5

「ルナレア! ネアイラ!」



 教室に着くなり、二人は怒鳴られた。


 けれどもそれは遅刻をしたという時点で、すでに分かっていたことだ。

 二人が通う学校は、学校とはとても云えないほどのとても小規模なもので、生徒といえばルナとアイラの他十数名しか在籍していない。

 その十数名も二人とは歳が相当離れており、一番近い者でも七、八歳は上だった。そのため初等科で教師が教えるべき対象はルナとアイラの二人しかいない。


 三十も目前という教師は、瞬間整形を重ねても取れなくなってきた皺がさらに増えるのも構わず、二人に小言を云い続けた。

 主に怒られていたのは遅刻常習犯のアイラだったが、彼女は慣れきっていて特に気にした様子もない。

 そればかりか授業開始とともに悪意のこもったメッセージを送りつけてきた。その文面にはもう遅刻はしないというような反省めいたものはなく、ひたすら教師の中傷に突っ走っていた。


 初等科の教室は今よりももっと人がいたときに使われていたものをそのまま使用しているので、沢山の椅子や机が余っている。

 ルナとアイラの席は授業中に話さないように、との目的で、教卓を挿んだ真向かいに位置づけられていた。


 しかし授業は主に端末を使って行われるので、二人は口をつぐんではいるものの、文字でひっきりなしに喋っていた。


 中央の円型スペースの中をぐるぐると回りながら授業の説明をする女教師は、知ってか知らずか、時折鋭い眼差しを向けてくる。


 あまり度胸が据わっていないルナなどは、それを見ると蛇に睨まれたカエルのように身を固くしてしまうのだが、アイラはにっこりと微笑みを返す余裕さえ見せていた。


 今も熱心に授業を聞くふりをしながら、目の前の人間の悪口を書き連ねたメールを送ってくる。その内容は可憐な見た目からは想像もつかないほど酷い内容で、一旦こうなったアイラをとめる術をルナは持ち合わせていなかった。


 見つからないように不審なほど教師の動向に気を配りながら、諌める内容のメッセージを出す。



『何よ、ルナはあのババアの味方するわけ?』



 教師の背後の卓に座るアイラをちらと盗み見ると、極めて不機嫌そうな彼女の視線とぶつかった。



『そういうんじゃないけど……』



 こういうとき自分は気が弱いなと思う。意見はちゃんと持っているのに、それをきちんと口に出すことが出来ないのだ。

 ルナはなんでもはきはきと云えるアイラが羨ましいと思うこともあり、疎ましいと感じるときもあった。


 この日も結局最後まで云えず、文句に散々付き合わされた挙句、本当にそう思ってるの、というお決まりの台詞を云われて終わった。


 メールの終了は授業の終了を意味する。アイラはそれまでのことなどなかったかのように清々しい笑みを浮かべて教師を送り出すと、早速帰り支度をはじめた。

 授業の終了時刻は午前十一時半。これまでは給食の時間もあったのだが、配給の関係でなくなったため、それに合わせて午前中までとなったのだ。



 朝起きて朝食を食べて、学校に行って授業を受けて、帰宅して昼食を摂って、アイラと遊んで、宿題をこなし、また食事を摂って寝る。それが一日の行動だ。


 それ以上も以下もなく、考えてみると結構つまらない生活のようだったが、一日一日がそれなりに充実していて、疲れるとは思ってもつまらないと思うことはなかった。


 中央塔の研究所に勤めている母親は夕方になるまで帰ってこないので、いつもはそれまでアイラと一緒にいるのだが、今日は何だか疲れてしまってそのまま遊ぶ気にはなれなかった。


 家の前でアイラと別れ、もう何千往復もしている自宅の階段を上がる。



「ふーっ」



 ベッドに飛び込み、シーツに顔を押しつける。

 窓から注ぐ光はやんわりと暖かく、シーツの上に落ちたはちみつ色の日だまりはうっとりするくらい気持ちがいい。

 それまでは感じなかった疲労感が体の奥から湧き出てきて、その心地よさからベッドの上でゆっくりと四肢を引き伸ばした。


 今日は雨が降る予定もないし、このまま眠ってしまおうか。


 鼻孔をかすめる微温(ぬる)い空気としっとりと体に張りつくシーツが、全身にかかる重力をさらに増加させ、ルナはその何とも云えぬ疲労感の中、眠りについた。




 ◇




 ちらちらとかすめる光がまぶしくて目を開けると、すぐそばに静かに寝息を立てる朔夜がいた。

 いつの間にか自分も一緒に眠っていたらしい。

 

 しかもあれから大分時間が経っているらしく、仰向けに眠る朔夜の顔には黒い影とカラメル色の光が張りついている。


 シャンパンの中にいるような金色の空気。黄金色のレースが揺れるような、そんな柔らかくてまぶしい空気に目を細め、シンは軽く伸びをした。

 気怠い感覚が指先まで駆け巡り、意識をはっきりさせる。


 シンは息をつき、眠り続ける朔夜を見た。安定剤のおかげか、朔夜の呼吸はとても落ち着いている。つい先程まで暴れまわっていたのが嘘のようなその様子に、シンはふっと表情をゆるめると、カーテンを閉めた。


 一瞬にして部屋は暗がりに溶け込み、光が消える。



「明日また来るな」



 すうすうと息をする音が聞こえる。シンは軽く肩を持ちあげると、朔夜の部屋から出た。


 共用部の洗面所で顔を洗い、ふと鏡を見ると、顔は随分とやつれていた。


 確かにこれでは顔色が悪いと云われても仕方ない。


 ルオウ教官が口にした一言を思い出し、シンは嘆息しながら照合機に手をかざした。



「キサラギの具合はどう?」



 誰もいないはずの自室からの声にシンは心臓が飛び出しそうなほど驚いた。



「そんな驚かないでよ」



 のんきそうな声が返ってくる。シンは部屋の中でくつろいでいる眼鏡の少年を睨めつけた。



「いないと思って入ってきてるんだから、人がいたら驚くの当たり前だろ」



 大仰に溜息を吐いてみせると、ジェセルは目を細めて微笑んだ



「それでキサラギは?」



「今は安定してる」



「そう」



 自分で訊いたわりにジェセルの返事は気のないものだった。

 シンは顔をしかめてベッドに座った。



「そうだ、これお土産ね」



 ジェセルは膝に置いていた圧縮パックを差し出した。

 シンは礼を云ってジェセルが買っておいてくれた飲み物に口をつけた。

 けれども数秒もしないうちにすぐにそれを離し、投げ捨てるような勢いで机に容器を置いた。



「何だこれ!」



 口の中はあまりの苦味のため、何が何だかわからない状態になっている。

 今口に物を入れても、それを判別することを不可能だろう。

 叩くような勢いで自分の口に手を当て、無言になるシンにジェセルは首を傾げた。



「苦かった?」



 それを訊くジェセルは確信犯だと思った。


 シンはこれ以上ないくらいに顔を曇らせてジェセルを睨み、内容を確認するために再び容器を手に取った。中身は抹茶だった。

 尋常ではない苦味のせいで何だかよく分からなかったのだが、そう云われるとそう思えなくもない。



「シン苦いの、好きでしょ?」



「限度がある」



 舌に染みついた味は一向に消えない。シンは軽く舌を出して、ジェセルにその苦さをアピールし、容器を彼に押しつけた。



「飲めないよ」



「飲め」



 シンはジェセルの手に無理やり容器を握らせると、新たな飲み物を求めて自動ポットに向かった。


 数種あるうちのどれにしようかと手をさまよわせていると、ココアが目に入った。

 見ている側が気持ち悪くなるほど砂糖とクリームを入れたそれを無表情に飲み下していた朔夜の姿が思い起こされる。


 実際には砂糖もクリームも入っておらず、むしろどの味を選んだところでそういう味がするただの水にすぎないのだが、脳はそう認識しない。


 シンは物は試しとココアを選んでみた。緑色の立体スクリーンにしばらくお待ち下さいとの表示が現れ、数秒後に口から白いボールが吐き出される。

 ストローを出してかじるように吸いついたシンは、眉間に皺を寄せて苦笑した。



「甘すぎて飲めないぞ、これ」



 片手でボールをもてあそびながら寝台に戻ったシンはジェセルの手に押しつけるようにして容器を渡した。



「それもやる」



「何これ」



「朔夜のお気に入り極甘ココア。脳まで溶けそうになるほど甘い」



「それは凄いね」



 ジェセルはふふっと微笑うと激苦抹茶はそのままに極甘ココアを飲んだ。けれどもシンが期待したような表情の変化は現れず、そればかりか美味しいよという答えまで返ってきた。



「お前の舌もおかしいな」



「多数決だと、正しくないのはシンの方になるけどね」



「三人のうちの二人が支持したからってそれが真理になるか」



 シンのしかめ面にもジェセルはにこにこと微笑みを返すだけだった。

 幼いころから一緒だったとはいえ、ジェセルの考えていることはいまだに分かりにくい。



「シン?」



 すぐに視線に気付き、ジェセルは微かに首を傾げてやわらかい笑顔を向けた。



「どうして」



 全てを包み込むようなその笑顔が今は逆に苦しい。

 シンはジェセルを睨んだ。



「どうして訊かない」



 威嚇するような表情にもジェセルは動じなかった。表情を変えることなく黙ってシンの言葉を待っている。



「ジェシーを呼んだのはおれなのに、何も云い出さないなんて変だって思わないのか?」



「シンから云うのを待ってるよ」



 ジェセルは手を伸ばして、シンの髪に触れた。


 包容力のある優しい笑顔はそのままに少しばかり粗雑な動作でくしゃくしゃと撫ぜる。幼いころから何かあるたびに撫でてくれた手だ。


 シンは不安定に揺れていた感情がじょじょに落ち着いてくるのを感じて、浅く息を吐いた。



「ルオウ教官に」



「うん」



「ルオウ教官に云われたんだ。保護者の承諾が今すぐ必要だから持ってこいって」



「それで?」



「それでどうしようかと思ってる。ライトだっておれのフリをするにも限度があるだろ」



 考え込むように眉根を寄せるシンに、ジェセルは止めていた手をまたゆっくりと動かした。温かい感触に安心したように瞼を閉じ、シンは掌の感触を追った。



「――妹のことは気にしなくていい。クラインはそのための一族なんだから。それよりシンはどうしたいの?」



 その答えは決まっている。

 シンは顔を上げ、ちょっと眉根を寄せた。



「辞めたくない……。でもアルカはきっと反対する」



「そうだね、多分ここに来られるときはシンの説得のためだと思うし。それにシンは本当はアルカス様に会うためにナーサリーに入ったんでしょ?」



「ジェシー?」



「わかるよ。母は君の教育係で妹は替え玉だよ。これでも君のことは結構わかってるつもりだけど」



「……アルカに外に行っても同じことだって云われたんだ。どこに行ってもライザーの名はつきまとうし、名前に踊らされた周囲を不幸にするって」



「ああ、それでライザーにとらわれない友人を作るって話になったんだ」



「アルカの云ってることはわかる。アルカが変わったのは拉致されかけたおれをかばって重傷を負ってからだから。でも……」



「アルカス様に戻れって云われたらシンは戻る?」



「わからない。……でも戻りたくない」



「じゃあ、ヨーウィス様に承諾を貰いにいけばいいじゃない」



 色眼鏡の奥の目が他に選択肢があるの、と訊いている。

 選択肢など他にない。けれど戻ったところで許してくれるはずなどない。



「あの軟禁生活に戻りたくない……」



 きつく噛みすぎたせいで唇が麻痺してしまっている。



「諦めるの?」



「違う!」



 シンは声を荒げたが、ジェセルは臆した様子もなく温和な表情を湛え続けた。



「でも今のシンの態度だとそういうことだよ」



「でも父上は――」



「シン」



 噛み締めるように呟かれた名前に、シンはぱしぱしとまばたきをしてジェセルを見つめた。



「キサラギに会えてよかったって思ってるんでしょ? ライザーと関係ない友達が出来て嬉しいってこの間云ってたじゃない」



―――これ……



 脳裏にあの日の朔夜が現れる。まといつかせるように羽織った防寒具の下から、おずおずと差し出された手。その上に乗ったチップを見て、抱きつきたくなるくらい嬉しかったのを覚えている。


 口をつぐんだシンにジェセルは云った。



「じゃあ、貰いにいかなきゃ」



 ね、と諭すように微笑まれてシンは黙った。

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