10

 ルオウの声が教室内に響きわたる。

 明日から始まる冬休みを前に休暇中の心がけを発しているのだ。


 普段ならば一週間も前から休暇モードに転じている朔夜だったが、最近はあまりにも色々なことが起きすぎていてそんなことを考えている余裕もなかった。

 もう休みなのかと、肘を突きながら思い、最前列に座る金色の後頭部を見る。


 シンは一日経つと元気になっていた。先日のことが嘘であるようにけろっとして、いつもの調子で挨拶してきた。朝練のときも同じで、様々な人間と明るく談笑している。


 ジェセルが気にしている様子もなく、昨日のことが夢か幻のようにも思えてきた。けれどもそうではない証拠にシンは前日のことを謝ってきているし、今日の放課後も殺人未遂事件(仮)の捜査の続きを図書館ですることが決まっている。



 何なんだろうな。



 ほうっと溜息をついていると、ルオウが高らかに声を上げた。

 聞いていなかったことを咎められるのかと思い、びくっとして教卓に目をやると特に何ということもなく、単にこれから授業に入ろうとしているところだった。


 いつものように授業前の復習が始まり、主任教官の低い声が今日の生贄の名を読みあげる。

 その瞬間呼ばれなかった生徒たちはいっせいに安堵の溜息を吐き、生贄が緊張に震えた声で次々と問われる質問に答えるのを憐れみの視線で包み込む。けれども答えられないものがあるとその視線は一気に非難にすげかわる。その問いに代わりの生徒が答えなければならないからだ。


 このときばかりは朔夜も緊張し、雑多な記憶であふれている脳内の掃除に躍起になる。けれども今日は運の良いことにクラス一成績を誇るヨハン・ゲーリングが指名されたため、生徒たちの緊張感は早くも失われていた。


 普段よりもゆるやかに授業へと入ったのだが、平穏は長くは続かなかった。

 授業が始まってしばらくしたころ、こめかみに微かな痛みを感じたのだ。



 頭痛か?



 ついていないとばかりに朔夜は息を吐いた。

 早く薬を飲まないと、もっとひどくなるだろう。


 授業が終わり次第飲もうと考えながら前を向いた朔夜は、そこで止まった。


 目の前に月の絵がある。宇宙から映された典型的な全体像だ。

 金色とも黄土色ともつかない色をしたその衛星は、漆黒の夜空を明々と照らす。



 知っている。

 ベルベットのように艶やかな紺青の空を、そしてそれを切り裂くように輝く黄金の月を知っている。



 あれはどこで見た?



 梢を揺らす風の音。うるさいくらいの虫の声。いつもは明るいはずの木々がコンクリートの塊のように冷たくそびえ立ち、威圧する。



―――朔



 真っ青な空気が視界を埋め尽くす。

 ここは教室で、室内は確かに明るいはずなのに、自分の見る映像は暗いのだ。


 教卓ではルオウが声高らかに話しているはずなのにそれが感じられない。


 人工色が強い明かりに照らされた教室に、折り重なるようにして広がる黝(あおぐろ)い森の映像。その青は、水の入った器にインキを一滴垂らしたようなそんな色をしていて、夢の中の街に流れる空気と同じだった。透明であるはずなのに不透明な空気。

 あるはずのない木々がざわめき、耳たぶを冷たい風がかすめる。



―――朔



 ざわざわと鳴る葉擦はずれに混じって不穏な音が聞こえる。何かをひきずっているような重たい音。不定期に、しかもやたらと間隔を開けて鳴るその音は、森の奥から聞こえてくる。



「う……っ」



 ずるっずるっとじょじょに近付いてくる音に朔夜は戦慄した。


 この次に起きることは予想出来るはずなのに、それでも体中に蔓延する恐怖から逃れることが出来ない。



―――朔



 木々の合間や根の窪みはすでに真っ暗だった。藍色の闇が林立するそれらをさらに色濃く見せる。海のように深い青。


 どうにかものの形がわかるという暗闇の中でずるっずるっという音が不気味なほど大きく聞こえる。



―――どうして



 次第に近付いてくるその音に、朔夜は歯の根も合わなくなるほど震えていた。


 これは幻覚だと、そうきちんと認識できているはずなのに、延髄反射のように恐怖が込みあげてきて自分を制御出来ない。

 森の映像に重なるようにして存在している明るい教室も、ソリッドビジョンの絵のように遠くて、空間が分断されてしまったかのようだ。


 朔夜はじょじょに大きさを増す音から少しでも逃れようと両耳を押さえた。


 けぶるような空気はいつの間にか周囲の闇と同化していて、青しか見えなくなっていた。今や前面に出た青の空間と重なって、先程まで自分がいた明るい教室が見える。

 それはかなり昔の、まだ背景が透けて見えていた時代のホログラフィースクリーンを彷彿ほうふつさせた。


 朔夜は心臓が収縮したような酷い息苦しさを感じた。


 目の前に林立する木々の間に溜まった暗黒が針のような鋭さをもって全身の皮膚を突き刺す。

 初めは怖さで打ち震えていたはずなのに、恐怖のあまりに朔夜は途中から何が何だか分からなくなった。

 パニックにも似た状態の中、ただガタガタと震え、目の前の脅威から逃れようとする。


 その脅威は森の奥から手が現れた瞬間、一気に頂点にのぼった。



「……っ」



 薄暗い森と重なるようにしてピカピカ光る教室の床が見える。

 最早リアリティが感じられなくなったそこからにょっきりと手が伸びている。小さくて、細い子供の手。


 その手は、早送りで見る植物の芽の生長記録のように右に左に揺れながら、腕を伸長させ、床を這いずった。

 それはまるで土を持ちあげて出てきたゾンビのようだった。カタカタと細かく震えながら、おかしな動きで床を這いずり、地の底に埋まっているらしい胴体を持ちあげる。

 節々の折れ曲がり具合が際立つ細すぎる指。折れそうなくらいに華奢なそれが、却って恐怖を助長する。



「あ゛……」



 おかしな声が咽喉(のど)の奥からする。


 あまりの恐怖に飲めずにいた唾が咽喉のど元に引っかかって呼吸がしづらい。嚥下えんかしようにも、視界の奥で匍匐ほふくする手がそれを許してくれなかった。


 明るい教室と綺麗に磨かれた床。しみなどそこにありはしないのに、朔夜の視界に横たわるそこは青い空気と真っ黒な木々や土で覆われた夕暮れの森だった。

 けれどもそこは暗いはずなのに人工的な明かりがひしひしと感じられる。二重にぶれた映像と二重にぶれた感覚。

 それだけでも眩暈がするほど気持ち悪いのに、鼻につく異様な臭いと、べちゃべちゃと鳴る水の音、そして何よりもこちらに向かってくる手のせいで余計に気分が悪くなった。


 墨をかけたように真っ黒な草の上を白々とした手が這う。

 緩慢な動作で動くたびに背後の塊が湿った音を立てた。闇夜の中でてらてらと光るその塊は異臭の根源でもあった。

 きつい鉄の臭いをまといつかせながら、じわりじわりと間合いを詰めてくる。



 早く、早く気を失ってくれ。



 朔夜は全く遠くなっていかない意識に懇願した。


 この状況を打開するには意識を失うか、この場から走って逃げるかの二つに一つしかない。けれどもし逃げたとしても、この悪夢のような状態から抜け出せるとは限らないし、もしかすると余計に悪くなるかもしれないのだ。下手なことは出来ない。


 目の前の映像から無理にでも意識を逸らそうと別なことを考えていた朔夜だったが、次の瞬間、全てが消え失せた。



―――朔



 ぬらぬらと光る黒い塊の間から顔が覗いている。


 周囲の肉塊や暗い土の面と違い、その顔は奇妙なほど綺麗だった。傷一つついていない白い肌が暗い闇の中で鈍く輝いている。幼い容姿の弟にこれまで感じていた恐怖を一瞬忘れかけた朔夜だったが、刹那それをさらに上回るほどの感覚に襲われた。


 黒々とした土塊に埋もれていると思っていた望の顔の下半分は、溶けてしまったようになかったのだ。


 潰れたトマトのようにぐちゃぐちゃになった黒い肉と悪臭を放つ液体。

 大きな目がぎょろりとこちらを見、半分しかない唇がぶるぶる震えながら開いた。



―――どうして、ぼくを見捨てたの?



 見捨ててなどいない。



 大きくかぶりを振った朔夜の視界にシンの姿が一瞬映った。

 青い映像の向こう、明るい教室の前の方でシンが首を横に向けて微笑んでいる。ジェセル・クラインと意見交換でもしているのだろうか。屈託ないその様子が余計に自分との境界を感じさせて、朔夜は蒼白になった。


 今に幻覚が全てを飲み込んでしまうかもしれない。


 べちゃべちゃと音を立てながら少しずつ近付いてくる血まみれの弟を凝視しながら、朔夜は心の中でルームメイトの名を叫んだ。



 シン。



 明るい光で満たされた通路にかかる青い幻覚は血の臭いであふれていた。あまりにも酷いその臭気は元々恐怖で困難だった呼吸を更に難しくした。頭痛が激しさを増し、口内に入る微温ぬるい空気に吐きそうになる。



 自分に超能力などというわけのわからない力があるのだとすれば、今こそ発動して欲しい。



 朔夜は朦朧とした頭でもう一度、シンを呼んだ。



 シン!



 言下にシンがふっと顔を上げた。誰かに呼ばれたように微かに首を動かしたのち、おもむろに振り返る。そして視線が絡み合った瞬間、何かを感じたのかシンは瞠目した。



「朔夜!」



 がたんと大きな音がして、シンが立ち上がったのが見えた。



 助かった。



 けれど、一瞬の気のゆるみが朔夜の隙を露呈した。濡れた手がびちゃりと音を立てて足首をつかんだのだ。



「ひ……っ」



―――朔……



 床から覗く顔は半分以上が崩れていて、血かどうかも判別がつかない黒い液体が全身にかかっていた。



「あ…あ……」



 朔夜は短く悲鳴をあげると、つかまれた足をむちゃくちゃに振り回し、手が離れた隙を狙って駆け出した。



「朔夜!!」



 シンの声が後ろから迫っていたが、朔夜は止まることが出来なかった。転がるようにして走り、壁に激突する。

 すぐに体を反転させ、後ろ手に壁をまさぐりながら横に歩く。



 早く、扉を。



 教室内の目は全て朔夜に注がれていたが、そんなことを気にする余裕は最早存在しなかった。



 早くこの場から逃げないと。



 そればかりが脳内にあふれかえっていて、駆け寄ろうとするシンの姿すら目に入らなかった。


 朔夜の視界は既に真っ青な森一色に染まっていて、明るい光で満たされた教室も、呼びかけに応えたルームメイトの姿もなかった。


 真っ黒な血にまみれて泥人形のようになった弟が迫りくる。それだけが朔夜の目に見えているもの全てだった。


 朔夜は顔を引きつらせ、再び足元まで追ってきた手を足で蹴散らして教室から逃げ出した。

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