4
シンが行ってしまうと、部屋は急に静かになった。
朔夜は清々したとばかりに、大きく伸びをすると、自分が今いる部屋を見回した。
ティアラの姫さま発言が原因で、朔夜はあまり室内を見ていなかった。
ただこの部屋に辿り着くまでにかなり時間がかかったことは覚えていたため、家の中は大層広いのだろうということは予測がついた。
監視でもするように背後に控える真っ白な毛皮の獣を一瞥して、ベッドの上に寝転ぶ。
寝台は一人で眠るには大きすぎるほどの広さがあって、体を反転させても下に落ちることはなかった。
無機質な造りのアスガードの建物とは違い、シンの家の調度品は有機的なデザインで統一されている。暗澹のデザインとはまた異なる精緻な細工が施されたものが目立つ。
本物の木で作られているわけではないと思うが、光沢や質感はそれに近いものがあった。
寝そべったまま端末携帯の電源を入れると、それに呼応して、部屋のどこかにある端末が作動した。
木を削って作られているような調度品ばかりなのにどこに端末があるのか、部屋を見回してみてもわからない。
しかし部屋の中はすでにどこかにある端末が広げた仮想空間となっていた。
「如月……」
漏らしたわずかな呟きの中に意思を感じ取り、検索システムが稼動する。
キサラギの意味、キサラギという苗字の人間。キサラギという単語を含めたあらゆる分野の情報が自動的に仕分けされて目の前に表示される。
「……キサラギ、アリ・キサラギについての情報を……」
再びつぶやくと、すぐに新たな検索結果が現れた。
精神科医アリ・キサラギの略歴や論文についてのサイトがずらりと並ぶ。
検索件数が少ないのはアリ・キサラギという人間が地球上に一人しかいなかったからだ。けれどもそれはその名が珍しいというわけではない。キサラギという苗字を持つ一族が、地球上に朔夜の一族しかいないからだ。
しかしそれは如月という苗字だけに限ったことではなく、この世界では当然のことだった。
OSVの災害で、当時地球にいた人間の約七割が死亡し、その生き残った人々のほとんどが火星や月に移住してしまった。
今、地球上にいる人間に火星や月の移住者はいない。移住するのに巨額の金銭を必要としたコロニーには住むことが出来なかったからだ。
暗澹の五百年の半分も超えないあたりで
火星に取り残された人造人間もジュール・ベリドゥール襲撃事件ののち、地球からの攻撃で絶滅したと云われている。
限られた金持ちのみが住むことを許されたコロニー。そこに移住することが出来たのはごくわずかな人間だけだった。
稀に親族以外でも同じ苗字を持つ人間はいたものの、それでもその割合はごくわずかだった。
「……う……っ」
朔夜はアリ・キサラギでヒットした情報が並ぶそこから目を逸らし、手で顔を覆った。
まただ。
自嘲するように口の端をあげ、朔夜は枕に顔を押しつけた。
頭の熱で枕は気持ちが悪いほど熱い。
待っていればじきに冷えてくるのは分かっていたが、それまで耐えることなんてきっと出来ない。
朔夜は頭の上で手を交差させ、その中に顔を埋めるようにして位置をずらした。
―――朔夜
脳裏に声が響く。低音が低すぎて聞き取りづらいその声は死んだ父のものだ。
ちょっときつめの目を細めて微笑い、大きくて厚い掌でそっと頭を撫ぜる。
朔夜と望という名をつけたのは父なのだという。
キサラギという不思議な音感の姓に心惹かれ、色々と文献を読み漁った母がそれらしくしたいと云ったらしい。二人でアスガードの国立博物館にまで出かけ、ようやく見つけ出した名前なのだと聞いたことがある。
両親の強いこだわりにより自分と弟の名は漢字で登録された。
―――朔……
弟の姿が脳裏に浮かぶ。
廃ビルの中まで追いかけてきてくれたときや、死ねと叫んだときのショックを受けた顔。
それらの記憶は一週間前に戻ったとは思えぬほど定着していて、もうかなり色褪せていたが、それでも時折フラッシュバックしたときに心臓を襲う衝撃は云い尽くせないくらいの威力を持っていた。
「……っ」
心臓部をつかんだまま、朔夜はベッドに顔を押しつけ目をつむった。
叫びたいような気分に駆られたが、それをするにはあまりに理性が働きすぎていた。
唇を噛み締めてこらえ、衝動が薄らぐのを待つ。
そのままの体勢でじっとしていると、近くで音がした。眉根を寄せて顔をあげると、そこにはシンが友人だと云ったあの真っ白な体躯の獣がいた。
「キラ……」
動物を飼ったことがない朔夜には、自分の首と同じ高さくらいあるその体躯が怖かった。
ぶるりと震えて身構えると、キラはさらに近づいてきた。
「何…だよ……」
しりごみながら、それでも侮られないように睨みつけると、キラは鋭い目を朔夜に向けたまま、ニ、三まばたきした。そしてついっと目を逸らすと、固まっている朔夜を置いて、部屋を出て行ってしまった。
「おい……」
精巧な彫を施した木材調の自動ドアが軽い音を立てて閉まると、その後は張り詰めたような静寂が場を覆い隠した。
突然訪れた沈黙は、ぴりぴりとした痛みとともに
沈黙は嫌いだ。誰もいないあの家を思い出す。
◇
真っ暗な闇の中に水音が響く。
高く低く鳴るその音は滞ることを知らず、一定の間隔ごとに水面(みなも)をうがつ。そのたびに鏡面のごとき水の表層に波紋が広がり、溶け込むようにして再び闇に還っていく。
滑るように広がる輪。広がっては消え、はじけては幾重にも広がるそれをぼんやりと見つめる。
今見ている情景が夢であることは分かっていたが、瞼が鉛のように重くてどうにも持ち上げることが出来ない。
そのうち近くでがさがさと音が鳴りはじめ、あたりがとみにうるさくなった。
人の気配が濃く、誰かが見下ろしているのは分かっているのだが、やはり目を開けることが出来ない。
シンがまた何かしているのだろうか。
ルームメイトの存在を思い出して鼻の付け根に皺を寄せると、何か拍子に目を開けることが出来た。
視界が真っ白な光に染まり、続いて鋭い痛みが目の周りを中心に駆け抜ける。
その衝撃を堪えてそっと目を開けると、視界は酷くぼやけていて何も見えなかった。
ただ誰かがこちらを見下ろしているのは分かった。
何か云っているような気がしたが、よく聞こえない。
どうせシンだろう。
再び目を閉じようとしたそのとき、朔夜の耳は電源を入れた端末のように突然、音声を感知した。
「朔夜!」
悲鳴にも似た叫び声。
甲高い女のその声を、朔夜はどんなに年月が経とうが忘れたことがなかった。
どうして。
朔夜は呆然としたように、こちらを
色の判別がつかないくらい涙に濡れた双眸、疲労の濃い顔、乱れた亜麻色の髪。記憶にある姿とは随分変わっていたが、それでも見紛うはずがない。
四年前に永久に失われてしまった大切な人。
―――母さん
声は掠れて出なかった。
◇
さわさわと音を立てながら流れる風がマントを揺らす。
縁を彩るレッドピメントが鮮やかなクリーム色のスーツは、ここに辿り着くまでに受けた友人たちの歓待で見るも無残な姿になっていた。
ティアラなど、キラに飛びつかれたときにわずかについた泥で汚いと云うくらいなのだから、この様を見たら卒倒しかねない。
何しろ泥は付着し、水滴がいたるところに飛び散り、毛や羽は張りつくといった様相で無事な箇所があまりないからだ。
ナーサリーに入学する前までは見たことのないもので、新たにこしらえた品であることは予想出来たから、この惨状を見たティアラはきっとわなわなと震えだすだろう。
そして怒りを抑えた静かな笑みを湛えながら、この服を作った人間の涙ぐましい努力について切々と語りはじめ、最後にはもう少しおしとやかになってくれればと、母の話まで引っ張り出してくるのだ。
自分が着ているものは皆、今では珍しくなった手工業の手練が長い時間をかけて制作した、この世に一点限りの品らしい。
そのためティアラの嘆きは理解できたが、それだったら初めから着せなければいいのにと思ってしまう。
心中で文句を重ねながら、シンはようやく家に戻ってきた。
すぐに帰ってくるつもりだったのに、友人たちの予想外の歓待でかなり時間をとり、結局戻ってきたのは出て行ってから三時間も経過したころだった。
朔夜はきっと怒っているだろうと、走って扉を開けると、ただいまと口にする前に白い影が飛びついてきた。
『
いつもなら決してしないだろう友人の行動に、シンは眉根を寄せた。
それに答えるように頭の中にきらきらした光が現れる。電気のようにパチパチと弾けるとりどりの光。
シンはその光に憂いと困惑に似た色を感じ取り、思わずキラを見つめた。
『朔夜が?』
言下にキラはくるりと身をひるがえした。
客室へと導くように走っていくそのあとをシンも追う。
状況はよくわからなかったが、朔夜の身に何かが起きたようだということはわかった。
つい二週間前に自己暗示によって封じていた記憶を呼び覚ましたばかりだから、こうなることは別に不思議ではない。
逆に今日まで軽いフラッシュバック体験のみで済んだことの方が奇跡に近かった。
何しろ朔夜は目の前で弟を亡くし、そしてそれから一年も経たないうちに両親を失っているのだ。
いくら記憶が薄れようがフラッシュバック体験は避けられない。
シンは跳ねるように廊下を駆け、客室に滑り込んだ。
「朔夜!」
部屋はいやに静かだった。
てっきり呻き声でもあげて七転八倒しているのかと思っていたシンは、いささか気をそがれた様子で肩の力を抜くと、キラが待つベッドの側にそろりと近寄った。
「朔夜……」
大きな寝台の上で朔夜は枕に埋もれるようにして眠っていた。
悪夢を見た様子もなく、呼吸もいたって穏やかである。表情も安らかで、起きているときのぴりぴりした様子は微塵も感じられなかった。
キラがかたわらのベッドの上に伏せながら心配そうに朔夜を見ている。
シンは静かにと云うように唇に指を乗せると、小声でキラをうながした。
『朔夜は単に疲れているんだ。大丈夫』
ふっと笑いかけると、キラは音も立てずに床に下りた。
真っ白な毛がふわりとなびき、冠毛のようにゆらゆらと揺れる。足元までやってきたキラの頭を撫ぜ、シンはドアに向かって歩いた。
けれどもいざ部屋から出ようとしたそのとき、後ろで規則的だった呼吸が詰まるのが聞こえて、シンは思わずキラと顔を見合わせた。
「朔夜?」
慌てて戻って寝台を覗くと、朔夜の頬には涙が落ちていた。
色素の薄い睫毛が、濡れてきらりと光っている。まなじりからじわりじわりとまた透明な雫があふれ出し、目元を濡らした。
「朔夜……」
頬を濡らす涙を指先で拭うと、朔夜は微かに唇を開き、溜息でもつくように息を吐いた。
その口が何か云いたげに開き、シンは眉根を寄せる。
「何だ?」
聞き取ろうとして朔夜の口元に耳を近付けると、微かな呼気とともに押し殺したような声が聞こえた。
「……む…」
「え?」
「のぞ…む……」
痙攣するように瞼が震え、涙がまた流れ出た。
シンははっとしたように朔夜を見下ろすと、顔をあげ、眉根を寄せた。
朔夜の涙は流れては溢れ、溢れては流れと、留まるところを知らない。
「朔夜……」
シンは唇を噛むと、かたわらのベッドに腰掛け、そこから身を乗り出すようにして朔夜の顔を覗き込んだ。
水晶の粒のような透明な雫が頬の上を滑り、ピローカバーを濡らす。
純白のリネンに広がる灰色の染みにそっと手を伸ばし、シンは瞼を閉じた。
指先で触れたそこは冷たく濡れている。
朔夜は戦っている。
シンは眠る朔夜に背を向け、部屋の端末画面を開いた。
「ティアラ」
どうなさいました、とすぐに声が聞こえた。肩越しに朔夜を一瞥し、シンは端末に向かって云った。
「父上はおいでか?」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます