7
その青い空気を見ていると、幼いころを思い出す。まだ家族が生きていたころ、親友と出かけた郊外の丘。東の方からじわじわと現れる、滲むような青に押されて、家に帰った。
丘に行くと、家に帰ってくるころにはもうかなり暗くなっていて、必ず母親の小言を浴びた。
診療が終わった父親がそれを
二階に上がって着替えをしながらベッドの脇にある窓を見ると、外はいつもその青に染まっていた。
―――朔夜
怒っている母親と顔を合わせたくなくて、自室にこもっていると大抵父親が覗きに来た。
きつく唇を噛み、涙を堪える自分に、父は頭を撫ぜながら、母がどれほど心配していたかを優しく云って聞かせた。
―――お母さんは心配してるんだよ。朔夜がずっと帰ってこないから、もしかして誰かにつれていかれたんじゃないかって。外には野生動物もたくさんいる。いくらバリア装置をつけてるからって絶対じゃないんだ
謝ってきなさい、と優しく微笑まれて、それでこらえていた涙があふれた。
胸は締めつけられたように痛く、何もしていないのに咽喉の奥が熱くなった。とめどなくあふれる涙を必死に拭いながら、何度も何度も頷き、しまいには大声をあげて泣き出した。
父はそんなとき、何も云わずに、泣き止むまでずっと髪を撫で続けてくれた。あたたかくてしっかりした掌。顔をあげるといつだって元気出せと云うように笑ってみせた。
―――ちゃんと薬を飲むんだぞ
あの事故の日、父は玄関で振り返った。すぐ帰ってくるからと心配そうな目をする母の肩に手をやり、開いたドアから去った後姿。
ドアの閉まった瞬間が今生の別れになるとは思いもしなかった。
「う……っ」
朔夜は込みあげるものを感じて、口元を両手で覆った。
目映いばかりの日差しが降り注ぐ庭で洗濯物を干す、母親の姿が脳裏に現れる。真っ白なシーツが揺れ、灰色の影が躍る。
―――朔夜
スカートの裾がオーロラのように翻る。庭の芝がピカピカと照り、洗い立ての洗濯物がきらきらと光を零す。
微笑みを投げて寄こす母の姿に重なるようにして真っ白なカプセルが現れた。
―――ザンネンナガラ……
その言葉を発したのが誰なのかは覚えていない。ただ古代の呪文のように流れるその音とともに誰かが泣いていたのは覚えている。堪え切れなくなったように零れる低い声が静寂の中にこだまし、沈黙がより一層重くなった。淡々と響く呪文と、縫いつけたように取れない純白のカプセル。
―――
どこかで誰かがその台詞を云った。
―――足りないなら今ある柩に入るだけ入れて。密閉して処理しないと
脳裏に数え切れないくらい沢山のカプセルが並んだ。決して狭くはない空間を埋め尽くす柩の群れ。何十何百という数が並んだそれは圧巻というよりは気味が悪く、寒気すら覚えた。
「…ぐ……っ」
突如として耳鳴りが始まった。鐘のように脳内で高く低く鳴り響き、頭蓋骨に当たって反響する。
「う……」
朔夜は頭を抱えてその場に座り込んだ。
頭が割れるように痛い。
いや、いっそ割れてしまった方が楽になるのではないかと思うくらいの痛みだった。破裂寸前と思わせるほど脈打つこめかみを押さえ、必死に痛みを堪える。
―――十、九、八、七、六
何の音だ?
頭痛のせいで幻聴が聞こえるようになったのかと思ったが、その頭痛が激しすぎてまともに考えることも出来ない。
痛い痛いとそれだけが脳内を支配し、その他の単語はこの世から消滅してしまったかのように出てこなかった。
―――十、九、八、七、六、五
音とともに鋭い痛みが耳を貫いた。痛みが全身を駆け巡り、頭部全体を締めつける。
―――十、九、八、七、六、五、四
無数の針が脳を突き刺し、おかしくなりそうなほどの数が頭を埋め尽くした。
―――十、九、八、七、六、五、四、三、十、九、八、七、六、五、四、三、二
―――十、九、八、七、六、五、四、三、二、一……
「やめろ!!」
叫んだ瞬間、耳鳴りも頭痛も吹き飛ばされてしまったかのように消えた。
なんだ、はじめからこうしていればよかったんだ。
安堵にも似た思いを抱きながら、まだ少しだけ重い頭を押さえて、顔をあげた朔夜はそこで動きを止めた。
「どこだ?」
思わず独語して辺りを見回すが、眼前に鎮座する景色が変わることはなかった。
青い空気に満たされていた薄暗い空間は、陽光降り注ぐ昼間の大地に様変わりしたように明るく、そこにある全てのものをさらけ出していた。
ピカピカに磨かれた床に、眩暈を引き起こしそうなほど高い天井、スパイラルが美しい層、そして高級ホテルのエントランスを彷彿(ほうふつ)させる二連のエスカレーターなど。先程までいた場所と共通するような光景をそこに見出すことは叶わない。
朔夜は警戒しながらも、こんなふうな情景が出てくるということは何か理由があるのだろうと足を踏み出した。
ひやりとした感触が裸の足から直に伝わってくる。朔夜は感電したように走る寒気にぶるりと体を震わせ、追い立てられるように歩を進めた。
途中いくつかモニターがあった。その画面の右下には千五十五いう数値が刻まれている。
「千五十五?」
朔夜は端末に触れようとしたが、指はすり抜けてしまった。
「いくらリアルでも幻覚は幻覚だしな……」
そうひとりごちて朔夜はホールを進んだ。途中扉があったが、すり抜けられた。
扉の向こうに広がっていたのは真っ白な光が天井から零れ落ちる荘厳な空間だった。
雪のようにまぶしい白を呈する正方形のタイルが床一面に敷き詰められていて、光の反射によって鏡のように見える。何かを祀っている神殿のような、澄んだ雰囲気にびくつきながらまたしばらく歩いていると、視界の奥に扉が鎮座しているのを発見した。
何だか重厚そうなその扉に惹かれるものを感じ、吸い寄せられるようにそこに向かう。
扉は綺麗な細工が施された大きなもので、現在の身長の四倍近くの高さがあった。おっかなびっくり手を当てると、やはりすり抜けられる。
そこにあったのは庭だった。
柱廊に囲まれた中庭はあふれんばかりの緑で輝いている。朔夜が立つ場所がほんの少し暗いことから、その明るさは一層映えて見えた。宝石のように光る薄い緑の空間。御伽噺にでも出てきそうなそこに、朔夜はただただ圧倒されていた。
引き込まれるように踏み出し、庭に足を入れる。途端に明るい光がシャワーのように降りそそぎ、朔夜は目を細めて空を仰いだ。
雲一つない真っ青な空の上には、ここが間違いなく室内なのだと主張するように金属の骨組みが見えた。
朔夜は手をかざして空を仰いでいたのだが、ふいに何かがかたわらを通り抜けていったような気配を感じて首を動かした。明るい緑に染まる視界をふわりとした白い何かがかすめる。
何だ?
首を伸ばした朔夜は、視界の向こうに白いマントが走り去っていくのを見た。長い髪が生き物のように波打っている。
―――アイラちゃん!
声にならない声が脳内に響く。
「ルナ?」
脳裏で反響する音に、朔夜は思わず声を上げた。しかしルナレアと思しき少女はそれに気付かないようで、右に左に揺れる忙しない動きで緑の庭の向こうに溶けていった。朔夜はそのあとを追った。
庭に入るとすぐに違和感に覚えた。屈んで足元の植物を見、すぐにその違和感の正体に気づく。
植物だと思っていたのは石だった。植物のような姿に加工された緑の鉱石が部屋中に敷きつめられている。
―――はい、これ。アイラちゃんが参考にしたいって云ってた映画
水の音が聞こえる。それは部屋の中心部にある噴水の音だ。
どこからか吹き込むダクトの風に揺れて鮮やかな緑の鉱物たちがからからと音を立てている。
―――これで何するの?
不意に脳裏に刻まれた思い出の映像は二人の子供を見下ろすような形で撮られたものだった。ルナレアとネアイラ。想起する努力もなしに、二人についてのデータが頭の中に広がる。
―――この話のラストに花畑があったじゃない。お姫様が眠ってるとこのやつ。それを編集してユエの前で再生しようかなって。あの子、花知らないって云ってたから。――あ、でも最上階のドームとかの方がいいかな。ここの花もちょっとだけ持っていってあそこに敷いて映画のシーンを流すの。触れるし良さそうじゃない?
ルナが不思議そうな顔をするのが脳裏に浮かんだ。
頭上から見ているようなアングルの映像だというのに、真剣な顔をして話し合う二人の表情が頭の中にはある。それはとても奇妙な感覚だった。
―――ドームの花畑は綺麗そうだけど、でもわたしたちだって花のこと知らないよ? ここにある花と葉っぱと木だって似せてはいるけどイミテーションだし。見たことはあるけど本当に知ってるわけじゃないっていうか……
―――この間記録メディアで見たんだけど、昔は緑色の花もあったみたい。だからそんなに嘘でもないんじゃないの
―――ドームまで移動させるの大変じゃない? あそこ直通のエレベーターなんてないし。どうせ偽物ならデータから立体作るのはダメなの?
アイラは眉根を寄せた。
―――ルナはすぐ忘れるよね。今母さんたちがやってるフラグメント解析だっけ? あれがすごくエネルギー使うから節約しましょうってことでしばらく禁止になったじゃない
アイラは石の葉を集める手を止めた。
ルナは拗ねたように口元を歪め、しばらく石の下草をいじっていたが、アイラの視線に気付いたのか顔を上げた。
―――どうしたの?
―――そういえば今気付いたんだけどこの映画って、ルナが好きなやつじゃない。だから花が出てくる映画知らないって云ったときすぐにこれが出てきたのね。どんだけ見てんのよ。さすがはポエム書いてただけあるわ
―――ポエム?
―――この映画の中に出てくるお姫様役になって、王子様の役の男優と話したいとか、花畑の中で眠ったわたしを起こしてほしいとか書いてたじゃない。あれポエムでしょ
ルナは一瞬で顔を赤く染めると、にやにやと笑うアイラに対し大仰に手を振った。
―――そんなことっ。そんなこと書いてないよ!
―――嘘ついてもダメ。あたし見たもん、ポエム日記
―――ちょっ! やめてったら、アイラちゃん!! 大体どうしてわたしの日記のパスワード、アイラちゃんが知ってるの?!
―――知ってるも何も、ルナのパスワード、今みんなあの男の子の名前じゃない。あんたっていつもパス、自分が好きなものの名前なんだもん。まるわかり
―――絶対に変える! アイラちゃんには全然わかんないパスワードにする! もう云わないでよ!!
きゃあきゃあと騒ぐ二人の様子が、そのときの感情をともなって朔夜の中ではじける。
眩暈にも似た感覚に襲われ、朔夜はこめかみを押さえた。瞬間、誰かと重なるようなそんな感覚に陥った。
―――ルナ……
それまで第三者の視点で見ていたはずのルナが目の前にいる。馬乗りになって覆いかぶさって顔をたたいてくる。
アイラと同調している。
そう感じた瞬間、朔夜は頭の痛みを覚えた。
その痛みはあっという間に激化し、目の前が明滅。吐き気すら覚えた。
―――アイラ?
肩を揺さぶっていたルナが手をとめた。
―――どうしたの? アイラ、顔色悪いよ
―――頭が痛いだけ、大丈夫
すぐに不安がる幼馴染みを心配させまいと、精一杯の笑みを浮かべる。
なんでもないことを見せつけようと立ち上がったそのとき、視界が大きく揺らいだ。
―――アイラちゃん!
「う……っ」
朔夜は頭を押さえてその場にしゃがみこんだ。
知っている。
痛みも不安も悲しみも絶望も。
―――あたし、死ぬの?
視点が変わった。
やせ細り、頬骨が浮き出たアイラの姿が映る。あれだけ自慢だった美貌は見る影もなかった。まなじりから涙が零れ、震える腕を上げてこちらに手を伸ばす。
―――ルナ……
あふれた涙が落ち、空間に波紋が生じる。
気がつくと辺りは暗闇になっていた。
けれども朔夜はここが先程の庭の下に広がる空間だということを知っていた。
地下研究施設につながる巨大な空間。通常は何十ものチェックを受けてようやく辿りつけるそこは、実は庭の中心にある噴水のしかけを解けば一度の認証だけで行けてしまう。
ただ普段は気圧管理のための装置が常時稼働していて、とても人が立ち入れるような場所ではない。
メインコンピュータが停止していなければ入ることすら出来ない秘密の道だった。
まるで訪れたことがあるかのように知っているその記憶に朔夜は気味悪さを感じた。しかもその情報はルナやアイラの記憶でもない。
様々な人の記憶が入り乱れる映像に、朔夜は吐き気をもよおした。
口元を押さえながら出口を探す。
今すぐこの場から離れたいと思っても、今現在朔夜がいる暗闇は前後左右の見分けすらつかない漆黒の闇の中で、下手に動けば取り返しのつかないことになりそうだった。
発作が起きる前にどうにかしてこの場から逃れるすべを見つけないと。
そんなことを考えていると、まるでその思いに呼応したように微かな光がさした。暗黒の空間の中で煙のような白の光が揺れている。懐かしさすら感じるそれに、いぶかしむように目を細めていた朔夜はその中に人の姿があるのを見た。
「ゆ…え……?」
どこからともなく吹いてくる風に揺れて、光が静かに零れる。真珠沢の粒が漆黒の空気に散り、溶けていく。
少女は何も云わずに朔夜を見ると、悲しそうに目を細めた。
―――見つけて……
dasha、nava、ashtau、sapta、shat、panca、catvari、trini、dve、eka……
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