11
目が覚めてすぐ耳に入ってきた音は、確実に自分のものでない呻き声だった。
朔夜は寝起きは悪くない。呻き声の主がシンだということにすぐ気がついた。
勢いよくベッドから跳ね起き、向かいに走り寄る。そしてシンの顔が苦悶に彩られているのを見て、慌ててその体を揺さぶった。
「おい! 起きろ!」
シンは起きなかったが、鼻の頭に寄せられた深い皺はすうっと消えた。
ひとまずほっとして胸を撫で下ろす。
しかし先程の夢と、シンの前髪の合間にちらちらと見え隠れするものが気を散らし、そのまま放置しておくわけにはいかなかった。
「ライザー」
呼びながら揺さぶりをかけるとシンは吐息とともに何事かをつぶやいた。
寝言だろうか。その声は朔夜を叩き起こした呻きとは違い、随分と安らかなものだった。幸せな奴と思いながらも、起こす手は止めない。
「ライザー、起きろよ」
そうして何度か呼んだが、シンの目は一向に開く気配を見せなかった。そればかりか、顔をひそめて朔夜の手を叩く素振りすら見せた。
その態度にむかつきを覚え、朔夜は揺さぶる手にわざと力を込めた。
「ライザー!」
しかし、それでもシンは起きなかった。一瞬、呼びかけに応えるようにうっすらと瞼を開いたのだが、迷惑だといわんばかりに眉根を寄せ再び目を閉じてしまった。
こいつは寝起きが悪過ぎる。
朔夜は重々しく溜息をつき、恨めしげにシンを見下ろした。
こちらの思惑など知る由もない安らかな寝顔。あどけないそれは、やはり十代半ばにさしかかったばかりの少年だのものだった。いやに達観したものの見方は年相応ではないが、黙っていればそうは見えない。
朔夜は
指先が感じる
ゆるりと髪を掻きあげると金色の糸の合間から、不可思議な形の紋章が現れた。
周囲が明るいせいか、あの時と違って発光こそしていなかったが、それでも見間違うはずがない。
朔夜はあの日見た、暗闇の中の発光体を思い出し、紋章をまじまじと観察した。図形を組み合わせたようなそれは見方によっては何かの地図とも取れる。
何でこれが発光するんだ?
ふと疑問が頭に過ぎったが、考えても仕方がないので朔夜は当初の予定通りシンを起こすことにした。
「ライザー」
シンはやはり起きなかった。
髪と同じ色の睫毛が呼吸をする度に細かく揺れ、時折瞼がピクピクと震える。
朔夜はその様子を見ながら、自分の中に言葉では表せない温かい感情が生まれるのを感じた。優しさにも似たその感情に戸惑いを覚えながら、それでも眠るシンから目を離すことが出来ない。
暑いのか、白い頬は上気し、ビスクドールのような硬い質感の肌に生気を与えている。
シンの容姿は誰がどう見ても少女のそれにしか見えなかった。
暖房が利き過ぎているのか、妙に顔が熱く、さらには頭がぼんやりしている。
現実感がまるでない今なら朔夜は呼べるような気がした。
苗字ではなく、彼の名前で。
「……シン」
ぐっと心臓が収縮した。
それとともに心の底にわだかまっていた黒っぽい影が薄くなり、代わって柔らかな光が体の内を満たした。経験したことのないような不思議な感覚に朔夜はますます困惑する。
一瞬、身を委ねてしまいたいと思うような温かな情動。けれど実際に身を預けてしまうには、朔夜の自尊心は少々高すぎた。
こんなふうに思うのはおかしいと端っから否定し、再び呼び方を改める。
「ライザー」
さらに何回か呼び、叩き、ようやくシンは目を覚ました。
「さく…や……?」
寝惚け眼をこすり、ろれつの回らぬ口調でつぶやく。
「悪い……起こした?」
「そうじゃなくて」
こっちが起こしたんだよ、と云いたくなる口を抑え、朔夜はシンの額に手をやった。先程よりも線が薄くなった紋章が再びあらわになる。
「何だよ、これ」
シンはとろんとした双眸を朔夜に向けた。彼は寝起きが良くないどころか、目覚めも悪いらしい。返答に数秒を要した。
「……これ?」
「額の紋章だよ」
「紋章……」
「そう」
シンはぼんやりと朔夜を見ながら、起きているのかどうかも曖昧な口調で話し始めた。
「体内温度が一定値を超えると浮き出るんだ。
「それでいつもシャワーを?」
「ん……そう。知ってたんだ」
「あんたが毎朝浴びてるから」
「うるかった?」
「別に」
「でも毎朝、これが浮き出てるわけじゃない。朝にシャワーを浴びる習慣があると思わせておけば、実際にそうなったとき怪しまれないだろ。おれは寝起きが悪いからいい目覚めにもなるし」
ゆるやかに応答を繰り返しているうちに目が覚めてきたらしい。少しずつ会話のテンポがあがってきた。
とはいっても朔夜はそんなに喋る方ではない。会話というほど調子よく受け答えが出来るはずもなかった。
主に話しているのはシンで、朔夜は時折それに一言、意見を添えるのみである。
そんな取留めもない会話をしばらく続けたのち、朔夜はおもむろに立ちあがった。
「どこか行くのか?」
半身を起こしたままの姿勢で上目遣いをするシンを見下ろし、朔夜は溜息をついた。
「昨日ヘルパーマシンに朝食作らせる設定しておくの忘れたから行ってくんの。あんたのことだからそのうち腹減ったとか云い出しそうだし、おれも目が覚めた以上は何か食べたいし。あんたはその間にシャワーでも浴びてて。いつまでもそんなものを額に出されたんじゃあ、こっちが落ち着かない」
「……朔夜って全然怖がらないよな」
「何が」
「だって朔夜、おれが
いやに弱気なシンの発言に朔夜は何となくおかしくなった。笑いはしなかったものの、意味深な表情を浮かべ、シンの表情をさらに曇らせた。
「……何だよ」
「――別に。ただあんたもそんなつまらないことで悩んだりするんだなと思って」
「お前にはそうでもおれには重大な悩みだ」
ぎゅっと握り締めたシーツで口元を覆い、シンはすねたように眉根に皺を作った。
人並に悩むんだな、と変なところで感心しながら、朔夜は暖かなベッドの中に再度潜り込もうとするシンを見咎めた。
勢いよくシーツを剥がし、ぐずる少年に一言告げる。
「起きろ」
◇
朔夜の父親はヤーンスに三名しかいない精神医の一人だった。
数が少なかったためか需要は意外とあり、自宅裏を改造した病院の待合室はいつも人で溢れていた。
母親はヤーンスでは珍しい専業主婦だったが、それでも如月家は一般よりもやや高めの生活を送っていた。季節ごとの旅行に月に二度の外食。にもかかわらず、ヤーンスの住宅街でもかなり設備の整った家を持てたのは、ひとえに大黒柱たる父親のおかげだった。
朔夜は前日、アルバムを見ていたせいでちっともはかどらなかった掃除の続きを黙々としていた。
かつては診療室だった裏の家。納屋と地下で繋がっているこの部屋は、せせこましいながらも患者の気を落ち着かせてやろうとする父親の気遣いで溢れていた。
母親の第二の趣味であった室内園芸で丹精込めて育てられた花がデスクの上に飾られていたのを朔夜は覚えている。名前も知らない沢山の花々。それらはむせかえるような匂いではなく、あくまで控えめな香りを放っていた。
朔夜は事故があって以来、近寄りもしなかった診療室を改めて見回し、嘆息した。この家に帰ってきてからいやに溜息をつく回数が増えたような気がする。
シンがこの場にいないのは、朔夜が買い物を依頼したからだ。ヘルパーマシンたちはおのおの仕事にいそしんでいて、これ以上頼めそうにない。ちょうどそのときシンが散歩に行ってくると云いだしたため、ついでに買い物を頼んだのだ。
そういえば命を狙われていたような気がする。
今更ながらに思ったが、すでに時遅し。朔夜は少し悩んでから、帰ってこなかったときに考えようと、止めていた手を再び動かした。
人嫌いに近い朔夜が、忌避していたルームメイト、シン・ライザーを家に呼ぶきっかけとなったのは、ナーサリーでそのころ立て続けに起こった事件だった。
シンを狙いすましたかのように落ちてくる鋼材や樹枝。
朔夜はそれが夢の中の少女の仕業ではないかと思っていた。何故ならそれらが起こる少し前に朔夜は彼女に、「目の前からいなくなればいい」と告げていたからだ。
朔夜は超自然的な現象を信じている人間ではなかったが、そう云ったことによる後ろ暗さと罪悪感で仕方がなくシンを自宅に呼び寄せた。自分とともにいればシンに危害が加わることはないだろうと踏んだからだ。しかしそれは彼の滞在期間中に勘違いだということが判明した。シンは上流階級にはよくあるお家騒動に巻き込まれていただけだったのである。
「ほんと、心配損だ」
朔夜は診療室の床をこする手を止め、溜息をついた。
けれど口に出す言葉と違って、心の中では損などとは思っていないことを朔夜は知っている。そればかりか、シンと急激に親しくなれたことを喜んですらいることを。
朔夜はそんな自分を腹立たしく思い、側にあった壁を力一杯殴りつけた。
硬い壁は朔夜ごときの力ではびくともせず、反対に手がじんじんと痛んだ。
「痛って」
おざなりに手を振り、朔夜は診療室を出た。
まだほとんど片付けていなかったが、このまま破壊衝動に駆られてなぎ倒してしまうよりかは出て行った方が被害が少なくていい。
朔夜は部屋を出てすぐに壁にもたれた。一時に感情的になったせいか、胸の奥がひゅうひゅういっている。それに発作の兆しを見た朔夜は気怠い体を叱咤しながら、自分の部屋へと向かった。
シンはまだ帰ってこない。
朔夜は自室に戻るなり、ナーサリーから持ってきたトランクに駆け寄った。鞄に入ったままになっていたピルケースを開け、流し込むようにタブレットを口に含む。薬に即効性はないが、飲んだという事実だけで朔夜は安心した。ベッドにどっと倒れ込み、冷たくなった枕に顔を埋めた。
発作はやってこないようだった。
朔夜はほっと息を吐いた。そのままぼんやりと窓の方を見る。そしてベランダと窓辺にある植木について思いをはせた。
母親がいなくなってからというもの世話をするものが消えたそこは、枯れ木と縦横無尽に蔓を伸ばす植物で覆われた一種独特の空間になっている。かつてはしおらしく絡みついていた蔓薔薇も今は楚々とした茨を張り巡らし、外壁にまでその触手を伸ばしている。
ナーサリーに行く前に見た鬱蒼としたベランダの様子を思い出し、朔夜はまだ何もしていないのに辟易するのを感じた。
―――ね、朔夜
窓を眺める朔夜の脳裏に声が響く。少し陰のある優しい声音。朔夜はその声の主を痛いほどよく知っていた。
「…ゆえ……」
声の主の名をつぶやくと、それに呼応するように再び彼女の声が響いた。
―――前に話してた花、今度見せてね
何故そういう話になったのかは覚えていない。分かっていることはそれが半年ほど前にした会話ではないことだけだ。大層前の記憶だった気もするし、もっと最近のものだった気もする。
以前話したときは覚えていないと云ってしまったが、思い起こすと確かに話していた。夢の中にどうやって現実の花を持ち込めばよいのかと思案したままになっていたのだ。
―――きっとだよ、きっと……
彼女は多分、嬉しそうに笑ったに違いない。ゆえはいつもそうだ。朔夜の一言に一喜一憂し、素直な感情を返してくる。
「ゆえ……」
背後から絡みつく、あの泣きそうな声が忘れられない。
夢だから気にする必要はない、と割り切ることも出来たはずだが、朔夜にはそれが出来なかった。そう出来ていれば、シンを家にあげることなんてしなかっただろうし、女同士の気持ちが悪い友情のようにべたべたとくっついて歩くこともなかった。夢だ夢だと思っている割にそれを否定している自分がいる。
朔夜は自嘲するように口の端をあげると、ベッドから立ち上がって窓を開けた。
曇天の合間からこぼれる陽光が窓辺の枯れた草花の一部に落ち、その一帯をオレンジ色に染める。硬い枝を伸ばした小さな木は、時折吹く風に
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