第24話 ①最後の夏の夜、②プールと海の間

①最後の夏の夜


 夜になってもじめじめと熱い夏の夜、大沢、長谷川に誘われて夏祭りに行った。大沢は浴衣で、長谷川は甚兵衛を着て来た。俺は何か特別な服を着るという考えがなかったので普段着だった。

「去年は七夕祭行ったよね。懐かしい」

「遠出も楽しかったね」

「皆、今日は何時まで平気?私は9時」

「僕は何時でも」

「俺は門限が9時」

「よかった!したら、8時の花火見てから帰れるね!楽しみ!」

 人で賑わう会場に入ると、お囃子の音、楽しそうな笑い声、鉄板の上で何か焼く音が聞こえてくる。匂いや空気が、夏祭りの夜を囲んでいる。途中で友達と騒ぐ泰一と会ったり、同じクラスの奴とすれ違うこともあった。皆が楽しそうに笑っているのを見ると、俺も楽しい気分になった。

 屋台で買ったりんご飴をかじっている時、遠くに優里子の横顔が見えた。朝顔の浴衣を着て、長い髪の毛をまとめてかんざしをつけている。誰かと話しながらよく笑っていた。

「あ、唯我のお姉さんじゃん」

 大沢が小さい声で言った。

「俺のじゃねえし」

「相変わらず大人っぽいなあ」

「そりゃ大人だからな」

「誰かといるみたいだよ」

「知るかよ。誰といても別に……」

 「気になるわけない」なんて言いたいところだが、はっきり言って気になる。俺は優里子をじいっと見つめた。すると、大沢が先に何かに気づき「あっ」と声を出した。それから俺も気づいた。優里子が笑顔を向けていたのは、優里子より背の高い男だった。二人の間で手がつながっているのが、人込みの中を分けて見えていた。

「あれって……お、お兄さんかなんか?」

「んなわけねえだろ。……彼氏じゃね?」

 大沢は気まずそうにして黙ってしまった。優里子は遠くで楽しそうに笑っていた。俺は優里子の横顔から目を離せなかった。

 すると、俺たちの空気に気づけなかった長谷川が「もうすぐ8時だ!」と言った。

「二人とも、花火どこで見る?」

「あああ!そうね。あっちに穴場あるよ!」

「行こう行こう!」

 大沢は俺の腕を取って強引に引っ張って行った。俺は遠のく優里子を目で追った。時々見せる、あんな照れくさそうで嬉しそうな顔を、俺は向けられたことがない。隣の男がうらやましくてムカついた。

 それから場所を移動して、3人で花火を見上げた。ドンと大きな爆発音が空から落ちてくる度に、まるで胸に穴が開くような感覚がした。

 嫌でも考えてしまう。今頃優里子は、花火を見ながら隣の男の横顔をチラ見して、嬉しそうに恥ずかしそうに笑っている。


                ****


 夏祭りが終わり、大沢と長谷川と別れて、施設への一本道を一人で歩いて帰った。大沢と長谷川は、俺の話をしながら帰り道を歩いていた。

「唯我、大丈夫かな」

「何が?」

「お祭りでさ、唯我のお姉さんがデートしてたの。唯我、すごくショック受けてた」

 長谷川はその様子をよく見ていなかったから、あまりピンとはこなかった。だが、大沢の言葉だけで、だいたいのことは把握できた。

「年上の人じゃあねえ。そりゃ、唯我君よりは経験もたくさんあるだろうし、状況だって違うだろうさ」

「でも、あの後の唯我、ずっと落ち込んでたじゃん。大丈夫かな」

「それは、唯我君次第でしょ。僕は大丈夫だと思うけどな」

「どうして?」

「唯我君が自分の気持ちを曲げたところなんて、僕たちは一度も見たことない。まして、それで誰かを傷つける人じゃない。大沢さんだってさ、気持ちを貫ける唯我君のカッコいいところが、好きでしょ?」

「!!」

「僕もそう思うし、そんな人だから、僕も唯我君のことが好きなんだ。だから、僕たちが味方でいられれば、唯我君は大丈夫。でしょ?」

 顔を真っ赤にしていた大沢は長谷川の言葉に驚いた。

「さすが長谷川君。頭いいね!私もそう思うよ。うん、大丈夫よ。唯我だもん」

 長谷川はクスクス笑いながら「だね」と返事した。

「長谷川君、何で笑ってるの?」

「だって、普通のこと言ってるのに、改めて”頭いい”とか言われたら照れるよ」

「変なこと言ってないよ。私」

 その時、長谷川が突然立ち止まった。大沢も足を止めて振り返った。長谷川は俯いていた。

「僕ね、中学受験するんだ」

「え?」

「行きたい学校はかなりレベルが高いんだ。塾の先生からも志望校を変えた方がいいって言われてるくらい。でもね、唯我君がジェニーズ頑張ってる姿を見てると、僕も頑張ろうって思えるんだ。諦めたくない。難しくても頑張りたい」

「……知らなかった。そうだったんだ。てっきり、皆で同じ区立中に行くもんだと思ってた。そうか。寂しいな」

 大沢が苦笑いをすると、長谷川は胸がぎゅっと縛られるような感覚がした。

「僕も寂しい!」

 大沢と長谷川は目を合わせて、しばらく黙り込んだ。湿っぽい風が夏祭りの匂いをまとって、二人の間を通り過ぎた。大沢は、長谷川に何と言葉をかけてあげたらいいのか考えた。

「あの、長谷川君」

「大沢さんが、唯我君のこと好きなのは知ってるよ。でもね、僕は……」

 長谷川は腹に力を込めて言った。

「大沢さんのこと、ずっと前から大好きなんだっ」


                ****


 俺は施設への帰り道、背の高い男とすれ違った。すぐわからなかったが、それは優里子と一緒にいた男のようだった。俺は立ち止まり、男に振り返った。すると、遠くから手を振って来る女がいて、男は女と合流すると仲良さそうに腕を組んで帰って行った。

「なっ!!!」

 俺は立ち尽くした。衝撃すぎて声が出てしまった。怒りがふつふつとわいてくる。手には力が入って、ぎゅうっと拳を握っていた。

 その時、暗闇から鼻をすする音が聞こえた。一瞬、肝が冷えたが振り返ると、施設近くの公園で、街灯の下のブランコに座る浴衣姿の女がいた。優里子だった。

「優里子……」

 優里子は俺が正面に立っても顔を上げなかった。目からこぼれた涙が、浴衣の裾を濡らしている。

「一緒に帰ろう」

 優里子は無言で頭を振った。

「ガキかよ。何か言え」

 何も返事がなかったが、俺は返事を待つことにした。すると、鼻をすする音がゆっくり大きくなって、両手で目をこすりながら声を出し始めた。

「先、帰ってよ。ほっといて」

「女が一人で暗いとこにいるんじゃない」

「その言葉、そのまま返すわ。ガキんちょ」

「だから、一緒に帰ろうって」

「空気読んでよ。バカ!」

 ムカついた。

「誰が空気なんて読んでやるか、バカ!」

 俺は黙って立っていた。我慢勝負なら優里子に負けたことはない。

「フ……フラれたの」

 あの男、優里子をフった上で別の女と帰って行ったのか!最低くそ虫野郎!!

「いいよ。さっさと忘れろよ」

「簡単にできるなら、そうするわよ。でも、できないわよ」

「何で」

「大好きだったもの……」

 その言葉を聞いて、俺は言葉を失った。胸に空いたでっかい穴を夏の夜の風が通っていく。特別な大切な言葉を、優里子はあの最低くそ虫野郎のために言うのか。受け入れがたくて吐きそうだ。

「一緒にいて、楽しくて、嬉しくて、幸せだった」

 俺が優里子に感じるものを、優里子はあの野郎と感じてた。

「それが、もうないの。唯我に、この気持ちがわかりっこないじゃない」

 苦しそうな、痛そうな声が小さく響くと、まるで体を傷つけられるような痛みさえ感じてしまいそうだった。俺も苦しい。痛い。

「……わからないなんて、勝手に決めつけんな!!」

 優里子が顔を上げた時、俺の目は潤んでいた。

「……わかるよ」

 その気持ちを「唯我にはわからない」と言われることが悔しい。優里子の中で、俺はまだガキんちょでしかないことが悔しくてたまらない。泣くまいと眉間に力を入れた。あんな奴を想う優里子のために泣いてたまるか。

 優里子は俺の顔を見て、また涙を溢れさせた。俺の腕を取って、抱きしめるように両手で抱えた。腕に優里子の涙が落ちてくると、同じように悲しい気持ちになりそうだった。けれど、今同じ気持ちになってはいけないと思った。俺はいつまでもガキんちょじゃないし、優里子の「弟」でもない。俺は、優里子の隣に立てる「男」になりたい。

 抱きしめられた腕を曲げて、優里子の濡れた頬に手を添えた。汗と涙でしっとりする前髪を指で撫でて、耳をなぞって、そのまま頭を引き寄せた。ほてった優里子の頭が俺の胸の中にある。まるで、俺より小さい女の子を抱きしめているような、愛おしい気持ちになった。

「唯我、唯我……。苦しいんだけど」

 俺は優里子の口も鼻も胸に押さえ込んでいたらしかった。苦しそうにしていた優里子を離すと、真っ赤な顔でゼエゼエしていた。きれいに整えていたであろう髪の毛は軽くほつれてて、泣いてたせいでお化粧は崩れてる。少し笑えた。

 優里子が俺の胸を指を差したのでよく見たら、俺のTシャツに優里子の口紅がついていた。「あっ!」と声を上げると、今度は優里子が笑い出した。

「一緒、帰ろうか」

「うん」

 施設までの通りを、優里子の下駄に合わせてゆっくり歩いた。優里子は俺の手を握って、「彼が優しくて、ステキでね」「あそこに行った時に」と呟きながら泣いていたが、聞いていられなかった。返事をしたくなかった。しかし、握る優里子の手の感触に脈がじんじんと反応した。

「花火、見られなかった……。話があるって公園行ってさ、何か期待しちゃった。バカだなあ、私。花火の光も、音も、全部、彼の声より、大きかったはずなのに、何も……。うう。うううっ」

 俺は、あいつと肩を寄せて花火を見上げてくれていなかったことに安心した。「せっかく、可愛い水着買ったのに。プール、行きたかったのにい。ううう……」

「じゃあ、俺が行く。一緒に」

「唯我が?代わりに?」

「代わりじゃねえ」

「そう……。じゃあ、行こう」

「!!……うんっ」

 俺は声が裏返らないように気をつけて返事をした。一緒にプールに行く約束をした。優里子とデートの約束をした!俺は嬉しくてたまらず、優里子とは反対側の腕で小さくガッツポーズをした。

 いつの間にか到着していた施設の前には、仁王立ちして腕を組む施設長がいた。顔が鬼のように怖かった。俺はすぐに優里子から離した手を背中に隠した。

「唯我、施設には何時までに帰ってこないといけないんだっけ?」

「……9時」

 施設の玄関にかけられた時計は、すでに9時半を過ぎていた。

「優里子、お前が一緒にいたなら、お前からも言えたよね?」

「ち、違うの。お父さん!唯我は悪くないの!」

「どっちも悪いわ!!来なさい!!」

「「……はい」」

 俺と優里子は青ざめた顔を見合った。俺は怒られると思って怖かったが、優里子はふふっと笑っていた。目の周りを真っ赤にして、鼻をすすって、それでも笑っている優里子を見て、一緒なら何があったって怖くねえと思えた。

 もう一度手を握って、二人で施設へ入った。


                ****


②プールと海の間


「お待たせ」

 夏休み最後の日、人がたくさんいるプールサイドのベンチに座っていると、優里子の声がした。振り返ると、そこには水着姿の優里子がいた。風や体の小さな動きでもフリフリと揺れる水着は、俺の目を離してくれない。お団子ヘアから垂れるおくれ毛が、首筋に沿って流れているのが色っぽい。肌の露出が高くて、それだけでもうドキドキが止まらないが、同時に危険の警報が鳴る。

 優里子の柔らかそうな白い肌は、触れたらきっと俺を爆破するだろう。それに、他の男のいやらしい目にさらされるのは嫌だ。それは誰かが優里子の柔肌に触れていることと一緒だし、それはつまり痴漢されてるのと一緒だ!俺が守らなきゃ!

 優里子の姿に見とれていると、後ろから忍び寄ってきた泰一が「わっ!」と声を出した。

「唯我兄ちゃん、着替えるの早い。置いていかれちゃった」

「お前がトイレに行ってただけだろ」

「あんたら、はしゃぎすぎ!」

 そう言ったのは優里子の後ろからひょっこり出てきた文子だった。文子はぶよっとした腹をまる出しにして、リボンのついたビキニを着ている。

「私のナイスボディを見て、惚れんなよ」

 俺は返事ができなかった。するわけない。隣の泰一は「はーい」と普通に返事した。

「ごめんごめん、遅れたあ」

 そこに小さい充瑠を抱えて施設長がやって来た。夏祭りの夜、俺が優里子と約束したプールデートは、施設のガキども同伴で、ただのレジャーになってしまった。


                 ****


 その頃、一人で施設にお留守番となった佳代は、おしゃれをして施設の庭に続く階段に腰かけていた。熱い日差しの差す外にも関わらず、長袖を着ている佳代の黒髪が、涼し気に風に揺れた。

「佳代」

 佳代の名前を呼んだのは、駿兄だった。佳代が微笑むと、駿兄も同じように微笑んだ。

「呉羽さん、ちょっとお出かけしてきます」

「はあい」

「呉羽さん!お久しぶりです」

「あらあ、駿君!久しぶり。これからデートね。楽しんできてね」

「今日は佳代、帰らないかもよー」

「もう、駿君っ」

「施設長に怒られてもしりませんよ」

「はいはーい」

 駿兄と佳代はクレアおばさんに手を振り、二人で並んで施設を出て行った。

「佳代、今日スカートだ」

「うん……。変、かな」

「ううん。めっちゃ可愛い。好き」

 佳代はいちいち顔を真っ赤にした。それが駿兄にはたまらない。佳代に手を差し出すと、佳代はドキッとした。

「握る?」

「……うん」

 二人はこうしてゆっくり距離を縮めてきた。佳代には、スカートをはくことも手をつなぐことも挑戦だった。それでも、駿兄のために頑張れる。それが駿兄にとって佳代の成長で、大好きなところだった。


                 ****


 流れるプールで、俺は浮き輪から頭と腕を垂れて浮かんでいた。泰一が浮き輪の紐を引っ張るので、自動的にぐんぐん進んで行く。風がひゅうっと耳元で音を鳴らし、景色がどんどん変わっていくのが面白かった。

「あ、施設長と充瑠だ!」

 泰一が手を振ると、子どもプールにいる施設長は充瑠の小さな手をひらひらと動かした。泰一はぐんぐん進んでいく。俺はラクチンにして、ただ浮かんでいればよかった。しばらくすると、優里子と文子に合流した。

「楽しそうね、唯我」

「というか、そうね」

 すると文子が突然俺の足を引っ張り、浮き輪を強奪した。俺は知らない人たちの足の隙間に沈没したが、文子は構わず浮き輪に体を通し、泰一に引っ張られて行ってしまった。

「っざけんな!文子!」

 俺は水の中から這い上がり、ようやく息をした時、目の前にぽわんと浮かぶ肌色の島が二つ見えた。頭上からは優里子の声がした。

「唯我、大丈夫?」

 俺の中で警報がワンワン鳴り、真っ赤な危険信号が点々と灯った。刺激が強すぎる。なのに目が離れない。しかし、俺の頭の中は熱がこもって考えられなくなった。

「うわあっ!ちょっと、唯我!しっかり!!」

 気づいたら日陰で横になっていた。どうやら鼻血をふいて気絶したらしかった。鼻の穴からティッシュを取って、額に乗っかる冷たくないタオルをどけた。

「大丈夫?」

 優里子は薄手のパーカーを着て、俺の横に座っていた。

「うん。大丈夫。ごめん……」

 俺はゆっくり起き上がり、人でにぎわうプールを眺めた。

「あんた、今日は見学ね」

「はあ。わかった」

 最悪だ。せっかく優里子とデートだと思ったのに、ガキたちもくっついてくるし、俺は鼻血出して倒れるし。楽しくない。俺はすっかり気分が落ち込んだ。

「ねえ、先に上がって、二人で浜辺にでも行かない?」

「え?」

「外にね、歩いてすぐのところに海があるのよ。行く?」

「……行く」

「わかった。お父さんに話してくる」

 優里子は立ち上がり、子どもプールのところにいる施設長のところに行ってしまった。これは浜辺デートになるんじゃないか!?俺のテンションは急上昇した。


                ****


 日差しが少し和らいだ頃、俺は優里子と一緒に裸足で浜辺を歩いていた。優里子は白いワンピースを着て、麦わら帽子を被ってる。ザザアという波の音が心地よく、砂浜に踏み入れる足の裏でじゅわっと溶けるような砂の感覚が気持ちい。

「あ、カニ!唯我、カニいるよ!」

「そりゃいるだろ」

「小さい!」

 優里子はしゃがみ込み、カニをじっと見ていた。ガキかよ。俺もそばに寄って、横歩きする小さいカニを見て、優里子の横顔を見つめた。優里子の横顔は、海の光が反射して、輪郭を光の線がなぞっていた。透けて茶色く見える髪の毛の一筋一筋がふわふわと浮かんでいるのが、神秘的な女の人の雰囲気をかもし出している。きれいだった。

「唯我はさ、ジェニーズやっててよかったって思えることある?」

「唐突だな」

「最近はどう?楽しい?」

 優里子は少し緊張していた。そんなの知らない俺は、優里子の横にしゃがんだ。

「やっててよかったって、思うことばっかりだよ」

 その言葉を聞いた瞬間、優里子の目が潤んだ。

「やってなかったら、こんなに毎日いろんなことに気づいて、考えることなかったと思う。前よりずっと忙しいけど、新しいことができるようになったり、知らないことに触れられたり、経験できるのは面白い。だから、お前が心配することなんて、何もねえよ」

 デコピンしてやると、「あいたっ!」と声を上げた。ぷくっと頬を膨らませた。可愛い優里子。心配はしなくていい。だけど……。

「心配はしなくていいけど、そうやって、俺だけ見てろよ」

 それは、全く言うつもりのない、ただ思っていたことだった。優里子は目を大きく開いて、しばらく俺を見て固まっていた。

 俺は自分が言った言葉にだんだん恥ずかしくなった。でも、絶対嘘じゃない。だから言い訳するのはやめた。俺は優里子と合わせた目を頑張って逸らさなかった。さざ波の音と、潮風に包まれて、二人の間に温かい沈黙が流れた。

 その時、後ろから「ドーン!!」と声を上げて泰一が抱き着いてきた。思わず前に倒れ、俺は全身砂まみれになった。

「最悪!泰一!」

「あはははっ!唯我兄ちゃん、きったねえ!」

 体から砂を払っていると、遠くから「おおーい!」と手を振る文子、施設長、充瑠が近づいてきた。

「空が赤くなってきたねえ」

「げっ!唯我どうしたの?こけたの?ドジだなあ」

「文子、勝手に決めつけんな。泰一に押されたんだよ」

 施設の皆で笑い合う中、優里子は未だにカニを見てしゃがんでいた。そんなにカニが気になるのか?俺は優里子よりも周りのガキたちがやかましくて、優里子に構えるヒマがなかった。

 俯く優里子は、いつもと違う胸の音をゆっくり慎重に沈めていた。耳が少し赤くなっているのを、俺は完全に見逃していた。優里子は自分に「落ち着け」と言い聞かせた。

 優里子は文子や泰一と話す俺の様子を見た。昔から変わらない「弟」の、ふとした瞬間の笑った顔を見た時、そこに「弟」ではない一人の「男の子」の姿がチラッと見えたような気がした。その「男の子」は振り返り、微笑んだ。

「優里子、帰ろう」

 その微笑みは、口元よりも目で伝えてくる表情だった。昔から変わらない微笑みなのに、優里子には何かが違うように思えた。何が違うのだろう。

「うん。帰ろっか」

 空が赤く染まり、波がオレンジ色に光る。穏やかな潮風になびく男の子の短い黒髪や、意外に長いまつ毛が切れ長の瞳を強調する。

「何?」

「……何でもない」

「まだ砂ついてる?」

 俺は優里子の視線が気になって、頭をかき回し、頬を軽く叩き、首筋から肩を撫で下ろした。すると、優里子の手が俺の頬を優しく撫でて、それから軽くつねられた。

「まだまだガキんちょね」

 優里子の顔が近づき、ドキッとした。つねられる頬がほわっと温かくなった。離されても、指の形が頬に残っているように感じる。俺は頬に手を当てた。

 例えば、こんな凪の夕方になびく柔らかい髪、熱い夜の涙にぬれるほてった手、ふいに近づいてくる優里子の微笑み。それらに触れる時、腹の奥が熱くなる。何が熱くなるのかわからない。だけど、その時俺は、無性に優里子に触れたくなる。

 触れたくなるけれど、触れてしまったら元に戻せなくなりそうな気がする。何が元に戻らないのかは見えてこない。だけど、その時俺は、とにかく理性を取り戻すのに必死になってしまう。

 今のこの瞬間だって、はっきり言ってしまうと、優里子を引き寄せて、抱きしめて、キスしたいと思った。だけど、頬をつねるその手に、この気持ちが伝わってしまったらどうしようと焦る。しかし同時に、伝わってしまえ、やってしまえとも思う。

「唯我!早くっ!」

 あの笑顔に近づきたいけど、近づきたくない。

「せっかくの海なんだから、ゆっくり見ながら帰ればいいだろ」

 視線を優里子から反らし、海を見た。優里子のことを見つめていたいけど、見つめ続けるのは難しい。

「もちろんよ。ほら見て。きれいだよ、海」

 その横顔に感じる素直な気持ちを言うには、気力を全て使い切るくらい、強い勇気が必要だった。

「うん。……きれいだ」

 海が。優里子が。

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