第25話 長谷川の変
最近、こいつとあいつの様子がおかしい。
「おはよう、唯我」
「はよ、大沢」
こいつは挨拶をすると、うつむいて、自分の席へゆっくり向かうようになった。
「唯我君、おはよう」
「はよ、長谷川」
あいつは遠くから手を振るようになった。今までは必ず席の横まで来ていたのに。何より、大沢のことが好きな長谷川は、暇さえあれば大沢に話しかけに行っていたのに、今は全くない。明らかにおかしい。
「ねえ、唯我君。今日の放課後って予定あるかい?」
「ないけど」
「じゃあ、僕ん家来ない?よかったら僕の撮った写真とか、コレクションとか見てほしくて」
「いいけど……」
俺は大沢をチラッと見た。大沢なら近寄ってきて「私も行きたい」なんて言い出しそうな話なのに、まるで関係ないみたいに大沢は遠くでクラスの女子と楽しそうに話していた。
****
初めて来た長谷川の大きな家は、広々とした庭、車が2台入る車庫がある。見るからに金持ちというようなご立派な家だった。
「あらあ!唯我君、いらっしゃい!遊びに来てくれて嬉しいわあ」
「お邪魔します。夏はありがとうございました」
「あら、いいのよ。私が会いに行きたかったの」
久々に会った長谷川のママは、相変わらず俺をペタペタと触りまくった。困っていると、長谷川が「部屋行こう」と引っ張った。
長谷川の部屋には、本がびっしりと詰まった本棚があった。その上には、天体模型や写真立てがきれいに並べられている。長谷川の部屋で特に目を引いたのは、壁にかかる大きな夜空の写真だった。闇の上に星屑が点々と浮かんでいる。その光の奥で、青や赤、紫がじわっとにじんでいる。まるで、別々の世界が重なってあるようだった。
「キレイでしょ。昔、父さんが撮ったんだって」
「へえ。キレイだ」
「僕の父さんは、今もフリーのカメラマンをやってるよ。趣味はジェニーズのおっかけ。変わってるでしょ」
「え?ジェニーズのおっかけ?」
「そう。ほら!」
すると、長谷川は一枚の写真を見せてきた。それは見覚えのある写真で、俺が初めてライブに参加した時のものだった。必死な俺は、汗まみれで無我夢中で踊っている。
「何でこんなの、お前が!?」
「この光の入れ方とか、角度とか、本当上手なんだよなあ」
「おい、答えろ」
長谷川はニコッと笑ってごまかした。
「そんなことより、話があって呼んだんだ。……僕、失敗したかもしれない」
長谷川は俺の知らない夏祭りの夜のことを話してくれた。
****
夏祭りの余韻の残る道に、浴衣姿の大沢は立っていた。長谷川は腹に力を込めて言った。
「大沢さんが、唯我君のこと好きなのは知ってるよ。でもね、僕は……、大沢さんのこと、ずっと前から大好きなんだっ」
大沢は長谷川をまっすぐ見つめたまま、次の言葉が出てこない。体中の熱が顔に集まった。
「……は、長谷川君……。あの、私……」
大沢はどう返事をすればいいのかわからなかった。熱と一緒にこみ上げる涙で目をうるうるさせた。
大沢の一言一言が痛いほど耳をくすぐる。長谷川は、だんだん自分の告白の実感と責任を感じた。大沢以上に顔を真っ赤にし、平常心を保てなくなった。口元を隠し、涙目の大沢を置いて走り出してしまった。
「大沢に告った!?」
「声でかいよ!……そうだよ」
「マジか。で、返事は?」
「……まだ」
「だから新学期始まってから、お前と大沢の様子がおかしかったんだ」
「わ、わかる!?」
「明らかだろ」
長谷川は茹でたてのタコみたいに、頭の上から湯気を上げた。
「言うつもりなんてなかったんだ。でも、何か……」
雰囲気に流されたんだな。
「で、お互い気まずいままってことだな」
「……どっちかって言うと、大沢さんの方が僕を避けてる感じ」
「よかったじゃん。意識してもらえてさ」
「なっ!唯我君、僕はっ」
「俺なんて、意識さえしてもらえたことない……」
夏祭りの夜のことを思い出した。泣きながらクソ野郎ののろけ話を永遠にし続ける優里子は、俺の手をしっかり握っていた。寂しいから。辛いから。一人では暗い夜道をまっすぐ歩けそうになかったから。
優里子は俺のことを、相変わらず「弟」としか思ってくれていない。一緒に帰る「弟」の手を握って、少しでも落ち着こうとしていたのが伝わってきた。好きな人の手を握れて、胸の奥でドキドキしている「男」が隣にいることにも気づかずに、優里子の大きな手は、俺の手を放してくれなかった。
「……ねえ、唯我君。唯我君は、大沢さんの好きな人いるの知ってる?」
「うん」
「えっ!?いつ聞いたの?」
「小5の時。誰だって聞いたら、俺には言うわけないって言われた」
「そらそうだろう」
「何で?」
「え?何でって……」
長谷川は口をごもごもさせて黙り込んだ。むしろお前は知ってるのかよと言いかけたが、それを長谷川に聞くのは違う気がした。
「いつから大沢が好きだったの?」
「小4の時。その日、学校から直接塾に行く予定で電車の定期を学校に持ってきてたんだ。だけど、どこかで落としちゃったみたいで、帰りになって定期が無いって気づいたんだ。焦ったよ。一人で学校中探してさ、どうしよう、どうしようって……」
教室のすみずみから廊下、昇降口、他にもその日のうち歩いたところをぐるぐると探して歩いた。長谷川はしたばかり見ていたから気づかなかったけれど、すれ違った大沢は、長谷川の様子をよく見ていた。
「見つからなすぎて、もう泣いちゃいそうになってた時、大沢さんが定期持って走ってきてくれたんだ」
焦りと不安で心細かった長谷川にとって、その時の大沢は救世主のようだった。
「これ、正門の横の木に引っかかってたよ。きっと誰かが見つけて見えるところにかけてくれたんだよ。下ばっかり見てたから、見つけられなかったんでしょ」
紛れもなく自分の定期券が目の前にある。長谷川は喜びと安心で泣いてしまった。しかし、目の前には知らない女の子がいる。泣いてる姿なんて見てほしくないし、困らせてはいけないと思い、ぎゅっと目をつぶって腕でゴシゴシと顔を拭い、笑った顔して立っているその子を見た。
「もう落としちゃダメだよ」
肩が上下に揺れ、大きく呼吸をしている。頬が少し赤くて、額からは汗も流れていた。その女の子が、ただ落とし物を拾ってくれた訳じゃないことが見てとれた。
「ありがとう」
「どういたしまして。じゃあね!」
幼い大沢はニッコリ笑ってから元気よく走って行ってしまった。長谷川は遠くなる大沢の姿をずっと目で追った。
「いい人だなって思って、次の日に隣のクラスの子だってわかって、余計に意識が向くようになった。声とか、笑った顔とか、直接しゃべらなくても、もうそれだけでドキドキして、これは、もう好きなんだなって……」
俺はとてもこそばゆくなった。遠くから大沢を見つめ続ける長谷川の姿も、大沢が困っていた長谷川を見て、放っておけずに走って落とし物を探している姿も簡単に想像できた。
「いい奴。大沢」
「僕、どうしたらいい?こんなふうになるなら、言わなきゃよかった」
長谷川は抱えた膝の中に頭をうつぶせた。
「でも、言わなきゃ大沢も知らないままだろ」
「うん。それはそうだ。中学受験するからさ、皆とは違う中学に行くから、毎日毎日、こうして皆と過ごせるのは最後だなって思うんだ。だから、最後の夏休み、大沢さんと一緒にいられるのも、最後かもしれないって思ったら、黙ってられなくなっちゃったんだ」
「お前は、どうしたいの?」
「このままは嫌だな。気持ちに答えてほしいなんてことはないんだ。答えなんてわかってるし。……ただ、大沢さんが困っているのは、嫌だな」
「そっか」
****
次の日、昼休みに大沢に呼び止められた。二人で屋上の手前まで来て、腰を下ろした。
「私、どうしたらいいかな。このままじゃ、長谷川君に申し訳なくて……。でも、長谷川君が近くに来るだけでドキっとしちゃうの。ああ、どうしようってなる。それで、カチコチに固まって動けなくなるの。それが嫌で、避けちゃうの。今の私、絶対態度悪いと思うんだ。長谷川君、嫌な気持ちになってるの嫌だな。でも、どうしたらいいのかわかんない」
長谷川も大沢も、お互いが困っているのは嫌だという。解決したいことは一緒だけど、互いにそれをどうすればいいのかわからない。
「長谷川は、大沢が困っているのは嫌だって」
「……やっぱ、私が何とかしなきゃなんだよね。でも、どう答えてあげられるんだろう」
大沢は長谷川への返事に悩んでいる。そこでピンときたことがあった。
「似てるかも……」
「何が?」
俺は手を伸ばした。
「どういうこと?」
「握手」
「え?あ、はい」
大沢とがっしり手を握り合った。大沢は少し困った顔をしていた。
「夏休み、会いに来てくれてありがとな」
「ああ、Jr祭ね。そりゃ行くよ。私は、唯我のファンだもの」
「それ」
「それって何?」
「俺、夏のJr祭の時に知らない人から初めて”ファンです”って言われたんだ。言われたことないから恥ずかしくて、照れくさくて……。けど、嬉しかったんだ。まるで、告白されたみたいな感じ。少し違うかもしれないけど。その知らない人にさ、ドキドキした」
手を離し、立てる膝に頬杖をついた。
「この人たちの言葉に、俺はどう答えたらいいんだろうって考えたんだ。大沢は、どうして”ファンです”って言うの?」
「へっ!?……いや、ははは」
大沢は顔を赤くして、首筋を手で擦りながらゆっくり言った。
「すすす、好きって言いたいからでしょ?それでもし、私のこと、知ってくれたなら、嬉しいじゃない」
「そっか……」
俺は大沢の言葉に安心した。あの日会った人たちの顔は今も覚えている。それでいいんだと思えた。その時、大沢は「そうか」と呟いた。
「長谷川君、知ってほしかったんだよね。とっても大事な気持ち。わ、私なんかに……」
「なんかじゃねえよ」
「え?」
「俺も長谷川も、お前のいいところをたくさん知ってる。だから、お前が自分を否定するようなこと言うな」
「唯我……」
「それに、お前が自分を否定することは、長谷川のことも否定することと同じになる。……お前はいい奴だよ」
「ありがとう、唯我」
大沢は頬を赤くして笑った。こいつなら、長谷川にちゃんと答えてやれる。立ち上がり、俺は先に階段を降りた。すると大沢が「唯我!」と呼んだ。階段を下りた先の踊り場で立ち止まり、大沢を見上げた。
「私、あなたのフ、ファンです!唯我、覚えておいて!」
俺は嬉しくて、照れくさくなった。
「サンキュ」
俺は先に教室に戻ることにした。一人で残った大沢は、俺の姿が見えなくなると腰を下ろし、顔を両手で覆った。心臓がバクバク動いていた。体中、さっきから熱くてたまらない。
「私、こんなんじゃあ、一生唯我に好きなんて言えない……」
大沢は、長谷川との夏の夜を思い出した。あの時、長谷川は立ち止まって、両手に拳を握って、大沢をまっすぐ見て、はっきり言った。
長谷川君、きっと頑張って言ってくれたんだろうな。今度は、私が頑張る番だ。
学校からの帰り道、長谷川は友達と手を振って別れた後、橋までつながるスロープを駆け上ったところで、大沢と会った。
「大沢さん……」
「今、時間ある?」
大沢の今にも泣きそうな顔を見て、何の話なのかわかった。長谷川は、大沢と友達じゃない関係で話ができることに、少しだけ嬉しくなって、寂しくなった。
「うん」
****
「唯我!お、お客さんよ!」
施設の庭で泰一と遊んでいると、優里子が呼んだ。優里子の横には、俯く長谷川がいた。
「……クールキャラ気取ってんなよ、バーカ」
ちょうどいい高さに額があった。デコピンすると、涙がコロッと落ちてきた。
それから二人で庭の階段に腰を下ろしたが、会話らしい会話はしなかった。優里子やクレアおばさんが代わる代わるお菓子や飲み物を持ってきて、俺たちの間に置いてくれた。おかげで気づかぬうちに、俺と長谷川の間にはたくさんのお菓子が積まれていた。
夕方のねっとりした風が吹き、庭を駆け回る泰一の大声や、施設の中から聞こえる充瑠の泣き声が俺たちの周りを包んだ。夕食の匂いを追って横を見ると、長谷川も俺に振り返って、パチっと目があってしまった。突然照れくさくなって、お互い笑ってしまった。
「何笑ってんだよ」
「だって、唯我君が笑うから」
クスクス笑いながら、長谷川は泣き出した。目尻を拭い、ふうっと息をもらした。
「あーあ、とうとうフラレちゃった」
「うん」
「でも、ちゃんと答えてもらえたから、僕は嬉しかった」
「うん」
「唯我君、ありがとう。いろいろ」
「何もしてねえよ」
「そんなことないよ。唯我君がいたから、大沢さんはちゃんと答えてくれたんだよ」
「ふうん」
「……唯我君の方はどう?関係は進んだ?」
「相変わらず”弟”だ」
「そっか。頑張れよ。ハッピーエンドを聞かせてね」
長谷川のくせに、嬉しいことを言う。俺はお菓子をのせた皿を長谷川に出した。
「……食べとけ」
「ああ、ありがとう。いただきます。それにしても、お菓子たくさんあるね」
「そうだな。こんなに並べられたことないくらいあるな」
「それは申し訳ない。僕のために」
「バーカ。お前のためじゃねえよ」
「え?」
「俺のため」
それは大きな勘違いかもしれない。俺を訪ねて来た友達は、長谷川が初めてだったから、優里子もクレアおばさんも嬉しくてお菓子やら飲み物やら、たくさん出してしまった。そう思いたいくらい、長谷川が来てくれたことが、実はとても嬉しかった。
しばらく沈黙が続いてから、長谷川は恥ずかしそうにボソッと言った。
「……ねえ、唯我君」
「ん?」
「朝、大っきくなってたりする?」
男の言う「大きくなる」ものなんて一つしかない。
「……する」
「僕だけじゃなかった。よかったあ……」
「何安心してんだよ」
「いたっ!突然押すなよ。いや、僕って案外、そっちの欲が強いのかなとか……」
「知るかよ」
「いたっ!だから、押すなって!」
クッキーを一つかじって、それから長谷川とくだらない話をたくさんした。長谷川は笑って笑って、それからいっぱい泣いた。
****
「おはよう。唯我」
「はよ、大沢」
次の日、こいつは笑って挨拶してきた。
「唯我君、おはよう」
「はよ、長谷川」
あいつは手を振りながら近づいてきた。そして、こいつとあいつが、俺の横で久々に並んだ。
「おはよう、長谷川君」
「おはよう、大沢さん」
二人は少しぎこちない。けれど、顔を合わせて笑っていたので、俺は安心した。
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