植物、動物、人間

 今年の芍薬は蕾が七つもついて最高記録でした。いつもより膨らむのが早く、一番花と二番花はあっという間に咲きました。いつもなら蕾がついてからなかなか膨らまないはずなのに、珍しいなと思っていたら、あとの五つがフリーズしてしまいました。全く膨らみません。一番花と二番花は早めに摘み取り、後の蕾が育つようにしたつもりでしたが、全然育ちません。


 摘み取った花のほうは、やっぱりいつもより小さかったのですが、みるみるうちに大きくなって、最終的には今までと同じくらいの大きさになりました。赤ちゃんの顔くらいあります。しかもいつもより少し色が濃かった。リボンもしっかり入って美しかったです。

 ただ、香りがダメでした。あの甘く艶やかな香りは全くなく、日本酒みたいな匂いがしました。強さは少し弱いけど、夜になると部屋中に広がりました。やはり生き物ですよね。全く同じにはなりません。


 


 私はベジタリアンではないのですが、ベジタリアンの人は動物愛護でお肉を食べないのかな?可哀想だから?

 確かに、残酷だと思います。

 だけど、それが人間なんだと思っています。

 ライオンが肉食であるように

 牛が草食であるように

 人間は雑食なのです。


 植物も生きているんですよね。私はお花しか育てていないけど、彼らの生命力を強く感じます。意思の疎通は出来ないけれど、手をかけてやるとイキイキと咲きます。そういうのを感じると、このほうが生きやすいんだなとか、好きなんだなとか、植物にも個性があるなと感じます。


 そうして育った野菜を食べてしまうのは可哀想なのか?


 私は植物が好きだけど、可哀想だとは思いません。痛がったり血が出たりしないからかな?でも、故意に乱暴に引きちぎられたり、踏みつけられたりしているのを見ると可哀想だと思います。いわれのない暴力を振るわれても、植物は逃げることも抗うこともできません。


 花を植えることで一つだけ決めていることがあります。それは、植えたけど気に入らないからと、途中で捨てて違うものに植えかえたりしないこと。最後までちゃんと育てること。

 理由は命だから。ペットと同じです。最後まで責任をもって面倒をみる。だから苗を買うときはすごく悩みます。どこに置くか、一年草か多年草か、ちゃんと育てられるか。厳選しています。

 観賞用だし、私が買ったものだから私の自由にして構わないのかもしれないけど、だからといって何でもかんでも自分勝手にやってしまうのは、人間の勘違い、横暴だと思っています。


 食べるということと、可哀想ということは違うと考えています。

 命を頂くときに私達ができること。

 残さず食べること。

 残さず食べることは命の冒涜ではなく

 尊重にあたると思っています。


 お肉になってしまう動物達には申し訳ないとは思います。でも可哀想とはちょっと違います。可哀想なのは、食べられずに捨てられてしまうこと。殺しておいて食べないなんて、横暴すぎます。命の冒涜です。

 劣悪な環境で飼育されるのも可哀想です。でも、だから食べないのではなく、飼育を変えればいいのだと思います。

 植物に対しても、ちゃんと育てなかったり、野菜が嫌いだからって食べずに捨てられたりするのが可哀想だと思います。


 そして植物を育てていると、自然と虫や動物が集まって来ます。今もノースポールがもう終わりで枯れているのですが、てんとう虫が卵を産み付けたので片付けられなくなりました。枯れかけた植物には虫がつきやすく、アブラムシがついているのを目当てにてんとう虫がやってくるのです。

 これも自然の成りゆきです。片付けてしまうのは横暴だと思うので、みんな巣立つまで待とうと思います。サナギを見つけて子供達と観察したりして、楽しみになっています。


 私は庭の植物や虫や動物達と一緒に生きているという気持ちでいます。庭は、自然の一部を間借りしている感覚です。自宅の庭だけど、だからといって何でも好きにしていいとは思いません。生きることは綺麗事ではなく、業を背負っているのだと思えば人間の横暴さも減ると思います。命を頂く者として、命の尊厳を守る。それが生き物としての作法なんだと思います。

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