頷いた。


「じゃあ、この学園は好き?」


 今度はこの学園に付いて聞いて来た。

 この学園に関してはすぐにでも声高に言える。


 うん、大好きだ。


 クラスメイトに生徒会の皆、それだけじゃない部活巡りでは色々な先輩達の熱い想いを聞いた。

 一癖も二癖も有る先輩達も居るけど、誰も彼もこの学園を愛し、元気に夢を持って青春を謳歌していた。

 創始者の旦那さんの言葉じゃないけれど、この学園の魂はいまだに次代に受け継がれているんだ。

 入学して一週間しか経っていないけど、俺にとってはもう母校と胸を張って言えるんだ。


「勿論です! 訳有って沢山の先輩達と交流する機会が有ったんですが、皆この学園の格言にある『清廉たれ、そして精練なれ』の言葉通りの素晴らしい人達でした!」


 俺はお婆さんに熱弁する。


「ありがとう。その言葉を聞けて嬉しいわ……」


 お婆さんは俺の言葉に涙ぐみ、何故かそう言うと俺に対して頭を下げた。

 何で頭を下げるんだろうか? 頭を下げられるような事はしていないんだが……。


 お婆さんは下げた頭を上げると、改めて俺を優しい顔で見詰めてきた。

 暫し後、ふとその表情が消え、急に俺の顔をしげしげと値踏みするように見てくる。

 そして、もっと良く見ようとしてなのか、俺に近付いてきた。


「……やっぱり似ているわね。・・・・・・いや似過ぎているわ」


 何やら真剣な顔をして、俺の顔から何かを思い出そうとしているようだ。

 何だろう? やはり知り合いだったのだろうか?


「まさか、あなた……」


 俺の顔を見ながら何かを考えていたお婆さんだったが、何かを思いついた結果を俺に尋ねようとした時、辺りに大きい声が響いた。


「ミトセ様ーーーー! ここに居られましたか! お探し致しましたよ」


 突然響いたどことなく古式ゆかしい口調のその声にお婆さんはおろか俺も驚いて、その声の方に目を向ける。

 そこに立っていたのは、歳は20代半ばと言った感じの黒スーツに身を包んだ一人の女性だった。

 髪は黒髪、長い髪をポニーテールで纏めてある。

 顔は美人であるのだけれど、必死にこのお婆さんを探していたようで厳しい顔をしており、その纏っている雰囲気にただ者でないと言う印象を受けた。

 そのたたずまいからは本気モードのドキ先輩か、半ギレお姉さんに匹敵する圧力を感じる。


「あらあら、紅葉。年頃の女性が大きな声ではしたない。ごめんなさい、びっくりさせたわね。あの子は私の付き人の紅葉と言うの。真面目なのは良いのだけど、ちょっと頭が固い所が玉に瑕なのよ」


 お婆さんは俺にそう説明する。


「何を言ってるのですか! 頭が固いのはお互い様です。学園に着くなり居られなくなるのですから、気が気では有りませんでしたよ」


 紅葉と呼ばれたその女性は付き人と言う事だが結構辛辣な言葉でお婆さんに返す。


「何故か急にここに寄りたくなったのよ。お陰で良い出会いが出来たわ。ああそう言えばあなたお名前は?」


「えぇ、俺の名前は――」


「ミトセ様! もう始まっていますので、その様な事はまたの機会にしてください!」


 俺が名前を言おうとしたら紅葉さんに遮られてしまった。


「ええ? もうそんな時間? 仕方無いわね。じゃあ、今は急ぐので、またお話しましょう。ではご機嫌よう」


 お婆さんはそう言って、お付きの人と共に大学の方を向かって歩き出す。

 俺は、やはり年齢を感じさせない様な頑健な足取りで歩くその後姿を見送った。



 優しくて元気なお婆さんだったな。

 しかし誰なんだろうか?

 あの気品、それにかなりの高齢だ。

 しかもお付きの人まで居て、ミトセと言うこの名前の響き……。

 その条件に一人心当たりが浮かんできたのだが、今まで聞いていた話と先程までの優しい雰囲気とは大きくかけ離れているので、俺はその疑念を振り払い生徒会室を再び目指した。


「そんな、いや、まさかね……?」


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