エアリー ~贖罪と祈りの塔~

水瀬はい

第一話 翼ある者と水晶の塔 エアリー

 エアリーは物心がつく前から一日を生きるために逃げ続けていた。物心がついた頃に聞いて、今も不意に思い出す物語がある。誰がそれを語っていたのか、今はもう思い出せない。


 この大地のどこかに贖罪と祈りの塔しょくざいといのりのとうと呼ばれる、頂上が見えぬほどに高い高い水晶の螺旋階段がそびえ立っているらしい。その塔は生きた木のように今も天上へ向かって伸び続けていると、曖昧で遠い日の記憶が閃光のように頭の中を駆け巡る。


 エアリーは知っている。こんな風に過去のことが眩しく思い出されるのは、自分自身が信じられないほど疲れ切っているせいだ。気を緩められる時間があまりにも短すぎて、緊迫状態が当たり前になっている。いったいどれほどの距離を歩いてきたのだろう。


 生まれてからいくつの日を数えてきたのか、それを知る意味も方法も分からない。ひたすら飢えに耐えて、空に怯え続ける日が繰り返される。


 エアリーは思う。目覚めた瞬間また自分は生き延びてしまったのだと、目を開いてすぐ涙が溢れる日もあった。意識のないままに息絶えてしまえたらどんなに楽だっただろうと思えてしかたがない。だが、その涙が乾くまで震えている暇もなかった。


 立ち上がって、歩いて、進まなければならない。死なないために、生きるために。


 警戒に警戒を重ねどんな虫の音も聞き漏らすまいと、エアリーはまた周囲を見渡す。逞しい木々が生い茂る森の中で風が頭上の梢を揺らし、ちょうど頂点へと差し掛かった太陽の光は、風の声に応えるように木漏れ日を散らす。


 豊かな枝葉がほとんどの日光を遮っていたせいか、駆け抜ける素足の裏に草露を感じる。たくさんの荒れ地を走ってきて生傷のある足裏に染みて少し痛い。痛いと感じるだけまだましだと思った。腐りきった足は痛まないのだから。


 動物の気配はしない。気配は感じられないがどこかにはいる。目線を感じる。エアリーがここにいることを聡い動物達は知っていて、無用な被害を避けるために身を潜めている。そんなことは今更確認するまでもない。


 狩猟を得意としていた男達の罠の作り方はどんな様子であったか、今となれば見ておけば良かったと何度も後悔した。集団生活を転々とするうちに、エアリーは男の方を長く見ることをやめていた。そうしなければならなかった。


 静かな森の中で様々な記憶を思い出し、いつもなら気が滅入っていきそうなところだったが、今日のエアリーは予想外の収穫を得ていて気分は違った。食べ物だ。喜びで胸がはち切れそうだった。


 前に生活を共にした女連中から聞いていなければ、絶対に雑草と見間違う小さく白い花。その根を掘り起こすと、思った通り握りこぶしほどの球根を見つけた。その赤百合あかゆりの実を見るのは生きてきた中で四つ目になるだろうか。


 血の色を帯びたその球根を致死の実と呼ぶ者もいた。雑草の中に潜んで育ち、見つかったら血の色を見せることにこじつけて「まるで空に怯える我らのような実ではないか」と言うのだ。これを食べれば本当に元気になるのにと、エアリーは心底悲しくなったことを思い出した。


 とにかく空腹で倒れそうなところに赤百合の実を見つけて、それをしっかりと掴んでいる。エアリーはあまりの嬉しさに、せめて土を落として食べたいと思った。


 上空を睨みながら森を出て静かに湖へ近づいていくと、やがて凪いだ水面に自分の姿が映し出される。エメラルドの瞳、土埃を洗い流せば薄い蜂蜜色の髪は少し癖がありふわふわしていて、季節を三つ数える間に乳房のあたりまで伸びていた。寒さを凌ぐために移動の合間に草糸で編んだ服を着ている。


 自分の姿は泥と乾いた土にまみれ、片翼もまた同様に汚れていた。ある程度は汚れていても光を弾かなくてすむので不都合はないのだが、肌と翼に土埃がついている不快感はある。慣れた感覚ではあった。


 その時、遠くから耳をつんざく風切り音が聞こえて、エアリーはその場に伏せた。胸の鼓動が早鐘を打つ。地に伏せたまま目線だけを動かして、頭上の空を天使が飛んでいくのを見送った。耳を澄ませ、ひとまず危険が去ったことに安堵し、遥か遠くへと飛んでいった天使の方を見る。


 真昼でさえも光の尾を引きながら、流星のように飛んでいく両翼の天使の残光を見やり、姿の違いに打ちひしがれる。


 二枚の翼を持つ者を天使、一枚しか持たない者を堕天使という。それ以外の表現を聞いたことがない。


 自由に空を飛べて美しい衣服を持っていながら、どうして天使は堕天使を殺そうとするのだろう。エアリーは唇を噛み締めながら、湖面を波立たせないように赤百合の実を洗い、素早く森へ逃げ込んだ。この森に辿りついてから自分の寝場所としている大樹の根本へ飛び込む。


 久しぶりに得た特上の食糧をまじまじと見つめて、一瞬それを火で炙りたいと思った。そうすることで良い香りが立ち甘みも増す。しかしそれはできない。香り高いものは絶対に地に埋めて、熱源の下で加熱するのが鉄則だ。


 火を起こして出る煙も香りも上空へ立ち昇ると、あっという間に感づかれて天使達が飛んで来る。そして空から恐ろしい数の槍と矢を投げられ、大地がめくれ上がるほどの攻撃をされ全てが終わる。以前に自分を含む堕天使が隠れ潜んでいた二十人ばかりの旅団はそれが原因で滅びた。


 旅団がどうしようもない食糧不足に陥ってしまい、ちょうどエアリーは夜に一人で食糧を探しに遠くへ出ていた時のことだ。食べ物が焼ける匂いに気付いて振り返った時には既に遅かった。食糧庫に何一つ残っていないのを確認してから出たので、誰かが隠し持っていたのだろう。


 きっと、最後の食べ物を火で焼いてしまう衝動に駆られたに違いない。そこに稲妻のごとく無数に降り注ぐ槍と矢を遠目に見て、仲間達が襲われていると察した。夜の闇は閃光で裂かれ、かなりの距離があったはずだが、エアリーは遠くから吹いてきた爆風に飛ばされて気絶してしまった。


 目が覚めてから一度旅団の住処に戻っては見たものの、大地が穿たれて命の気配は微塵も感じられず、それから一人で放浪するようになって今も生き延びている。

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