第37話『夏の決心』4
夕食の時間まで泳ぎに泳いだ僕らが、着替えて、ナギちゃんの別荘に入ったのは十九時過ぎ。別荘は壁の白が涼しげな西洋建築まるだしの家だった。玄関から入るとメイドさんが「お帰りなさいませご主人様」と冗談のようなことを真面目くさって言いながらやってきて、僕らの荷物を肩代わりしてくれた。
聞けば今専属シェフが今日の夕食を作っているらしく、本当に至れり尽くせりだ。
並べられた料理の数々はどれも舌鼓を打ってしまいそうなほどの出来で、僕は幸福の極みを味わう羽目になってしまった。
フランス料理になったフォアグラ。
本場イタリア仕込みのボンゴレ。
ブイヨンのスープ。
どれ一つとっても僕のお小遣いじゃまかなえないレベルの料理だ。
おのれブルジョワジー。
そしてありがとうブルジョワジー。
豪華な夕食を終えた後……、僕らはリビングでくつろいだ。
リビングといっても常識より数倍広いリビングだ。
やることもないのでソファに寝転がってダラダラしていると、頭にタオルの束を乗せてバランスをとりながらナギちゃんがこっちへ近づいてきた。
頭の上のタオルを一枚とって僕に渡すナギちゃん。
「はい、シロちゃん」
「はぁ、どうも」
素直に受け取る僕。
「ここのお風呂ね、温泉になってるんだよ」
「あ、やっぱり?」
いい加減ブルジョワ発言にも慣れてきた。
「いっしょに入ろ♪」
「うん、いいよ」
僕がそう答えると同時に、華黒が盛大にお茶を吹いた。
「……なにやってんのさ、華黒」
「兄さんこそ! 何を言ってるんですか!」
「何ってお風呂に入ろうって話だよ」
「でもい、い、い、一緒にって……」
「そうだね」
「私も一緒に入ります!」
「何で!? 駄目に決まってるでしょ!」
「でも楠木さんとは入るって!」
「ナギちゃんは子どもだから別に……ねえ?」
「そんな例外は認められません! 私も一緒に入ります!」
「華黒、貞淑に」
「静粛に、みたいに言わないでください!」
激昂する華黒の近くで本を読んでいた昴先輩がこう提案した。
「皆で入ればいいじゃないか」
……うそん。
*
嘘じゃなかった。
本当に四人で入ることになった。
華黒と昴先輩はそれぞれ花柄と黒のビキニを着て、僕も水着を着ての入浴となった。
うちの数倍広い浴場でゆうゆうと足を伸ばして入れるのは、それだけで有り難味があるというものだ。
「裸でもいいですのに」
という華黒の提案は当然ながら全力で却下。
何を考えているんだか、うちの妹は……。
「いい湯だな~、と……」
露天風呂から夜空を眺め、幸せの溜息をつく。となりでは昴先輩が惜しげもなく体のラインを晒していて、もう一人の僕が少し元気になってしまったりして。
「シロちゃ~ん」
「はい?」
「髪洗って~」
「はいはい」
言って湯船からあがり、ナギちゃんの背後に座るとワシャワシャと頭をかいてやる。
「兄さ~ん」
「はい?」
「背中を流してもらえますか~?」
言ってトップスをはらりと脱ぐ華黒。乳房が見えようとした瞬間、僕は視線を逸らす。
「だから華黒は! そういうのはやめてって言ってるのに!」
「兄さんになら私見られたって……」
「僕が駄目なの!」
まったく。
「では私が洗ってあげよう」
と言ったのは昴先輩。すかさず華黒の背後を取り、セクハラをかます。
「きゃ! どこを触って……!」
「いいではないか。減るものでなし」
「そこは兄さん専用の聖域です! 触るな、この……!」
……聖域て。
「ふはははは、私のゴッドフィンガーにかかれば全ての子猫ちゃんたちはメロメロだ」
「だから触るなと……!」
もう勝手にやればいい。
僕はシャワーを掴んで、ナギちゃんのシャンプーを流してあげた。
*
風呂からあがった後、僕は体を冷やすために夜風にふかれに外に出た。
ナギちゃんから渡された甚平を着て、下駄をはいて、砂浜に出る。
波の音を聞きながら砂浜を歩く。
夜空を見上げれば見事な天の川。
「あれがベガ、あっちがアルタイル、あそこがデネブ」
夏の大三角を指でなぞる。
ベガが織姫。
アルタイルが夏彦。
駄目カップルの代表だ。
織姫も夏彦も結ばれてからというもの夫婦生活にうつつをぬかしてすっかり怠け者になり天帝の怒りをかったという。
「ジュバ、アンタレス、シャウラ……」
あれらはさそり座だ。
冬の代表的な星座であるオリオン座の、その天敵。
さそりが苦手なオリオンはさそり座が現れると西の空へと逃げていくんだそうだ。
気が遠くなるほど離れた星々も、地球から見れば天球に収まってしまう。
まぁ元々アステリズムは天動説のイメージから派生したものだから当たり前といえば当たり前なのだけれど。
夜風が吹く。
風にゆられている髪を、かきあげる。
「兄さん」
呼ばれて振り向けばそこには華黒が。
着替えは使用人さんが用意してくださった浴衣姿だ。
「こんなところにいたんですか。少し探してしまいました」
「ナギちゃんと昴先輩は?」
「屋内で卓球をやっていますよ」
「そっか……」
まぁ昴先輩なら子ども相手に本気にはなるまい。
華黒がとてとてとこちらに近づいてきて、僕のすぐ横に座る。
それから僕を見上げて言う。
「座りませんか?」
「そうだね」
特に反論もなく僕も座った。
華黒が肩を寄せてくる。
「二人きりですね」
「そうだね」
僕は抵抗しなかった。
華黒の髪からシャンプーの香りがした。
「いい雰囲気だと思いませんか?」
「否定はしないね」
夜の砂浜で肩を寄せ合う男女。
シチュエーションとしては完璧だ。
「キス、しませんか」
華黒が言う。
「しない」
僕が断る。
「照れなくてもいいんですのに……」
「照れがあるのは否定しないけど、重要なのはそんなことじゃないよ」
「私が兄さんを好きで、兄さんが私を好きで、それで他に何の資格を求めるというんですか?」
「華黒のそれは幻想だと僕は思ってるから、かな?」
「私はたしかに兄さんを愛していますよ?」
「僕は華黒に僕以外の人も見てほしいんだ」
「……他人は恐いです」
それはそうだろうけどさ。
「僕だって他人だよ」
「兄さんは例外です」
「…………」
僕は何も言わずに、座ったままで華黒から少し離れた。
それから砂浜の、僕と華黒の間に、指で線を引いた。
そして言う。
「ここに線を引こう、華黒」
「…………」
「境界線だ。僕は華黒の誘惑には応じない。華黒の兄であり続ける。そして華黒も……僕の妹であり続ける。これはそういう線だ」
「…………」
これは宣誓だ。
「華黒、好きだよ。でも……愛せない」
「…………」
泣くかもと思ったけれど、華黒は吐息をついただけだった。
「……そうですか。兄さんの言うことはよくわかりました」
「…………」
「私、先に部屋に入ってますね」
そう言って華黒は立ち上がった。
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