第二話 翼ある者と水晶の塔 ルウ

 エアリーはなぜ自分が生まれ、なぜ生きているのかを知らなかった。けれども殺されるのは怖いし嫌だ。死んでしまった方がどれだけ楽であろうとも本能は死にたくないと喚き立てる。生き続けるもう一つの理由は、自分の背中にある翼がどうして一枚だけなのかを知りたかったからだ。知る術はあるのだろうか。


 赤百合の実を胸の前で握りしめ、エアリーは隠れるように片翼で自分を覆う。風が冷たくなってきていることを認めなければならなかった。草花が球根を大地へ残すのは冬を越して次の春に自らを芽吹かせるためだ。やがてこの森も紅葉に染まり南下しなければエアリーは寒さに殺されるだろう。


 不意にエアリーはこの球根のために火を起こし、飢えを満たしたならばもう槍に刺されてもいいような気がした。天使に見つかった瞬間、痛みを感じる間もなく自分は滅びるだろう。


 気が付けば肩も膝も震えている。孤独、飢え、冬、天使、心はとうに擦り切れていて次の春まで一人で生き延びることは叶わないだろう。身体よりも心が先に死んでしまう。この世界に堕天使は自分一人しかいないのではないかという考えもよぎった。寂しさで魂がねじ切れてしまいそうだ。生きることを諦めても非難する者は誰もいない。


 深く大きく息を吐いたエアリーは自分の翼から一本の羽を抜いて羽柄(うづか)の先で火を起こす紋を宙に描こうと腕を上げた。最後の食事になるだろうと確信した瞳にじわりと涙が滲む。


 羽が光の文字をなぞり始めたその瞬間、がさりと近くで草木が擦れる音が聞こえて、エアリーはその逆方向へと飛びはねる。音を立てた者が両翼の天使なら自分はここで死ぬ。逃げる意味がないことを悟り、エアリーは恐怖で暴れる心臓の鼓動に痛みを感じながら立ちつくした。頭の中が真っ白になり、直立のまま音の方を見る。それ以外に何もできない。


 やがてうめき声と共に、草むらから片翼の女が這いずりながら姿を現して、エアリーの緊張が限界まで達した。天使ではない、その一点だけは明らかになった。一切の余地もなく殺しにかかってくる相手ではないと分かり、エアリーは唇を震わせながら止めていた息を吐き出す。


 地に転がったままの女を見る。うつ伏せでよく見えないが体の線から見て女だろう。いや、少女? はっきりと分からないし分かったところでどうしようもない。やせ細り、服の合間から覗いているあばらが浮くほど衰弱している。


 癒えてはいるが右肩や背に矢でも掠めたような鋭い傷跡があった。少なくとも自分に危害を与えようとする力はないだろうと安堵した直後、その女と目の向きが合った。相手は意識も混濁している様子で視線が定まっていない。唇が動いていても声さえ出せないようだ。


 放っておいても数日と保たず飢餓で息絶えるだろう。もちろん助ける義務はない。助けようと思えないほどの衰弱ぶりだ。傷跡から見てもこの女は天使に追われている可能性すらあり、近くにいれば自分にも危険が及ぶだろう。


 何よりも正しいことは一つだ。即座にこの場から逃げなければいけない。これまでの経験から痛いほど知っている。エアリーは自分の足が一歩二歩と女から退いて行くのを感じた。


 その足音でようやくエアリーの存在を認識できたのか、女は伏したまま顔の向きだけを上げてこちらをしばらく見つめた。妙な緊張感の中でその女は僅かに微笑んだ。


 助けてくれる者を見つけた、という顔ではなかったためにエアリーはひどく混乱した。逃げ出そうと考えていた自分を責めず、むしろそうしろと促されているような気がする。エアリーは自分の決断に身震いして、その女に背を向けて走り出した。


 知るものか! 助ける必要はない!


 身を隠してくれる森を抜け出し、エアリーは全力で駆けた。そして球根を洗った湖に飛び込んで全身を沈め、水中で髪の毛と翼をゆする。湖は思いのほか深く、足の先が付かなかったので派手な水音を立て泳ぎ、湖から這い上がった。赤百合の実は手放さない。


 再び大樹へ駆け戻り、エアリーは倒れたままの女の頭を自分の膝の上へ乱雑に引き寄せて近くに実を置いた。


 女の口に指を突っ込んで開くと、水をたっぷりと含んだ自分の髪の毛を絞って女の口へと雫を落とす。女の喉が動き、水を飲んでいることを確認する。髪の毛の水を絞りきってから近くに転がっていた小石で球根をこそぎ、それを指の先に乗せて女の頬の内側へ塗り込むように含ませる。それから今度は翼に含んだ水分を絞って垂らし飲み込ませる。


 ここまで衰弱した者にこんなことをしてもきっと助からない。それでもエアリーは球根のほとんどを名も知らぬ女に与え、爪の先ほど残った球根は自分の口に放り込んでろくに味わうことすらなく飲み込んだ。


 あれほど激しく湖面を波立たせたからにはこの場所を離れなければならない。エアリーは女を背に担いで必死に湖から遠ざかりながら、途中で食べられそうな若芽や小さな木の実を片っ端からむしって食べ、その残りを草袋に入れて歩き続け、日が落ちる頃に体力が尽きて倒れた。


 背負った女が地に落ちた衝撃で呻く。今のところは生きている。


 自分はなんて馬鹿げたことをしているのだろうと思う反面、エアリーは自分を犠牲にして誰かのために動けたことに可笑しさが込み上げるのを感じた。


 背の低い木々に隠れ、エアリーは自分と女を温めるように翼で覆い、眠りに落ちていく。

 エアリーの耳のすぐ近くで女のかすれた声がぼそぼそと聞こえる。

「翼をもらいに……行こう……贖罪と、祈りの塔の頂上へ……」


 この女もエアリーも見ての通り堕天使だ。地に堕ちた天使、その証明である一枚だけの翼。飛べない翼。


 けれど堕天使とは何なのか、堕天使である自分達はそれを深く知らない。疲れ果てたエアリーは眠気で意識が途切れそうになりながらも、女の発した言葉を頭の中で繰り返した。贖罪の塔、その頂上、祈り、翼をもらいに行こう。


 まるで塔を見つけて登れば片翼しかない自分達に、足りない翼を与えてくれるように聞こえる。そんなことが本当にあり得るのだろうか。もし与えてくれるのであれば、それは翼だけなのか。


 それから三日間、幸運なしにエアリーと女は生き残れなかったに違いない。エアリーは行くあてもなく女を背負って歩き、鳥の巣ごと落ちたと思われる卵を拾っては女に分けて飲み込ませた。


 水場を見つけられずにいた二人に大雨が降り注いで、異様なほどの暴風が木々から丸々と育った虫の幼虫や様々な果実を撒き散らした。その嵐は同時に、エアリー達の生きて歩いた足跡を消し、周囲の天使から二人を守りさえしたのだった。


 四日目の朝、エアリーが目を覚ますと隣に転がしておいたはずの女は消えていて、呆然とその場に座り込んでどうするべきかを考えたが何も思いつかなかった。この四日間は夢か何かだったのだろうかと首を傾げた時、がさりと茂みの中から女が現れた。


 エアリーは驚愕して片翼をぴんと伸ばし、女を見てさらに驚いた。女はまるで何事もなかったかのように立って歩いていること、そしてどうやって捕獲したのか女は大きな野兎を肩に担いでいたことだった。


「あっ、起きてたんだね。ありがとう、あたしを助けてくれて。名前、教えてよ。あたしはルウって言うんだ。君がいなかったら、あたし死んでたよね」


 ルウと名乗った彼女の声は少しかすれてはいたものの、言葉にはしっかりと生命力を感じる。

 良かった、助かった、生きてくれた。エアリーは嬉しく感じて、座り込んだまま泣きそうな表情で笑顔になった。


「えっ。何で君が……そんな顔をするの?」

 ルウはどぎまぎしてどうしたら良いのか分からずに狼狽えた。エアリーは両手で滲んだ涙を拭い、立ち上がってルウの正面に立つ。


 直立しているルウは向き合っているエアリーよりも一回りほど小柄ではあるものの骨格はがっしりとしている。まだやつれていることは差し引いても、顎先までの栗色の髪と気の強そうな顔立ちが凛々しく、どこか少年のようにも見える。胸の膨らみが貧相だったので余計にそう感じるのかも知れない。


 エアリーは名前を聞かれていたことを思い出して、戸惑いながら周囲を見渡し、短い木の枝を掴むと自分の名を大地に書いた。どうやって自分のことを説明すれば良いのか分からず戸惑っていると、先にルウが気付いて目を丸くした。


「エアリー、エアリーっていうんだね……君、喋れないの?」

 エアリーはルウの問いに頷いて見せた。


「そっか、エアリーが堕天使なのはそのせいかな。言ったら悪いけど分かりやすいね。あたしはまだ分からないんだ、知らない奴の方が多いけどね。最初に君を見たとき、あんまりにも眩しくて天使かと思ったくらいだよ。あの森で、あたしはここで死ぬんだろうなって感じて、それもしょうがないって諦めてた。木漏れ日がきらきらして、自分が消えて行く感じがして、ここまでだと思った。そしたら君の綺麗な髪があたしに雨を降らした」


 ルウは喋りながら野兎の耳を掴んで持ち上げて見せた。

「血抜きはもうしてあるよ。もうちょっと体力があれば、別な場所で血抜きをして、それを嗅ぎ付けてくる動物も獲ってくるんだけどね。君に何も言わないで狩りに出たし、正直なところ一匹仕留めるので精一杯だったよ」


 ルウは逆の手に持っていた一本の羽の根をごく僅かに光らせると、切れ目を入れてかなり雑に野兎の皮を剥いだ。だが、それを終わらせると膝を落とし、野兎を草の上に放り出して地に両手をついて顔を上げ言った。


「ごめん。まだ全身に力が入らないや」

 そんなのは当たり前だとエアリーはルウを寝かせて休むように示した。

 そして何か月かぶりに見る肉の塊を目の前にして、夢か幻ではないかと自分の羽で撫ぜたり突いてみたりした。


「捌ける?」

 ルウの問いにエアリーは頷く。久しぶりの解体作業で少し不安を感じたが、体が覚えていた。刃物を作っていなかったので、今回は羽を使う以外に方法はない。炎を出すよりもさらに単純で原始的な力である「切る力」を念じると、羽柄の先が仄かに光を帯びる。光った部分は刃物の代わりに物を切断することができる。


 貴重な食糧だ。手早く小分けにして水分を飛ばさなければ悪くなってしまう。二人だけならこれで五日は生きていけるだろうという重さだ。エアリーは丁寧かつ素早く羽を操り解体を始め、あっというまに終わらせた。


「すごい。今まで見たことないくらい、綺麗だ」とルウが感嘆の声をもらした。

 日が昇っていて明るいうちしか光る熱源は使えない。肉を蒸し焼きにして、残った分は干し肉にしなければ日持ちがしない。エアリーは柔らかい土を掘って穴をあけ、草に肉をくるみ、埋めてまた土を被せ、その上に刃物代わりに使っていた羽を置いた。まだ羽には力が残っている。


 羽に指先を伸ばして心を落ち着かせる。今度は炎を出すよりも慎重な羽の使い方をするので、緊張しながら紋を描いて術を使った。刃物だった羽が今度は赤熱を始め、周りに熱を発する。この熱で肉を蒸し焼くのだ。覆った土がほとんどの匂いを吸収してくれるので天使に気づかれることはない。


 じっくりと時間をかけて加熱された肉は柔らかく、軽い手の力でほぐれるほどの絶妙な仕上がりとなった。干し肉にせず、真っ先に食べることにしたのはもも肉だ。岩塩だけをまぶしても弾力のある肉質と鮮度で美味い。半分に分けて、なんだか夢見心地のような気分で、ルウにその半分を渡す。


 ルウの表情を見ると、数日前まで死にかけていたルウも同じような気分になっていると察した。四日前の自分たちは、今こうやって野兎の蒸し焼きを食べるところなど決して想像できなかったのだ。


 ともあれ、せっかくの出来立てが冷めていくのを見るだけなのは馬鹿らしいとエアリーとルウは思い、ほぼ同時にかぶりついた。美味い。表面にまぶした岩塩が味を引き締め、新鮮かつ適度な加減で火が入った肉には、新鮮な血を思わせるかすかな酸味と塩味も感じられ、感想をもらす間もなくたいらげてしまった。もう少し食べても良いだろう。二人とも怒涛の数日間を過ごしてきたのだからと、今度は野兎の背肉を手に取った。


「エアリー。君、料理上手いね。あたしがやると生焼けか焦がすかのどっちかなんだけど、あはは」

 喜んでもらえたのは単純にうれしかった。エアリーは残った蒸し肉を紐で通して木と木の間にかけて、手持ちの黒胡椒を揉み込んで乾燥させはじめた。


「ねえ」

 ルウが、その作業の合間にぽつりとつぶやいた。


「エアリー、あたしは塔に行くんだ。聞いたことくらいあるよね。贖罪と祈りの塔。そこの頂上に正しい贖罪と引き換えに堕天使の祈りを叶えてくれる場所があるんだってさ。その……もし良かったら、なんだけど、一緒に来てくれないかな?」


 なぜだろう、エアリーは迷いなく頷いたのだった。


 言葉を喋ることができないエアリーはどこに行ってもどれだけ懸命に思いを伝えようとしても他者から厄介者として扱われていた。そんな自分をルウはいとも容易く受け入れてくれたように見えたのが嬉しくて、エアリーは感動で身震いを隠せなかった。

 もしかしたら命を助けたことに恩を感じていて、ルウをそうさせたのかも知れない。それでもエアリーは嬉しかった。また泣いてしまいそうな気持ちになって、変な奴だと思われないように、エアリーは肉にかぶりついてうつむく。新鮮な血肉は涙のような塩味がする。


「ううん? でも正しい贖罪と祈りを捧げるって、どうやったら喋らずに神様に伝えられるんだろうね? ま、いいか。あたしも自分がどうして堕天使なのか、よく分かんないしね」と、屈託のない笑顔でルウは白い歯を見せる。


 そして、二人の堕天使は片翼の意味と塔を探す旅を始める。

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