第5話「ぶつけろ熱意、無限の可能性」(後編)


 冬期キャンプが始まる1月30日のことだった。大志はキャンプ地へ向かうため、空港で飛行機を待っている時だった。

「岡崎さん」

 球団職員が大志を呼んだ。

「岡崎さん。阪神にトレードが決まりました」

「えっ?」

 大志は職員が何を言っているのか理解できなかった。

「説明は球団事務所でしますので、すぐに来てください」

 大志は職員にうながされるままにタクシーに乗って、事務所に向かった。気持ちが全く落ち着かなかった。

(トレードで阪神? それはもしかして山下投手と俺がトレードされるということか?)

 

—球団事務所—


「……大志くんわかってくれるかい?」

球団社長の言葉が理解できなかった。彼は山下と大志をトレードする旨を説明するが、大志は茫然としていた。


(せっかく巨人で一生懸命働いてきたのに、このチームで骨を埋める覚悟で野球をしていたのに、今年こそ結果は良くなかったが、それまでは結果を出してきたのに、……なぜ?)


「どうして僕なんですか?」

「君は阪神との相性がいい。対阪神打率でいえば4割を越えている。だから阪神は欲しがったのだよ」

 大志はトレードに頷くしかなかった。彼には家族がいて、野球で養っていくしかないからだ。戦力外通告を受けるよりはましだと思うしかない。野球を辞めろとは言われていないからだ。

 ただ、大志は気持ちの整理が全くついていなかった。

 書類上の手続きを終え、事務所を出ると、阪神の球団職員が待っていた。彼は大志を阪神のキャンプ地へと案内した。

 大志は移動の新幹線の中でぼんやりと窓の外を眺めていた。

 彼の中で巨人に捨てられたという感覚がどうしても捨てきれなかった。


—自宅—


「阪神にトレードになったよ」

 大志は妻に告げた。彼女はホッとした様子だった。大志から話があると呼ばれて、彼女は大志がクビになったのかと思っていたからだ。

「ということは大阪にいくの?」

「兵庫だよ」

「でも、どうして阪神に?」

「山下と俺がトレードになったんだ」

 大志がそういうと妻は言葉を失う。巨人は夫よりも高卒の新人を選んだのだ。妻は残酷な競争社会を肌で感じ、悪寒が背中にはしる。

「今までチームの為に頑張ってきたのに、このざまだよ」

 大志は部屋に戻っていった。

 妻はリビングに戻りともこを抱き上げる。

「どうしたの?」

 ともこは訊ねる。

「お父さんね。別のチームに行くことになったんだ」

「お父さんは巨人の人じゃなくなったってこと?」

「そう。阪神の人になっちゃうんだ」

「お父さんは巨人に捨てられたの?」

 ともこがそういうと妻は言葉を詰まらせる。

「違うの。違うけど……」

「お父さんは巨人の方がいいよ。一生懸命バット振ってたもん」

「そうね」

「巨人の服の方がいいよ。オレンジ色がかっこいいもん」

「そうね」

 妻は胸につっかかる言葉をうまく口に出せなかった。


 大志と山下の衝撃的なトレードは世間を賑わせた。自宅には新聞記者までくるようになり、妻とともこは怯えていた。大志が追い払っても、しつこく取材にくる記者がいた。

 トレードされただけなのに、どうして世間から追い回されなくてはいけないのだろうと大志はやりばのない怒りを抱えた。自分だけならまだしも妻子まで追い回すのだから。

 マスコミは大志のことを悲劇のヒーローとして取り上げた。テレビが恣意的に大志の印象を操作していた。大志は自分の望まない形で取り上げられることに違和感を感じないわけがない。


 ペナントが始まっても、トレード事件を大きくひきずった大志は精彩を欠き、次第に打てなくなっていった。阪神は始めこそ大志をスタメンで使っていたが、徐々に出場機会が減っていった。大志はストレスから逃れるために酒を飲むようになった。そのせいで二日酔いになり、まともに練習出来ず、そのことから逃れるようにまた酒を飲むという悪循環を繰り返していた。


 大志の最後のスタメン出場は巨人戦だった。相手先発は大志のトレード相手の山下で、大志にとって負けられない試合だった。


—阪神甲子園球場—


 試合前、偶然にも山下投手と大志はすれ違いそうになった。大志は山下をチラリと見やった。山下は疲れ切った表情をしていた。高卒一年目とは思えない顔つきをしていることに大志は驚く。彼もまた、マスコミに追い回され、ファンのヤジにストレスを感じていた。山下は大志を見つけると、こわばった表情で大志を呼び止めようとした。

「岡崎さん」

 大志は手をあげて、山下を制した。

 今じゃない。と合図を送った。

(今、声をかけられると、気持ちが乱されてしまう)


 大志は3番レフトで出場した。阪神は一回の表に1失点した。裏の攻撃になり、大志はベンチから山下の投球を見る。プロ1年目の割には変化球を上手く使って1番と2番を打ち取っていた。

—3番、レフト、山下、背番号13—

 大志は右打席に入った。どうしてか、緊張した。これほど緊張したのはプロ初打席以来だ。

 普段より長めに間をとって、バッターボックスをならし、軸足の穴を掘って、構えると、山下が投球モーションに入った。

 山下投手の1球目、高めのストレート。ボール。

 大志はボールの速さに驚く。傍目から見るとそこまで速くないのに、手元でかなり伸びてくる。バックスクリーンを見ると145キロと表示されているが、体感はそれ以上だ。

 山下投手の2球目、低めのストレート。ストライク。

 どうやら山下は真っ向勝負を挑んできているいるらしい。

(男と男の勝負だ。お互いに野球人生がかかっている。負けられない)

 大志はバッターボックスから足を外し、大きく息を吐いた。そして山下を見る。

 山下は帽子を深く被り、表情は見えない。

 山下も負けられなかった。相手は自分のトレードの相手なのだ。彼に打たれてしまっては、彼に申し訳ない。

 山下は手元のボールを見つめた。

 まさか、巨人に行きたいという自分のエゴが、他人の野球人生を変えてしまうとは思いもよらなかった。阪神の球団職員から説明を受けた記憶が蘇る。

「山下くんは巨人にトレードで行けるように上に計らっておくよ」

 その話を聞いた山下は安堵と同時に、トレードという単語に引っかかる。

「トレードですか? 金銭トレードですよね?」

「うん、それで話は通すつもりだよ」

「選手のトレードは辞めてください。僕は他の人に迷惑をかけたくないです」

 山下は念を押して球団職員にそう言ったはずだった。なのに、目の前のバッターボックスには阪神のユニフォームを着た岡崎大志が立っている。

 山下は何が起こったのかわからなかった。メディアは自分の悪口を言われて、世間から非難を浴び、チームメイトからは冷たくされている。巨人に行くということはこういうことなのか? 野球をするということはこういうことなのか? 山下は何度も自分に問う。そして答えはいつも同じ。間違っている。

 山下はキャッチャーのカットボールのサインに首を振る。

 この勝負はストレート一本じゃないとだめだ。

 山下は振りかぶって3球目を投じた。アウトコースに外れてボール。

 山下は力んでしまってコントロールが効かなくなっていた。その事に自分で気づいていない。

 4球目、インコースのストレートをファールにされる。

 これでカウントは2ボール2ストライク。

 山下は自分の気持ちを整理するために空を見上げる。焦りをどうにかしようと押さえつけるが、逆に押さえつけようとする思考が焦りを加速させている。

 山下は振りかぶって5球目を投じようとする。指先にわずかな違和感があった。リリースポイントがおかしい。そう感じたが、投球動作を止める事ができず、放たれたボールは大志のエルボーガードに直撃した。

 球場は騒然となる。


 ゲームスコアを振り返ると、山下の大乱調で6失点。巨人は負けた。大志は2打席目に山下から替わった敗戦処理のピッチャーからホームランを打った。それ以外の打席は死球と三振だけだ。

 試合後、大志は笑ってしまった。笑いが止まらなかった。大志の中で諦めが生まれたからだ。このまま野球を続けても成績を残せない。これから練習をして伸びるとは思えなかったのだ。山下の投げるストレートに目が追いついていなかったのだから。

 あの試合以降、大志がスタメンとして試合に出ることはなかった。彼は代打で使われるようになり、一部ファンからは代打の神様だとか、必殺仕事人だとか呼ばれるようになった。しかし、その代打でも成績が思うように残せなくなり、2年後に戦力外通告を受けた。


「お父さんは阪神に捨てられたの?」

「捨てられたわけじゃないよ」

 大志は小学1年生になったともこの頭を撫でた。

「むしろ2年も野球を続けさせてくれた阪神タイガースに感謝しているんだ」


 それから7年後、大志は病に倒れた。大志が息を吹き返すことはなかった。

 ともこが14歳の時だった。葬式に山下が来たことを覚えている。彼は涙を流していた。

「あの試合の後、岡崎さんは僕のことを笑ってゆるしてくれたんだ」


 ともこはその日まで続けていたソフトボールを辞めて、野球をすると決心し、硬式野球のクラブチームを探した。父の後ろ姿を追うためだ。

 しかし、ともこは女だからという理由で全てのチームから断られた。

 ともこは悔しかった。女だから自分の野球を見てもらう機会すら与えられなかったのだ。

 ともこは塞ぎ込んでしまい、2日ほど部屋に籠もって父のバッドを眺めていた。バッドを手にとって軽くふった。彼女の中で、幼い日の記憶が蘇った。

『ホームランはこうやって打つんだ』

 父の言葉がリフレインする。


 ともこは1人で野球をやる決心をした。お父さんを忘れない為に。

 お父さんはプロの世界では、ずば抜けてすごい選手ではなかった。だけど、誰よりも綺麗なホームランを打っていた。

 だから、彼女もホームランを打とうと決めた。

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