青春編
前半<中学生編>
第30話 ケンカから始まるアオハル
春の日差しが街を温める朝、一般財団法人立並児童養護施設の居間で、今日もステップの音がしている。甘い匂いをまとう風が、居間の白いカーテンをふわふわと揺らす。テレビからはジャンジャンというテンポのいい音楽とダンスの映像が流れている。テレビの前で踊る俺の姿が、居間の壁にある全面鏡に写っている。
カゴにかけていたタオルを手に取り、頬を伝う汗を拭った。洗面所で顔を洗い、服を着替え、今日も事務所に行く準備をした。
「おはよう、唯君」
「はよ、佳代。充瑠」
「あよっ」
4月で高校3年生になる佳代が、3才になる充瑠を抱えて廊下を歩いていた。一緒に食堂に向かって歩いていると、充瑠は両手を伸ばして俺の袖をぎゅっと握って笑っている。佳代の腕からぐいぐい動いて俺の胸に入ってくるので、今度は俺が抱きしめた。
その時、後ろから俺の腰にガバッと抱き着いてきたのは、4歳のみこだ。今日もつやつやの黒髪が朝日に光る美髪だった。
「おはよう。みこ」
「おはよう、にいに」
ニコッと笑う顔は愛らしいお花のようだった。みこは俺の裾を握って一緒に歩いた。しばらくすると、階段をダダダと勢いよく駆け降りる音がした。振り返ると、「おっはよう!!」という朝からハイテンションな声がした。小学6年生になる泰一だ。
「はよ、泰一」
「みこちゃん!一緒に食堂に一番乗りしよっか!」
「キャー!」
泰一はみこを持ちあげて走って行った。俺と佳代、充瑠が食堂に入ると、先に行った泰一とみこ、それから中学3年生になる文子が既に座っていた。
「唯我、おっそーい」
「お前より早く起きてるよ」
「知ってるっつーの」
眼鏡をかける文子は、今日もニッとブサイクに笑った。皆が席に着いた頃、水が欲しくて調理場を覗いた。キョロキョロと見回したが、優里子はいなかった。人数分のコップと水を持って席に着くと、ガキたちが俺の後ろの方に向かって「おはよう」と言った。振り返ると、そこに優里子がいた。
「おはよう、唯我」
「……はよ」
調理場のお手伝いを終えて来た優里子からは、おいしそうな匂いがした。ポニーテールが揺れ、耳のピアスがキラリと光る。「皆、おはよう」と笑う横顔は、小さい頃の優里子の顔と変わらない。そこに安心感を感じると同時に、胸の奥でドキッという音が鳴る。
俺は昔から、優里子のことが特別好きだった。
「唯我はご飯食べたら事務所でしょ?もう準備は済ませてあるの?」
「ああ」
「わかった。歯磨きしたら、玄関集合ね」
「ああ」
テーブルの上に食事が並ぶと、施設のガキたちは手を合わせて「いただきます」と言った。
「唯我、おはよう」
「おはよう、施設長」
食事を終えて荷物をまとめ、職員室を覗くと、施設長は微笑んだ。施設長は優里子の父親だ。いつも優しい施設長が、俺や施設のガキたちの父親のような存在だ。
「これから事務所でレッスンだね。頑張りなさい。気を付けて行くんだよ」
施設長の「頑張りなさい」という言葉は誰よりも特別だ。聞くたびに背中を押されて嬉しくなる。
「うん。行ってきます」
泰一とみこの見送りに手を振り玄関を出ると、車を止めて待っている優里子がいた。
「行こっか!唯我!」
「ああ」
この施設で生活するガキたち、職員の皆が俺の「家族」で、「家族」と呼べる人たちと温かい毎日を過ごしていることは、とても幸せなことだと思う。「家族」と過ごすことは当たり前だという人は多いかもしれない。けれど、俺自身にとって誰かと過ごすことは、決して当たり前とは言えない。
生まれて間もない俺は、「小山内唯我」と書かれたレシートを握って、クリスマスの日にこの施設の前に捨てられていた。泣くことしかできなかった俺を施設長が拾い、当時9才だった優里子や施設の人たちが俺を育ててくれたのだ。
親の顔なんて一生知る必要はないし、この生い立ちを施設の人以外に知ってもらう必要もない。大事なことは、はっきりした目的を持ち一生懸命頑張ること。
俺はジェニーズJrになって4回目の春を迎えた。ジェニーズの誰よりもダンスが上手い奴になりたいし、活躍する俳優たちにも劣らない演技を身につけたい。そして、ジェニーズの活動をすることで、施設を支える一人になりたい。そのために、この幸せな日々を費やしたいと思う。
****
それは、6月末に公開する予定のジェニーズ事務所の自社映画の一場面だった。
― 今宵、この城に集まりしジェニーズJrに用意されたステージはただ一つ。
想いを一つにした者のみが上がることを許される極上のステージ ―
『ステージが欲しくば、城の最上階におわす
集まったキラキラ衣装のジェニーズJrたちは、その部屋の前でたじろいだ。
「最上階に上がるには、807号室の住人に会わねばならない」
「807号室の住人だって?」
「噂では大のJr嫌いって話だ」
「そうさ。勝手にこの扉を開くことは決して許されない……」
そして美しい装飾に彩られた「807号室」の扉は開かれた。
「おや?この部屋の扉が勝手に開いた。不思議なこともあるもんだ。ねえ、唯我」
静かな口調で語る視線が、赤いまつ毛の奥から落ちてくる。青い瞳は潤み、細い指先は俺の輪郭を撫で、あごを上げた。
「いつから俺以外を簡単に通すようになったんだ?樹杏」
「ふふ。戯れに、宵が初めて……」
しばらく沈黙し、静止。見つめ合う。
……早く、早く!早く終われ!
辺りにはイライラとして張り詰める空気が漂っていた。特にイライラしていたのは、監督の千鶴さんだった。
「カット!唯我あっ!」
「はいっ!すいません!!」
「何度も同じ言葉を言わすなっ!」
「す、すいません」
それはスタジオに作られたきらびやかな「807号室」での撮影だった。監督の千鶴さんが声を上げたのも、これで何十回目だろうか。
樹杏に指であごをクイッと上げられて、見つめ合う。樹杏の青いビー玉みたいな瞳には底がなく、赤く透けるまつ毛は長くてキレイだった。それを見ているだけでもドキドキするのに、何よりドキドキさせるのが顔の距離だ!鼻がほぼくっついている。誰かが背中を押したらキス出来てしまう!この近さのおかげで、俺は5秒もこのシーンをもたせられない。
俺の緊張と照れくささなど関係ないと、樹杏は千鶴さんが大声を出すたびにクスクス笑った。
「唯我、顔真っ赤あ。ぷぷぷ」
「うっせえ」
「お前ら、とりあえずその格好のままダンスのシーンやるぞ。唯我はちゃんと集中しろ」
「……はい」
情けない気持ちのまま、次は俺と樹杏で踊るシーンに入った。衣装は樹杏が赤、俺が青の王子様衣装だった。ピッカピカで、金ボタンをしっかりつけて、肩章をフリフリ揺らして腕を伸ばしてステップした。そして、またもイライラする千鶴さんは叫んだ。
「カット!樹杏んっ!!」
「はいっ!」
「お前マジで練習してきたんだよなあ」
「はいっ!すみません!出来てないって、自覚してます!もう一回お願いします!!」
樹杏は「あそこはこうして、あれして……」と呟きながら深呼吸して、もう一度最初のポジションに入った。背中合わせになった時、俺は嫌味を言った。
「樹杏の下手くそ」
「唯我がレベル高いんだよ!一緒にやるこっちの身にもなれって話だよ」
珍しくイライラしている樹杏は「はあ」とため息をついた。その態度がかなりムカついた。
「そんなのこっちのセリフだ」
「はあ?何言ってんの。芝居にちゃんと入れてないのは唯我の方だろ?僕のせいみたいに言って!」
「お前がそういう言い方したからだろう!?」
「だから、そうやって人のせいにする唯我が悪いんだよ!」
「お前が悪い!」
とうとう言い合いになり、俺たちは撮影できる状態ではなくなった。見かねた千鶴さんは、文字通り俺たちの首根っこを持ち上げた。
「てめえら、帰れーっ!!」
俺たちはスタジオの外に放り出された。体をお越し、樹杏と目を合わせたが、腹が立ってそっぽを向いた。
「唯我、お願いだからちょっと集中してよ。あのシーンで、あんなニヤ顔さえしなければオーケーなんだよ?」
「ニヤ顔言うな。わかってるよ」
「わかってないから言ってんの」
「お前こそ、サビのダンス、もうちょっと大きく踏み込めよ。そうすれば次のターン、もっとスムーズに入れるだろ」
「わかってるけどさあ」
「言い訳ばっか言ってんな」
「だからそれは唯我もじゃん!」
「お前もだろう!?」
お互いの胸ぐらを掴んで立ち上がり、樹杏を壁に押し付けた。呼吸が苦しくなり、自分の心臓がドクンドクンと音を立ててうるさかった。体は熱くて、頭の中が怒りでいっぱいだった。お互い冷静じゃない。これじゃダメだ。
「わかった。俺がお前に合わせればいいんだ。そうすれば、振りがズレることもない」
「……唯我、それ本気で言ってんの?」
「そうじゃなきゃ、次進めねえだろ」
「ふざけんなよっ!お前どんだけ上から言ってんだ!!」
今度は樹杏が反対側の壁に俺を叩きつけた。樹杏は苦しそうな必死な顔をしている。
「ははっ。ハイレベルなダンスに追いつけねえ、低レベルな俺のために、レベル合わせてやるってか?ざっけんな!!そんな中途半端なもんやれるかよ!!やるからには徹底していいもんにするのがプロだろう!?ああっ!?」
樹杏は怒りで我を忘れ、もはやキャラも崩壊していた。こんな激しい樹杏を見たことがなかった。
「樹杏、落ち着けっ」
「言いかえりゃあ、お前ができないあのシーン、しょうがねえから俺がお前のレベルに合わせてやるって言ってるもんなんだよ。照れて集中できねえってなら、目でもつむるか?唯我!!」
その言葉はかなり頭にきた。
「なめやがって!ふざけんな!!」
「……ははっ。ほら怒った」
俺は嫌みたらしく笑う樹杏を見て、自分が言ったことがどれほど最低な言葉だったか、嫌なほど理解した。俺は手の力を抜き、ゆっくり深呼吸をした。
樹杏は俺を抱き寄せて、静かに言った。
「ねえ、唯我。僕たち、今日しか時間ないんだよ。こんなケンカしてる時間だってもったいない。落ち着いて、集中して、次で決めよう。絶対できるって!僕と唯我だもん!」
樹杏からは、激しく打つ脈が伝わってきて、俺のと重なった。体は熱いし息も荒い。しかし、少しずつ頭の血が樹杏と混ざって、深呼吸と共に熱も引いていくようだった。俺も樹杏の体に腕を回し、一度だけギュッと力を入れた。
「あと一回で決めるぞ」
「おうっ!」
その後、噴火する千鶴さんに二人で頭を下げた。たくさんの人達の前で大きな怒鳴り声を浴び、半べそかいてカッコ悪い姿をさらそうとも、絶対一歩も引かなかった。
****
「お父さん。唯我、寝てない?」
「……寝てるねえ」
撮影を全集中で挑んだ次の日は、中学校の入学式だった。しかし、俺は力尽きて眠ってしまった。入学式の保護者席から学ラン姿の俺を見つめる優里子と施設長は、とても気まずい気持ちでいた。校長先生のありがたいお経のような話の最中、俺は頭をこっくりこっくりと揺らしている。
隣の奴の肩に、時々頭が重なった。隣の奴は嫌がって、何度も突き放そうとしたが、俺には俺の体を支える力を込められない。こっくりこっくり頭は揺れ続いた。
「おい、お前。こっち寄ってくんなっ!寝てんな!」
「……悪い」
「ああっ!だから、ちゃんと座っとけって。もう!」
そいつとは新しいクラスで最初の友達になった。席も窓際の列の俺の前に座っていたので、何かと話をすることが多かった。
「初っ端から散々な目にあった。お前のおかげで入学早々、先生に目えつけられるなんて嫌んなるぜ。おい、居眠り王子!起きろ!下校時間だよ!」
「んん……。うん」
「お前、どんだけ寝不足?いつも何してんの?」
「いろいろ。ただ、今ありがたいことに忙しくて」
「忙しいことがありがたい?お前、ドMな」
「違え……」
名前は康平といった。隣の小学校からやって来た奴だった。リュックに荷物をまとめて帰り支度をしていると、同じクラスの女子が二人組でやって来た。そいつらは康平と同じく、隣の小学校から来た奴らのようだった。
「お、井沢にみかちん。何か用?」
「康平には用ないの。ねえ、小山内君。ちょっと聞いてもいい?」
「何?」
「小山内君って、ジェニーズやってるって、本当?」
「えっ!この居眠り王子が!?」
俺は、まさか入学して速攻でジェニーズバレするとは思いもしなかった。
「……うん」
「キャー!そうなんだあ!ねえ、握手して握手!有名人!」
「こんな近くに有名人っているもんなんだあっ!あ、私も握手しよ!」
二人のキャーキャーピーピー言う声が、眠気に襲われている俺にはとても耐えがたかった。きつい。そんなに騒がないでほしい。
「悪いけど、そんな騒がないで。有名人とか言われるほど、まだ全然頑張れてねえから、俺」
「あ、ああ。ごめんね、小山内君」
「いや」
やんわりと断ったつもりだった。ちょっとは笑うことも覚えた最近だが、康平が小さな声で「わお、イケメン」と呟くと、少しイラっとしてデコピンしてやった。
「じゃあ、また明日」
「ああ、小山内!また明日な!」
教室を出て、使い慣れない下駄箱から靴を取り出した。外に出ると、見慣れぬ中学校の校内の道や音に驚く。ランドセルじゃなくてリュックを背負って、黒い学ランを着ている自分に驚く。校門を出ると、新しい通学路が続いていて、そこかしこに同じ制服を着ている奴らが歩いている景色に驚く。俺、中学生になったんだ。
「唯我っ!」
後ろから走ってくる足音と一緒に聞こえたのは、大沢の声だった。振り返ると、セーラー服を着た大沢がいた。桜の花びらが舞う道に立つ大沢の姿は、とても新鮮だった。
「大沢……」
「ん?何」
「はい、チーズ」
「イエイッ!!って、唯我!スマホで何撮ってんのよ!!」
「いや、長谷川に送ってやろうと思って」
大沢は顔を真っ赤にして「やめてーっ!!」とスマホを取り上げようとしたが、時すでに遅し。無事に長谷川へ大沢の写真は送られていた。
「ていうか!スマホは学校に持ってきちゃダメだよ!校則違反!!」
「え、そうなの?」
同じ小学校で帰り道も近い大沢と顔を合わせると、何故かとても落ち着いた。寝不足の上に、帰り際の教室での出来事のおかげで、かなり精神的に疲れていたせいだ。
「ああ、それが結構知ってるんだよねえ。唯我がジェニーズやってるって」
「え!?」
「私もね、同じクラスになった女の子から聞かれたもん。小山内唯我君って…みたいな」
「何でこんなに知られてんの?怖いんだけど……」
「いやいや、唯我。そろそろ自覚した方がいいって。ジェニーズなんだよ?あんた」
大沢は、小学校の教室と同じ笑顔で「あはは」と笑った。制服を着ても何も変わらない大沢に安心できた。
施設に帰ると、とうとう眠気は最大値に迫っていた。
「にいに、おかえり」
「みこ、ただいま」
みこは俺が帰ってくるのを察するのか、必ず玄関でお出迎えしてくれた。頭を撫でてやると、その手を取りぎゅうっと体いっぱいに抱きかかえた。それがたまらなく可愛くていやされる。上履きに履き替え、みこを抱き上げた。
施設の職員室を覗くと、施設長がいた。
「唯我、おかえり」
「ただいま。施設長」
「みこちゃんはすっかり唯我になついたねえ。今日は何かあるの?」
「何もないから、このまま寝る。すごい眠い。みこをお願い」
「はいはい。制服は脱いで、ちゃんとハンガーにかけなさい」
「はいはい」
「はいは一回」
「施設長もね」
「はいはい。って、あ、本当だね」
施設長にみこを預けて、俺は自分の部屋に戻った。
俺の部屋は佳代や文子の部屋の向かい側にある。ドアを開き一歩入ると、まるで一人暮らしの部屋にでも帰ってきたような気持ちになった。俺だけが過ごせる場所、何でもできる部屋。そこには壮大な「自由」が広がっていた。
学ランを脱ぎ、まだ使ったことのない机の椅子にかけ、机の上に置いてあった黄色い冊子を手に取った。冊子の表には『26時間テレビ 特別ドラマ』とある。それは次のお仕事の台本だった。付箋を付けたページをめくり、ベッドに横になると、部屋の静かさが気になった。
余計に思う。俺、中学生になったんだ。中学生になったから部屋があって、自分のベッドも机もある!なんて自由なんだろう!口元に台本を載せ、部屋を見渡すと、思わずニヤニヤしてしまった。
「唯我あ、ワイシャツとか靴下、洗いに出しなさいよ!……て、もう」
優里子が部屋をノックして入ってきた頃、窓からはオレンジ色の光が差し込み、カーテンがふわりと浮いていた。まだ小学生体型の体には大きいベッドの中に、俺が横になって眠っている。優里子は俺の胸元に落ちた台本を拾い机の上に置くと、ベッドに腰を下ろし、風に揺れる髪の毛を見つめた。ワイシャツに制服のズボンを着ている見慣れぬ姿は、とても特別な気がした。
「あんたがもう中学生かあ。早いねえ、唯我」
優里子が頭を撫でているとは知らず、俺は爆睡で気づきもしなかった。
****
日の高い頃から爆睡を決めてしまったがために、夜にはすっかり目が覚めてしまった。明かりを消した部屋には、白い月の光が満ち、家具の形をなぞっている。どんなに心地のいいベッドの中にいようとも、眠ることができなかった。
そして眠れない人間というのは、闇の中で物事をいろいろと考え出してしまうものだ。俺はとにかく昨日の撮影の反省と後悔が絶えず、自分のバカさ加減に腹が立ち、イライラした。そうなると、余計に眠れなくなった。
静まり返る施設の廊下を歩き、1階に降りた。誰も歩いていない廊下には、職員室からもれる光が筋になって落ちていた。誰かいる。誰だろう。
職員室を覗くと、施設長が一人座っていた。
「あれ、唯我。まだ寝てないの?」
「それが……」
「わかった。先に寝ちゃったから、目覚めてるんでしょう」
「うん」
「しょうがないなあ。こっちにおいで。少しおしゃべりでもしよう。男同士で」
施設長が優しく微笑むと安心した。施設長の隣の席に座ると、温かいお茶を出された。
「今日はお疲れ様。中学でも友達はできそう?」
「多分」
「部活はどうすの?やっぱり帰宅部?」
「うん。ジェニーズの仕事もあるし、そっちの方がいいかなって。あ、そうだ。驚いたんだけど、もう皆ジェニーズのこと知ってるみたいなんだ」
「え?そうなんだ。すごいなあ。小学校からのお友達とはクラス一緒になれた?」
「仲いい奴とは離れた。卒業式で一緒に写真撮った女子。大沢」
「覚えてるよ。しっかり者って感じの女の子だったね。もう一人、一緒に写真撮った子、いたよね」
「あいつは長谷川。中学受験して、今は私立の進学校に通ってる」
「へえ、すごいなあ。そっかそっか」
笑いながら話をしてくれる施設長に、俺は昨日のことを話した。樹杏との撮影のこと、その時俺がかけてしまった言葉、たくさんの人に時間も迷惑もかけたこと。施設長は黙って聞いてくれた。
「樹杏君は、きっと誰よりも唯我に言ってほしくなかったと思うよ。友達だからね」
「うん……。俺、自分で最低だと思った。樹杏が誰よりも、仕事に対して本気でやってること知ってたはずなのに、その気持ちを否定するようなこと言って……」
「今度会えた時は、きっと仲直りできるよ」
「……うん。あ……」
俺は施設長に一つだけお願いしたいことがあった。だけど、言っていいのかわからなかった。俺は施設長から目を背け、俯いた。
「何か、言いたいことがあるの?」
「え?」
「わかるよ、そんなことくらい。何?」
俺は施設長の優しい微笑みに甘えることにした。それが間違っているなら否定してもらえばいい。
「俺、昨日のことで、演技力が足りないってマジで自覚したんだ。これからは中途半端なことできない。あいつにも、置いて行かれるばっかだ。だから、勉強しに行きたいんだ。事務所とは違う場所に……。でも……。ダメならダメって言ってほしい」
「言うわけないでしょう!全く、変に遠慮するところがあるんだから。唯我は」
「施設長……」
「そんな、”本当?”って顔しないの。何がそんなに気がかりなの?」
「お金……」
そう言うと、施設長は「困ったなあ」という顔をした。この施設の金銭危機は、それなりに自覚しているつもりだ。やっぱり、本当は難しいのではないだろうか。
「わかった。そんなに不安がるんだったら、ちょっと難しい現実的なお話をしてもいいかい?」
「う、うん」
施設長は笑いながら「そんな不安がらなくていいよ」と言ってくれた。そして、席から離れたところにある鍵付きの棚から、分厚いファイルを出してきた。その中には、たくさんの数字が並んだ紙がたくさん挟まっていた。ところどころにピンクや青のマーカーが引かれている。
「これらは、唯我がジェニーズで頑張ってくれるようになってからの、施設の明細。つまり家計簿ね。それまでずっとひどい赤字だったのがね、唯我が頑張ってくれたおかげで、経済難も回復してきているんだよ。去年の暮れに、みこちゃんが来たろう」
「うん」
「みこちゃんを受け入れられた理由はね、唯我の頑張りのおかげで、施設での新しい子を受け入れる体制が整ってきたからなんだよ。話、わかるよね?」
「……じゃあ、みこが来たのは」
「確実に、唯我のおかげだよ」
頭の中に、施設に来たばかりの頃のみこの姿が浮かんだ。誰も知らない施設に一人で来たみこは不安そうだった。ぎゅっと抱きしめるウサギはくたっとしていたが、今では上を向いて、みこの小さい腕の中で温かく抱きしめられている。
施設長にどう言葉を返していいのかわからなかった。嬉しくて、でも信じられない気持ちでいっぱいだった。
「僕はね、君が自分自身で何かをやりたいと言ってくれることが嬉しいんだよ。ジェニーズだってそう。ダンスだってそう。演技もそう。前にも言ったよ。唯我自身にとっての、ジェニーズをやる大きな意味を見つけて、楽しくて、夢中になってくれたら、僕は嬉しい」
施設長の大きな手が、俺の頭を撫でてくれた。目に涙が滲んだ。
「誰にも遠慮するんじゃない。目標に向かって、まっすぐ頑張りなさい。唯我」
「施設長……」
「きっとこれから、君にとってかけがえのない青春がやってくるよ。くいなんて、残しちゃダメだよ。いいね」
「……はい」
それから部屋に戻ると、すっかり不安な気持ちも苛立ちもなく、スッと眠ることができた。しかし、中学生活2日目にして寝坊した。
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