10
夢の中の光景はいつも同じ街を映し出している。
その街はほんのりと青い、
紺碧の空は墨で塗りつぶしたように一切のものが見えない。
朔夜はいつものように民家の屋根の上に座りながらぼんやりと遠くをながめていた。
先程まで朔夜はゆえといつものゲームに興じていたのだが、あまりに久々過ぎてすっかり疲れてしまったのだ。
ゆえは先の先にまで行ってしまって、もう視界の中にも入ってこない。
追いかける気力もとうに失われていた朔夜は、ゆえが戻ってくるまで休んでいようとここにいるのだった。
火照った体を冷やすように手でパタパタと顔をあおぎ、浅い溜息をくりかえす。
どうしてあんなことをしてしまったのか。
朔夜は現実世界での失態を思い出して、頭に血が上るのを感じた。
抱きしめられたときのあの声、あの感覚。何故手が伸ばされたときに避けなかったのだろう。
朔夜は恥ずかしさのあまり、何べんも頭を振った。
屋根の上で子供が一人、自問自答する姿はとてもおかしなものだったが、幸いこの世界には人はゆえの他に存在しなかったので誰にも咎められることはなかった。
眩暈がするくらい何度も首を振り、朔夜は突然はじかれたように顔をあげた。
そういえば、あいつは
ふっと頭に過ぎったその考えは朔夜の頭にかかった
そうだ、きっと
何しろ、かの民族は遺伝子改変のすえに生まれた種だ。
地球でも企業が出資している施設がいくつもあって、公然と研究しているくらいなのだから、超能力くらい使えても不思議ではない。怪しげな力によって暗示をかけられたために通常ではありえないような行動をしてしまったのだ。
そうだ、絶対そうだ。
信じているのかどうかも曖昧だったが、今はそれしか朔夜の悩みを救う手段はなかった。
なかば強制的にそう思い込むと、安心したように再び顔をあおいでいた手を動かし始めた。そしていくらかあおいだところで何かに気がついたように手を止めた。
「? あれ?」
朔夜は青みがかった自らの手をじっと見て、首をかしげた。
「どうしたの?」
座り込んだまま、動かぬ朔夜を上から覗き込むようにして、ゆえが現れた。
背後から出てきたということは多分この都市を一周してきたのだろう。
疲れを知らない顔をしてにこりと微笑む。
銀糸のように
「いつもより体が大きいような気がする」
夢の中にいるとき、朔夜の姿はいつも幼い子供のものだった。
家族全員を一時に亡くし、絶望の淵にいた十歳当時の体。身につけた衣服もそのとき着ていたパジャマで、まるで朔夜に事件のことを忘れてはならないと戒めているかのようだった。実際、この青い街の夢を見るたびに朔夜は当時の衝撃を思い出す。
親類の誰かに付き添われて行った遺体安置室。並んで置かれた白いカプセル。損傷が激しいという理由で確認を求められることはなかったにもかかわらず、幼い朔夜にはそれが家族のものだということが分かった。泣きもせず、ただ茫然と不透明な白いカプセルを凝視し続けた。
誰かとともに行ったはずなのだが、何も覚えていない。覚えているのはその誰かの
悲しいとか、苦しいとか、寂しいとか、そういう感情は一切、湧きあがらなかった。死というものがどういうものか理解出来なかった十の年。
朔夜は胸倉を服ごとつかみ、唇を噛み締めた。
ゆえのおかげで普段はそんな苦しみを感じないとはいえ、一旦思い出すと記憶は牙を剥く。それはあの事件から四年も経っているとは思えない鮮明さを持ち、ナイフのような鋭さをもって心の臓を抉るのだ。
一生、この苦しみから逃れられないのかと思うと、いっそ気が狂った方が楽なのではないかと思うこともあった。
「ゆえ?」
首に絡められた腕が少しだけ緊張したのを感じて、朔夜は振り返った。
背後から抱きしめられているせいで思うように曲がらない。それでもぎりぎりまで回し、無理な体勢から少女を見つめた。ゆえがうつむいているせいで表情はよく分からなかった。
「――気の…せいだよ」
「そうかな」
「うん」
少女はそこでようやく微笑んだ。無理やりといった感が強い、悲しげな笑顔だった。現実世界では人の心の動きにめっぽう疎い朔夜だったが、夢の中ではアンテナの感度が違うらしい。わずかな表情の違いも感じ取れた。
「……ゆえ?」
「ん……」
少女は朔夜から体を離した。それでようやく無理な体勢から解放されたので、朔夜はゆえに向き直った。
真珠のような光沢が軌跡を描き、ちらちらとまたたく。
朔夜の首に腕を絡めたまま、ゆえは再びうなだれた。
「……あの人のこと、考えないで」
「あの人? ライザーのこと?」
いぶかしみながら尋ねると、ゆえはおずおずと頷いた。朔夜が嫌がるような話題だと承知しているのだろう。ゆえは視線を合わさなかった。
そういえば前も同じようなことを訊かれた気がする。
そのときは名前を聞いただけでおかしいくらいの苛立ちが襲ってきたものだったが、今は違っていた。多少のむかつきはあるものの、理性が吹き飛ぶほどではない。受け入れつつあるのだと思うと気分が悪くなったが、ゆえの問いには冷静に答えることが出来た。
「考えてない」
「本当?」
まるで浮気したことを詰問される男の気分だ。問答が心を
冷静に冷静にと、朔夜は波立つ感情を抑えるように心の中で唱えた。
そして落ち着いてきた頃合いを見計らって質問に答えた。
「……本当に考えてない」
ゆえはそれを聞いてようやく安心したらしい。唐突に
「おかしな奴」
おかしいかな、と少女は弱々しく微笑んだ。
「本当は……いつもこんなこと、考えてる。……朔夜がわたしのことを忘れてあの人のところに行っちゃうんじゃないかと思うと……不安でたまらない……。――わたしには朔夜しかいないから……」
「ゆえ……」
「ごめん、朔夜がこういうこと云われるの、嫌いだって知ってるのに」
ゆえは無理に笑顔を作るともう一度、ごめんとつぶやいた。その表情を見て、朔夜は少しだけ罪悪感を覚えた。
訊かれただけで感情的になった自分が恥ずかしい。
朔夜はぎこちないながらも精一杯の笑みを浮かべて、行かないからと断言した。それでゆえはようやくほっとしたような顔をして小さく頷いた。
薄青の丸屋根の上を真っ白な光が流れていく。一点の曇りもない白光は、ゆえが身じろぎをするたびにこぼれたその名残だ。針の先よりも小さな光は大気の中をさまよい、力尽きたように消えていく。
青の空間に溶け入る弱々しい光を視界に留めながら、朔夜はその光を放つ少女とずっと話していた。
内容はいつも話していたようなたわいないものばかりで、つまらなくもないし面白くもない。何しろこの世界は一見自由に見えて実はそうではないのだ。やることにも話す内容にも一定の制限がある。
これまで朔夜はそんなことは気にしていなかったのだが、何故かこの日は様々なことが気になった。
何故この世界には人がいないのか。何故中央塔に恐怖を感じるのか。何故この世界の重力は低いのか。そして何故ゆえは、自分は、ここにいるのか。
慣れない思考とゆえの言葉が入り混じり、ごちゃごちゃになった頭の中に赤い筋が入ったのはそのときだった。
―――ファイ
突然頭に響いた文字に朔夜はびくりとして顔をあげた。
真正面にいたゆえの青い目の中に瞠目する己の姿が映る。今も目の端にちろちろと舌を出す赤い筋は蒼褪めたそれを飲み込むかのように次第に色の範囲を広げ、いくらも経たないうちに視界一面を塗りかえた。燃え盛る炎の中に飛び込んだかのような鮮烈な赤。
朔夜はその中に人が立っているのを見つけた。
目を細めて見るとそれは人だった。
長い白の髪をなびかせて、赤い地面の上に立っている。
―――ずっと一緒だよ
その人はふっと顔をあげた。
砂のような粉塵が巻きあがり、辺り一帯を赤く染めあげる。
目を開けるのもままならないその状況の中、女性のようにも男性のようにも見えるその人は、淡く微笑んだ。
砂ぼこりで汚れていたが、とても美しい人だと朔夜は思った。
距離があるはずなのに、目の色や鼻梁のラインといった顔の細かい部分までが手に取るように分かる。ルビーのごとき双眸と、人間味を失わせるまでに整った顔立ち。
その人は千年の奇跡とうたわれた女性と似ていた。
「シャナ・ローラン?」
刹那、石を投じた水面のように映像が乱れる。
そしてそのまま溶けるように消え失せ、それと入れ替わるように見慣れた青の風景が再び姿を現す。
どこまでも続く長大な道路に、天に届かんばかりにそびえるセントラルタワー。霧雨が降る黄昏時のように、青くぼやけた街はアルバムの映像のようにいつまでも変わることはない。
朔夜は時が止まったように静かな街の中で呆然と立ちつくしていた。
何だか戻らなければならないような気がした。先程の映像に本人の姿は映されていなかったが、それがどうしてもシンのもののように思えてならなかった。
他人の夢にどうやって介入したのかは謎だが、何しろ彼は
「行かないで!」
先程、シンのことは考えていないと云ったばかりだったので何となく強気に出るのははばかられた。
が、それでも気になるものは気になる。
朔夜は躊躇いがちに、自分の腕をつかむ少女を見つめた。ゆえは泣きそうに顔をゆがめ、何度も首を振った。
「行かないで…お願いだから……」
「……また、来るから」
その言葉に偽りはなかった。この夢がある限り家族の死が忘れられなかったとしても、ゆえには会いたい。
衰弱死しても不思議ではなかった絶望の淵から引きあげてくれた少女。どんなときも側にいて、心の支えになってくれた。けれどそれはゆえには伝わらなかった。
「行かないでよ!」
耳につく甲高い声。
朔夜は自分と少女との間に壁が形成されるのを感じた。
彼女に出会って四年、一度も感じたことのない感覚。ゆえが一気に「他人」に成り下がるのを感じて、朔夜は絶望的な気分を味わった。
「ウザいし邪魔って云ってたじゃない。目の前から消えて欲しいって! あれは嘘だったの?!」
ヒステリックな声に、いい加減朔夜の我慢も限界に来ていた。
彼女と話す瞬間だけが死の記憶から開放される唯一のときだったのに、こんなふうな感覚になるなら夢も現実も似たようなものだ。そればかりかまだシンと話していた方がましだと思うようになっていた。
少なくとも現実世界にいる、かの少年はヒステリーではない。
朔夜はすがりつくゆえの手を邪険に払い、歩き出した。
「朔夜!!」
今にも泣き出しそうな叫び声が背後から絡みついてくる。
意識せずにはいられぬ自分が嫌だった。朔夜は目をつむってそれを黙殺すると、中央を目指して駆けて行った。
青い街の映像がぐらりと揺らぎ、波線が幾重にも現れる。
それは窓ガラスを伝う雨水のようにも、絶命寸前のモニターのようにも思えた。
dasha、nava、ashtau、sapta、shat、panca、catvari、trini、dve……
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