第四話 魔女の森へ(1)

 遠くに見える山脈や太陽の昇る方向、星の位置、天使が空に描く残光を数えながら、エアリーとルウは北へ歩みを進めていく。


 ルウを担いで歩いた三日間の距離がその方角と真逆ではなかったのは幸いだとエアリーは思っていた。歩き続けるほどに森林の幹は細くまばらになって、夜風が冷たくなっている。秋の終わりが近づいているだけが理由ではないだろう。


 北の大地は寒さが厳しいと聞く。寒さが極まると、空から白金の綿が降るという話をどこかで聞いたことがある。天使達の衣がそれで編まれているとか、それはエアリーが知っている雪と違うのだろうかと急に気になったりもした。


 旅路の目的はあくまで塔を見つけて昇り詰めることだったが、エアリーの知りたいことはたくさんある。


 堕天使が森林の豊かな亜熱帯の土地を選んで旅団を成し、移動しているのは移牧や沸き水、狩猟のためだけではない。絶えず空からの脅威に怯えている者としては、木々の下に潜んでいれば見つかる危険性を減らすことができるからだ。


 南に多く群生している広葉樹は広く枝を伸ばして葉を茂らせ空から身を隠してくれる。そんな木々を大切な精霊の一部だとして、祈りを捧げる堕天使もこれまでに何人かいた。


 寒い土地に適応しているという細長い針葉樹が多い北の大地が近づいてくると、少なからず不安を感じてしまう。気温が下がり、身を隠す場所が徐々に減っていくにつれて、エアリーとルウは想像を遥かに超えた緊張と疲労に打ちのめされた。


 けれど、目的に近づいている実感が二人の支えとなっていた。木々の姿かたちが徐々に変わっていくのを見ながら、エアリーはルウの後を追う速度を変えずに、塔に向かっているという確かな感触の正体を探るのだ。


 広く低く成長する木に守られている場所から、高く細く天に伸びる木は、心のどこかで高く細長いと言われる贖罪と祈りの塔を連想させてしまうのだろうかと、エアリーは考える。こんな抽象的なことをどうやったらルウに伝達することができるか、そういったことを考えるのは旅の疲れを紛らわす作業でもあった。


 それに加えて、贖罪と祈りの塔には、夥しい数の天使が群れているという言い伝えを二人は知っている。それが事実であれば、進むに連れて数える天使が増えているという事実は、塔に近づいている手ごたえとも考えられた。


 呼吸を浅くしながらエアリーとルウはひたすらに北上を続けた。辛く厳しい道のりであったが、孤独に殺される寸前だったエアリーにとっては生きている感触に思えた。


 二人は夜明けと共に歩き始め、時折挟む保存食をとる休憩を経て、日が落ちる前に寝床に都合が良い場所を探す。頭上の空をひとしきり警戒し終えたルウが振り向き、ぱっと笑顔をくれる。一日を生き抜いた苦労を分かち合えるルウの存在は、嬉しかった。


 高く澄んだ空に、幾多の星々が帯を編んでいる。様々な明るさに輝く星を見上げながら、数えたりしているうちに星と星が線を結び絵になる。


 エアリーはいつも不思議に思いながらルウに伝える。ルウはエアリーの表現を何一つとして否定せずにいつも笑顔で頷く。

「あれが兎の耳? あたしには鹿の角に見えるよ」

 空に響かないように、こそこそと木の根元でルウの囁きを聞くのが、エアリーは大好きだった。


 エアリーがルウに伝えたいのは星の形だけではない。むしろ、伝えたいことがルウに出会ってからたくさん増えてしまった。今まで投げかけることさえできなかったいくつもの疑問を、どうやってルウに伝えれば良いのだろうかと考えるのが近頃の楽しい悩みになっている。


 いつ天使に殺されるか知れない身であっても、エアリーはルウと夜空を見ながらついつい笑ってしまうのだった。


 月明かりが一際強く輝く夜、一日を歩き通した二人はようやく身を隠せそうな木を見つけた。これまでの道中、エアリーは翼の紋で動物から取った毛皮を加工して連ね、腱で皮を縫い合わせ、二人分の手足を包む防寒具を拵えたりもしていた。


 ルウが最初に獲った野兎の皮は細く伸ばし、肩掛けにしてルウの首に巻いてある。そういった作業を見る度にルウは「器用だね」と感心した様子で褒めて、エアリーはくすぐられるような気持ちになって顔を伏せる。


 その日の夜は雲一つなく風も穏やかで、梢の掠れる音すら聞こえなかった。どこまでも静かで、吐息さえも天上に響いてしまいそうなほど凪いでいた。


 二人はいつものように、同じ樹の幹を背もたれにして座っている。エアリーは今日初めて採った、親指ほどの赤い果実の毒味をしようか考え込んでいた。


 静かだ、とエアリーは思ってルウを見た。いつもなら聞こえてくるはずの、干し肉に噛みつく音が聞こえてこなかったからだ。


 横を向いて夜空を見ているルウの茶色い瞳を覗き込んだ。トパーズのような眼に、写り込んだ星空がぎゅっと詰め込まれている。ルウが思い浮かべているのであろう空への強い欲求が彼女の翼に現れているのか、その羽先を時々ざわつかせている。


 エアリーは今ルウを突付いても驚かせるだけになりそうだと、持っていた赤い果実を半分かじった。瞬間、エアリーは思いもよらぬ酸味に全身を跳ねさせた。勢いあまって頭を後ろの木にぶつけ、さらには舌を噛んでその場に転がるように倒れる。


 その音で反射的にルウが腰を浮かせて横を見るも、エアリーが両手で頭を抱え、ぶるぶると痛みに悶絶している姿に呆気に取られる。ルウは吹き出しそうになりながら笑った。


 エアリーは自分でも馬鹿みたいだと思い、顔を真っ赤にしながら涙目でルウを見る。そんなに楽しそうな顔をしないで欲しいと訴えて、強く目線をとがらせても、ルウはくつくつと笑うばかりだ。


「それは苺って言うんだよ、エアリー」


 ルウはエアリーを起こし、その乱れた髪を指先で直しながら、ふっと何かを思い出すような顔つきで話し始めた。


「あたしが前にいたとこの仲間は男が多くてね、木が少なくて果物はあんまり取れない場所だったよ。北も寒いみたいだけど、うんと南だって寒いんだ。香辛料なんて、聞いたことはあってもエアリーに会ってから初めて知ったんだよ。あたしの故郷はね、地面の半分は凍ってたんだ。だから肉が腐る心配はなかった。動物を仕留めて、すぐに血抜きをしないと、すごい速さで凍っていくんだ。分かるかなあ、血抜きの途中で、流れる血がみるみるうちに凍っちゃう」


 エアリーは真冬に時折降るくらいの粉雪しか見たことがない。出血を止めるほどの速さで何かが凍りついていく世界について、想像を巡らせることしか出来なかった。


 ルウはそんな過酷な土地が嫌で、亜熱帯の土地にやってきたのかも知れない。エアリーがそう思っていると、ルウが目を合わせて、続きを話し出した。


「そこでは、活火山があってね。燃えながら火と煙を噴く山があって、その中は暖かいんだ。うまい具合に横穴が開いてて、たまに地面が揺れたりしてたけど、天使に見つかる心配も少なかった。湖から氷を割って運ぶのが一番大変だったかなあ、革の手袋も濡れると痛いくらい冷たくて、指がちぎれそうだった。それを山の深い熱い場所の釜で溶かしたのを飲み水にしてさ……」


 これまでエアリーは自分に対して積極的に話しかけてくる者が少なかったせいか、知らない響きの言葉が多く、何度か首を傾げてしまった。しかしルウはその度に気付いて、ひとつひとつ意味のある単語を地に書いては組み合わせ、教えてくれた。


「氷っていうのは、水の塊だよ。なんて言えばいいかなあ……雪は見たことある?」


 エアリーは頷いて自分の抜けかけた羽を一枚引っ張り抜くと、頭の高さまで持ち上げて羽を落とした。伝わるだろうか。雪の色を表現するには羽が土埃にまみれ過ぎていたが、ルウは分かってくれたようで笑いながら頷いてくれる。


「そう。氷は雪と水が固まって、白い粉をまぶした石みたいになってるの。そういえば、塔は水晶みたいなものでできてるって聞いたけど、それは透明で溶けない氷みたいなものなんだってさ!」


 笑顔でエアリーは応える。少しでも塔に関わる話になると、ルウはすぐに興奮する。エアリーは、ルウの希望に満ちた顔を見るのが好きだ。天使という恐れを超えてしまえる強さを持った明るい顔は、ルウ以外に見たことがない。


「でも、あたしは塔があるかも知れないっていう噂と、おおよその場所しか知らない。贖罪と祈りの塔。そのてっぺんは雲を突き抜けて、山よりも高くて、ほら、あの星の近くにまで伸びてるって話だよ。今更だけど、それってさ、あたし達を襲ってくる天使がたくさんいる空に近づくってことなんだよね……」


 そう言ってルウは声色を暗くした。エアリーも理解している。空へ向かえば向かうほど、天使の脅威は強まる。


「それでも、あたしは飛びたいんだ。翼が欲しい」


 ルウは干し肉を噛みちぎり、刺激を求めたのか、黒胡椒の粒も口の中へ放り込んだ。ルウは黒胡椒の粒が好物なのだ。肉と一緒に噛み砕いて、目と鼻に染みたのだろう、ルウは息を止めて瞼をぎゅっと閉ざし、一息ついてからエアリーに聞いた。


「堕天使がたくさんいる街のこと、知ってる? 都だったかな……移動しない堕天使達が住む場所」


 エアリーは頭を横に振った。


「堕天使の都がこの渓谷の向こうに、魔女の森を抜けたところにあるんだって。本当にあるのか分からないけどね。今はその都に向かってるんだけど、途中で魔女の森を通らないと行けない。迂回する道もあるけど、見える? あんな大きな山を回りこんでいたら時間がかかっちゃうし迷うかも知れない。それに、寒くなって雪が降る前にその都に到着したい」


 魔女。初めてそれを耳にしたエアリーは想像が追いつかなくて、特に感情を揺さぶられることはなかった。目を細めてじっくりと考えてみると、心なしか不吉な響きを感じた。


「歩く天使が森に住んでいて、そこはなぜか天使もあまり近寄らない。どうしてそこが魔女の森っていう名前を付けられたのか、それも分からない。天使が住む森なら、天使の森じゃないのかな?」


 それを聞いたエアリーは頷いてますます不思議に思った。堕天使が空を飛ぶことができないように、両翼の天使は地に降り立つことができない。真偽は不明としても、それは自然な考えとして浸透していることだ。


 歩く天使、魔女の森。それを避ける天使。謎だらけだ。


 恐怖と好奇心が混じりあって、エアリーは木の枝で「見たい」と地面に書いた。それを読んだルウは一瞬きょとんとして、苦笑しながら言う。


「君って不思議だね、エアリー。それじゃあ、行ってみようか」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る