8
子供部屋は外観ではそれほどとは感じなかったが、かなり汚かった。
自動的に埃を除去してくれるシステムが備わっているとはいえ、ヘルパーマシンが起動していなかったので細かいところまでは行き届かないのだ。
長年に
シンは作業の合間に発見したおもちゃの数々に感心した声をあげている。
掃除は遅々として進まず、午前中では到底終わりそうになかった。そこで昼食を摂ったのちに再開することにしたのだが、そこでさらに作業を遅くさせるような出来事が起こった。
「朔夜」
呼ばれて朔夜は顔をあげた。額には汗がにじみ、腕は疲労の極地となっている。
部屋はいつの間にか暖房とこもった二酸化炭素のために気持ちの悪い暖かさになっていた。
顔をひそめ、換気のために窓を開ける。途端に冷たい風が吹き込んできて、部屋の中の
朔夜は寒暖の溶け合った部屋を見渡し、伸びをした。風とともにぱらぱらと雪片も舞い込んできて、シーツの上に透明な染みをつける。
「これ、何だ?」
シンが持ってきたのは小さなチップだった。朔夜は伸びをしたままの体勢でそれを受け取り、顔を曇らせた。
「どこにあった?」
「望遠鏡の筒の中」
「何であんた、そんなとこ見てんの?」
「掃除しようと思ったんだ」
「そんな細かいところはいい」
朔夜はようやくシンの作業が遅いわけを悟った。筒の中まで見るような神経質具合なら進まなくて当然だ。朔夜は重々しく息をつくとシンの持ってきたチップを指に挟んだ。
「これアルバムだよ。あんたも持ってるだろ?」
記録用チップが何故望遠鏡の筒の中に入っていたのかは分からないが、どうせ望がいたずらか何かで忍ばせたのだろう。あっても見ることなどなかったに違いないが、こうして出てくると感慨もひとしおだ。懐かしそうに目を細める朔夜のかたわらでシンは曖昧な顔をした。
「何だよ」
「いや…別に……」
歯切れ悪く答えるシンを見て、朔夜は彼が懐から取り出した銃を思い出した。
綺麗なフォルムの銀の銃。彼はそれを実の兄から命を狙われているから持っているのだと云った。そんな家庭環境に育った人間がはたしてアルバムに収める記録など撮っている余裕があるだろうか。
多分ないだろう。
シンがアルバムを持っていないということは彼の態度を見れば一目瞭然だ。朔夜はよく考えもせずに放った自分の発言の重さを知って突然
「……悪い」
「あ…っ、いい! いいんだっ、気にするな! うちは少しおかしいんだ。だから……」
顔を背ける朔夜にシンは慌てて否定した。中途で切れた台詞の余韻が心の内にこごった重い塊に影を落とす。
朔夜は胸をぐっとつかみ、しんとなった部屋で所在無げに手を動かした。部屋の中は明るいのにいやに暗く感じる。もっと明かりが欲しいと思いながら目を細め、クリーナーで床を吹いていると突然シンが顔をあげた。
「朔夜」
声が張りつめている。緊張した様子のその声音に朔夜は
何かとんでもないことを云われるのではないかと勝手に推測し、クリーナーをつかむ指にぎゅっと力を込める。床に触れた掌にぬるい空気がじくじくと伝わってきた。
「見ても……いいか?」
窓の外でざわざわと音がする。
朔夜は窓の外のその音を聞いて、心の中もざわつくのを感じた。
「――アルバムを? ……何で?」
「知りたいから」
「え……」
「朔夜のこと、知りたいんだ」
知りたいという言葉を聞いて朔夜はびくんと体を震わせた。
窓から流れ込む細かい塵のような雪片が床に落ちて水滴を作る。床に手を這わせていたために濡れた指を服にこすりつけながら、朔夜は目を伏せた。
「見ても」
「え?」
「見てもいい。あんたが嫌じゃないんなら」
そう云ったのはほとんど流れだった。何となく悪い気がして思わず口をついて出た台詞。云ったあとから後悔の念が襲ってきたが、もう取り返しはつかない。一瞬不安になるほどの沈黙が訪れ、その後想像だにしなかったほどの驚声が返ってきた。
「いいのか!?」
「……いいけど、別に……。そんなに嬉しがることじゃ……」
言下にシンの顔がぱあっと明るくなった。
ここまで素直に喜ばれると、どう反応を返していいかわからなくなる。戸惑いながら返すと、シンは嬉しくてたまらないというふうに笑った。
シンの素直な笑顔を見ていると自分が大層狭量で醜い人間であると思い知らされる。
もちろんシンはそういうつもりがあって笑っているわけではないと思うのだが、家柄も性格も更には勉学にまで完璧なこの少年を前にすると、劣等感だけが浮き彫りになって、大変惨めな気分を味わうのだ。
そういう自分が途方もなく嫌だった。
朔夜は部屋の中央に座していた天体望遠鏡を上げ、チップを携帯端末のリーダに通した。現れたホログラフィースクリーンから自宅の柱を経由し再生すると、途端に部屋全体がミニシアターと化し、二人を巻き込んで映像が展開された。
床暖房の温もりはそのままに、足の下は砂利で形成された川原へと変わっている。
光を反射し、鉄鉱石の様な質感を呈する砂利。リアルさを追求していた時代特有の微妙な酩酊感がやんわりと襲ってきて、朔夜は思わず額に手をかざした。
『
死んだ母の声が川のほとりと化した部屋の中に響きわたる。
『そうそう、いい子ね』
そこでようやく焦点が合ったのか、目の前がクリアになった。
まばゆい斜光が降り注ぐ真夏の川べり。父親とともに水遊びをする自分たちの姿をそこに見て、朔夜は妙な気分になった。
「お前、双子?!」
はしゃぎまわる子供たちの顔が寸分違わず同じであることにシンは驚きの声をあげた。一卵性双生児などさして珍しくもないだろうと思いながら、指をさして説明する。
「そう、こっちが弟の望でその隣がおれ」
「ノゾム? ――ノゾムってどういう字だ?」
「云って分かるの?」
「前にも話したがうちの会社はフラグメント解析装置も作っている。翻訳のためには紀年法が西暦だった時代の主だった言語を習得する必要がある。漢字はそれで習ったんだ」
ああ、それで発音がいいのか。
朔夜は自分の名を呼ぶときのシンの発音を思い出して納得した。
「満月の……望月って分かる? それ」
「望月?――ああ、じゃあやっぱりそういう意味の『朔夜』なんだ」
シンは感心したように声をあげた。朔夜は何のことだか分からず眉根を寄せた。
「やっぱり?」
ひそめたつもりはなかったのに口に出した声は随分と小さかった。部屋の中に響きわたる甲高い笑い声のせいかもしれない。しかしそれでもシンは聞き取れたようでこくりと頷いた。
「初めて会ったとき、おれの名前はバビロニア神話の月の神シンが由来だと思ったって云っただろ? そのあとお前の名前を知って、きっと新月の『朔』から取った名だろうと思った。残念ながらおれの方は違ったが、もし仮にそうだったとしたらすごい偶然だと思わないか? 同部屋の人間が双方とも月の名を持つんだ。偽りの接点であってもお前とはずっと友達になりたいと思っていたから、それがなんとなく嬉しくて……ずっと呼んでいた」
迷惑だったというのは気がつかなかったけれどな、とシンは口の端をあげた。
「あんたってロマンチスト?」
「少しな」
「少しどころじゃなく見えるけど」
「バビロニア神話には云われたくない」
朔夜はバビロニア神話という言葉を聞くたびに叫びだしたいような衝動に駆られた。
「……その話はホント、忘れてほしいんですけど……」
突如として川からしぶきがあがり、甲高い笑い声が聞こえた。
目を向けるとそこにはすでに父親の姿はなく、子供たちだけがいた。
かつてはこの位置に収まっていたはずなのに、朔夜には彼らが笑っている理由が理解出来なかった。
アルバムの中で永久に同じ時を過ごす少年には知り得ない経験をしてしまったからだろうか。会話もほとんど交わさなかったはずの弟と立体映像の中の自分はこの上なく仲が良い兄弟のように戯れていた。
はしゃぎすぎると発作が起きるわよ、とたしなめるような口調で呼びかける母親の声が一際高く貫いた弟の歓声と重なる。
朔夜はそれらの様子を見知らぬ他人の記憶を見るような気持ちで見ていた。
このころにはもう戻れない。仮に戻れたとしても同じ瞬間を味わうことは出来ないのだ。
時の重みとその間に失ったものを思い、朔夜は膝を抱え込んだままうつむいた。
砂利の姿をした床はほんのりと暖かく、それが本物ではないということを主張している。
「朔」
自分の名をつぶやくように口にした朔夜にシンはいぶかしげな視線を送った。
一瞬だけそれに応えるように視線を絡めたのち、アルバムの中の弟を見る。
同じ顔でありながら全てにおいて自分を凌駕していた憎々しい双子の弟。
朔夜はぼんやりとした心持ちの中で言葉を継いだ。
「――前にも云ったけど、望が……弟がおれのことをそう呼んでたんだ。怒鳴ったのは悪いと思ってる。あんたは知らないことだし、おれの問題だから。でも弟を思い出すのが嫌で……歯止めが利かなかった」
朔夜の『思い出すのが嫌で』という部分をシンは兄弟仲が良かったからだと勘違いをしたらしい。決まりが悪いような顔をしてうつむき、小さな声で悪かったな、と告げた。
謝っているのはこちらであるはずなのに、しゅんとするシンがなんだか少しだけ可愛いと思う。
けれど一刹那後にはその感情は脳の奥の方へと押しやられてしまい、あとに残ったのは妙な気恥ずかしさだけだった。
電光を落とした暗い舞台の上では何かを演じる児童たちの姿が映し出されている。初等科の学芸会だろうか。遠目のため、自分なのか弟なのかもわからない。舌足らずな発音で台詞を交わし、定められたルートを通って、舞台袖に戻っていく。
「――でも」
それまでむっつりと黙り込んでいたシンが突然つぶやいた。
はっとして隣を見ると、暗がりの中にっこりと笑うシンの姿があった。
「でもいつかは呼んでもいいだろ」
いきなりしょげ返ったり、復活したりと随分忙しい。
「変なところにこだわるね、あんたも」
「またあんたって云ってる。いつになったら名前で呼んでくれるんだよ」
「気が向いたら」
「いつだよ、それ」
わからない、というように肩をすくめるとシンに軽く睨まれた。
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