第21話『憲法第二十四条』1


 えっちらおっちら……というのは死語だろうか。


 僕は紙の束を抱えてゆっくりと歩いていた。


 場所は学校。時間は放課後。生徒達の帰宅ラッシュは騒々しく、廊下は流れるような人波を作っていた。僕もその流れに便乗して帰宅したいところなのだけど生憎とそれは許されない状況だった。重ねられたパンフ用のプリント百五十枚を両手で支えて職員室へとテコテコ歩く。


「だいたい書類運びなんて委員長の仕事だろうに」


「その委員長に頼まれたんです。部活が外せないので頼らせてもらえないだろうか、と」


 僕の隣を歩くのは同じくプリントを抱えた妹の華黒。僕と一緒に産卵期の鮭よろしく生徒たちの流れを逆さに上る。


「で、引き受けたのね。外面良くするのも一つ大切だろうけど、あまり演技しているのも考え物だと思うよ」


「兄さんが演技しなさすぎるんです」


「正直がモットーだからね」


 自分で言ってて嘘くさい。


「だいたい僕を使わなくても華黒の手伝いをしたがった男子がいっぱいいたような……」


 委員長に仕事を押し付けられていた華黒を横目に、僕は支度を済ませてさっさと帰ろうとしていたのだ。そしてそんな僕とは対照的にクラスの男子は華黒が仕事を引き受けるや否やよってたかって助勢を申し出ていた。


 華黒大人気。


 さすが僕の自慢の妹、これなら僕の手助けも必要ない……と思っていたのだけれど、華黒は脱税の発覚した政治家を取り囲む取材記者達のごときクラスの男子にニコリと笑ってこう言った。


「あら、ありがとうございます。でも大丈夫ですわ。私の兄さんに手伝ってもらいますから」


「……何でさ」


 もう完全に帰る気満々だった僕は、華黒の暴挙にそうとだけ呟いた。


 というわけで華黒の仕事は手伝わされ、ついでに男子からは嫉妬の視線のレーザービームで焼き裂かれ、踏んだり蹴ったり泣きっ面に蜂。散々なものである。


「そうでなくとも華黒だったら山本リンダばりにこまっちゃうナって言えば男子に仕事押しつけられただろうに」


「嫌ですよ。兄さん以外の男子に借りを作りたくなんてありませんもの」


 さいですか。


「それに下心のある男ってうんざりするんです。もう少し兄さんみたいに高潔な男はいないものでしょうか」


 アプローチしてくる男はうんざりで、アプローチしてこない男は赤の他人と決め込んでおきながら彼女は何を言っているのだろう。


「そもそも妹に下心を持つ兄なんていないよ」


「そういう意味では兄さんの妹という立場は歯がゆいですね」


「難しい問題だね」


 心にもないことを僕は言った。


 ああ……世界はこんなにも茶番だ。



 

    *



 

「「失礼しました」」


 兄妹揃ってお辞儀。慇懃に頭を下げて職員室を出る。


「んー……」


 僕はこった肩をほぐそうと伸びをした。だいたい力仕事なんか僕にはむいていないのだ。


「まったく華黒のおかげで余計なことしたもんだよ」


「先生にも委員長にも感謝されて一石二鳥じゃないですか」


「君がそれを言うのかな」


 まったく説得力を感じない。


 そもそも書類一つ運んだだけで感謝も何もないだろう。きっと先生だって今日が終わる頃には僕らの功績など地平線のかなたへと忘却しくさっているはず。人の善意の価値なんてそんなもんだ。


「……なんて考えは歪みすぎか。華黒じゃあるまいし」


「はい? なんでしょう?」


「なんでもないよ。それよりどうする? このまま帰る?」


「そうですね。このまま学校に残っても部活の勧誘を受けるだけですし……」


 華黒は、ね。


「早く帰りましょう。兄さんと二人きりになりたいです」


 とたんに帰りたくなくなる僕。


「とたんに帰りたくなくなる僕」


 口は正直だった。


 などという茶番はさておき、


「さて、今日の晩御飯は何にしましょうか。兄さん、リクエストはありますか?」


「うーん、そうだね……」


 ひとしきり悩んでから、僕はこう言った。


「華黒が食べたい」


「はぇ?」


 文字通り目を丸くして華黒が驚いた。


「はぇ?」


 僕も驚いた。


「…………」


「…………」


 一時の沈黙。言葉の意味を理解するまでに僕らは数秒の時間を要した。


 そして、


「は、はわ……!」


 ボフンと湯気を立ち昇らせながら華黒が紅潮する。


「に、ににに、兄さん……! そ、それは……! わわわ私と添い遂げる決心ををを……!」


「違う違う違ーう!? 僕は何も喋っていないよ!?」


 などと、ひとしきり兄妹で慌てていると、


「ふ、くく……あははははっはは……!」


 すぐ近くから笑い声が聞こえてきた。どうやら僕らの醜態を笑っているらしい。


 ていうかこの聞き覚えのある声は……。


「ふふ、ははは……いや失敬失敬。実に面白いね君たち兄妹は。まったく羨ましいかぎりだよ」


 そこにはおかしそうに笑う彼女がいた。


「……昴先輩」


「……昴……!」


 僕と華黒が同時に名を呼ぶ。


 僕は疲労を、華黒は敵意を乗せた声で。


 クセのあるショートをツンツンに尖らせて、自信に満ち溢れた双眸を輝かせ、不敵な笑みを口元に浮かべ、尊大に腕を組んでいる彼女。彼女こそこの瀬野第二高等学校のカリスマ敏腕生徒会長、酒奉寺昴その人である。


「やあやあ百墨兄妹、これはこれはご機嫌麗しゅう。特に華黒君、我が背の君よ。私と出会えない夜は枕を涙で濡らしたかな」


「「…………」」


 僕と華黒は揃って言葉を失くす。どうしたって彼女の言動には引いてしまう。


「もちろん私は君と出会えない夜は星を見上げて恋歌を詠んでいたよ。君の残光を星座に映してね」


 のっけからとばすなぁ昴先輩。


 開いた口がふさがらないとはこのことだ。


 隣の華黒は頭痛がするのか、こめかみを指で押さえたうえに苦虫を噛み潰したような顔をしていた。昴先輩は僕以外の全てにおいて不遜であるはずの華黒の数少ない天敵なのである。


「とりあえず一つ訂正させてもらいますが背の君とは夫を指す言葉です。女の私に向けて使う言葉ではありません」


 ほら、華黒のつっこみのポイントがずれてる。昴先輩の空気にのまれた証拠だ。


「なに、広義的に解釈すれば女性が愛しく想う人のことを指す言葉であるのさ。ならば私が華黒君に向けて使うことに何の問題もない」


「…………」


 うーん、昴先輩絶好調。


 黙ってしまった華黒に代わり、僕はおずおずと挙手した。


「あのー、一つ質問してもいいですか?」


「うむ。許可する」


 何様だ。


「さきほど僕の声色を使ったのは先輩ですか?」


「『華黒が食べたい』……のことかな?」


 う、わーお。どこかの怪盗顔負けな声真似。


「そんなこともできたんですね、先輩」


「最近習得したのだよ。あったら面白いと思ってね」


 完全にからかう気まんまんですね。


 ちなみにこの人、百以上の技能を持つ多才である。特に得意なのはブラのホックを外すこと。たとえコートの上からだろうと女性のブラのホックを外せるほどの腕の持ち主だ。たまに本人が意図していないのにいつのまにか外していることもあるそうで、ここまでくるとただの病気といえる。


「とまれ、そんなことはどうでもいいのだよ真白君。それよりももっと建設的な話をしようじゃないか」


「……まぁ毎度毎度確認するのもなんですが建設的な話と言いますと?」


「それはもちろん、私と華黒君の未来について……」


 と、突然。


「昴様っ!」


 僕らと昴先輩の会話を断つ大声が響いた。

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