第六章

6-1急転直下

「ふむ。もしかすると、どうもしなくていいかもしれないな」

 銀がとんでもないことを言い出した。何言ってんだ、こいつ。

「え……? いや、なるほど。そういうことね。星が綺麗だものね」

 香子もわけのわからないことを言いだした。暑さでおかしくなったか?

「そんな明治の文豪みたいな表現でけむに巻かないでくれ」

「あら、漱石のことかしら」

 漱石のことかしら、って友達かよ……。

「学生に、I love youは『月が綺麗ですね』とでも訳しておきなさい、と漱石が言ったとされる証拠はまだ見つかっていないのよ。逆に、さっき私や銀が使った『月並み』という言葉を『平凡な』という意味で使い始めたのは漱石だと言われているわ」

 そうなのか、知らなかったぞ。さすが日本語日本文学科日本文学専攻なだけある。……いや、今はそんなことどうでもいいんだよ。なんでどうもしなくてもいいんだ?

 理解できないでいる俺に、銀がヒントを出す。

「土橋、時計を見てみろ」

「は? 時計……?」

「いいから、見てみろ」

 言われた通り、時計を見る。針は七時十二分を指しているが、それが一体なんだと……いや、そうか!

「宗麟さんが迎えに来てくれる時間だ!」

「あぁ。だから、じきに水野か狭山さんがこのドアの向こうまで来てくれるだろう」

「桂介も理解できたようね。……でも、銀が止めてくれてなければ、闇雲にこの森をさまようところだったわ。私もまだまだね」

 香子の顔が曇る。珍しいこともあるものだ。しおらしくなっている香子は、儚げで今にも砕け散ってしまいそうだった。

「とりあえず、無駄な体力を消耗しないように待機だ」

 しおれている香子に代わり、銀は待機の指示を出して、自分は俺たちを閉め出した金属のドアにもたれかかるようにして、地べたに座った。

 長い脚を組んで投げ出し、腕を組んで星空を見上げるその姿は、男の俺から見ても正真正銘の男前だ。

 もう腹が立ってくるね。同じ男なのにどうしてここまで俺と差ができるんだ。まずその身長を分けてほしいぜ。なに食ったらそんなデカくなるんだ。俺の身長は169センチで止まったぞ。せめて170センチまでは伸びろとどれだけ念じたことか……。いや、それでも小さいんだが、そこは気分の問題なのだからしょうがない。

 醜い嫉妬に狂いつつふと左へ視線を移すと、そこにはまだうつむいたままの香子がいた。

 最後のドアを開けたのは香子だった。そのドアを離してしまって洞窟から閉め出されて、中に歩美と狭山さんが閉じ込められたままになってしまったことに、学生相談所の所長として少なからぬ責任を感じているのだろう。

「香子、ちょっと向こうまで行ってみようぜ」

「え? 何よ、急に……」

 香子が怪訝そうな顔をする。

「銀、ちょっとここ、任せてもいいよな?」

 俺の言葉に銀はフッと笑って頷いた。

「どういうことよ……」

「まあまあ、いいからちょっと行こうぜ。別に変なことはしねぇからよ」

「何よ、もう……」

 俺はなかなか首を縦に振らない香子の肩を掴み、半ば強引に連れ出した。

 さっき広場を見渡した時、洞窟の出口になっていたドアからは少し離れたところに大きめの切り株が残っているのを俺は見つけていた。そこに香子を座らせてその隣に自分も腰を下ろした。

「一体どうしたっていうのよ」

 香子は不満気だ。

「お前がしょぼくれてるみたいだったから、ちょっと連れ出しただけだよ」

「……桂介にそんな心配されなくても大丈夫よ」

 強がっちゃって、まったく……。

「ずーっと下向いてたら心配もするぜ」

「…………」

 香子は口を尖らせて黙る。

「責任感じてるんだろうけどさ。全部が全部、香子のせいじゃないだろ。それに、全く手詰まりで途方に暮れてるならまだしも、他力とはいえなんとかなりそうなこの状況で、しょぼくれてたってしょうがないだろ」

「でも……」

「でも、じゃねぇの。ほら、上向いてみろよ。こんな星空、東京で見られるなんて貴重じゃねぇか。どうせ今の俺たちにはなんもできないんだからさ、星でも眺めてたって変わんないだろ」

「はぁ……、わかったわよ」

 溜息をつきしぶしぶといった感じで、香子は空を見上げる。

「……綺麗よね、本当に」

「なんだよ、香子だって月並みな感想になってるじゃねぇか」

「いいのよ、私は。あなたと違ってちゃんと語彙力はあるのだから」

 なっ、なんだと。急にディスってきやがって……。

 だが、いつもの調子に戻ったみたいだな。

「それでもね。この星空は私の語彙力じゃ形容しきれないわ。何を言ってもせつな表現になってしまいそうなのよ。だから、余計なことは言えないわ」

 なるほど。それは言えてるな。ワインのソムリエが言う、熟成がどうのとか、口当たりがどうのとか、正直聞いてても何言ってんだこいつ、としか思わないことあるしな。本当に素晴らしいものを形容するときは余計なことは言わなくていいんだって、俺も思うぜ。美味しいものを飲み食いしたら美味しい、綺麗なものを見たら綺麗、それで充分だよな。

「はぁ、しかし暑いわね。もう日も沈んで大分経つはずなのに」

 そう言って香子は頬を伝う汗を拭う。その拍子に軍手についていたのであろう泥が、香子のツヤのある綺麗な頬に線を引いた。

「香子、軍手の汚れが顔についたぞ」

 俺は鼻で笑いつつ自分がはめていた軍手を外し、香子の頬に手を添えて指で汚れを拭いとってやった。

「……んっ、い、いいわよ。自分でやるわ」

 香子は顔を背けてシャツの袖口で顔を拭った。

「へっ、もう取れてるから大丈夫だよ」

「そ、そう……?」

 ――パキッ。

 突如背後で枝を踏み折る音が聞こえて俺たちは振り返った。

 完全に油断していたので心臓が飛び出そうになった。香子なんか俺の腕にしがみついている。だがその感触を楽しむ心の余裕はない。

 俺は音の主に声をかけた。

「だ、誰か、いるのか……?」

 数秒の間をおいて、俺たちの背後にそびえていた大きなイチョウの樹の陰から、ぴょこっと顔を出したのは、まだ洞窟に閉じ込められているはずの歩美だった。

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