第3話「赤い心見せ、広島を燃やせ…」

―大阪駅近くの公園―


 老人はそわそわしながらベンチに座っていた。

(さて、噂のともこ13は本当に来てくれるのだろうか。依頼した仕事は確実にこなすと聞いているが)

「話を聞かせて」

 老人の背後に女子高生が突然現れた。

「君がともこ13? まさか、女子高生なのか?」

 老人は彼女の年の若さに驚いた。

「吉岡隆でしょ? 元陸軍省の軍人でアメリカのスパイがわざわざ広島から何の用?」

 老人は自分の経歴を知られていることに目を見開いた。

「どこでその話を?」

「そんなことはどうでもいい。それより依頼、話してくれなきゃ帰っちゃうよ?」

「待ってくれ」

 老人はそう言って一息おき、あらためて彼女を見た。彼女のたたずまいはまるで彼のことを救う女神のように思えた。

「……一週間後に原爆ドームの保全工事が行われるんだ。実は原爆ドームの建物の壁の中にGHQの機密文書が建物の壁の中に隠されている。それを保全工事に乗じて盗み出そうとする輩がいるんだ」

「その文書の内容はGHQ職員が行った政治犯の取り調べの調書でしょ」

 ともこの冷徹な瞳が老人の射抜いた。

「なんでも知ってるんだな……そう、その当時はGHQがどんな悪質な取り調べや拷問をしていたんだ。日本は戦争に負けてしまったからね。取り調べを受けた大抵の人間はあまりの過酷さに死んでしまった」

「でも、記録はどうしてか残してしまった」

「ああ、おそらくアメリカ側が後で使うつもりだったんだろう。それは、第一回の保全工事の際に隠されたはずだった。でも、隠された悪事がいまになって暴こうとしている奴がいる。それを阻止してもらいたい。どうしてもその記録は闇のままにしておいてもらわないと困るんだ。私は日本を裏切った人間だ。毒をくらわば皿まで食べてしまわないと…」

 そう言って老人は遠くの空を見上げた。

 その空は戦時中も戦後の今も何ら変わりない。

「あんたの話はどうでもいい。金額は高くつくけど?」

「私ももう長くない。この身に保険をかけている。それが遅くとも3日後には君の口座に振り込まれるだろう。それともう一つ。これを」

 老人は鞄から古びた野球ボールを取り出し、彼女に渡した。

「これを私の孫に届けてほしい。私の思い出だ」

 彼女はボールを受け取り慎重に観察した。

「……じゃあ、仕事は入金を確認次第とりかかるから」

 そう言って彼女は立ち去った。

「ちょっと待ってくれ」

 老人はどうしたわけか彼女を引き留めた。

「今年のペナントはどこが優勝すると思う?」

 彼女は振り向かずにこう答えた。

「……阪神タイガース。あんたの地元の広島カープに負けるはずがない」

 そう言い残し立ち去った。

(……しかし、あれだけの情報をもっているなんて、一体何者なんだ?)

 老人は謎を抱えたまま、大阪駅へと向かった。


―広島市内のとある建設事務所―


「おお、隆さんのところの息子さんか」

「はい。吉岡秀太です。今日からお世話になります」と秀太は丁寧に頭を下げた。

「おじいさん。最近亡くなられたんだってね。仕事で葬儀に行けなくて申し訳なかったよ」

 30代の男はばつが悪そうに言った。

「いえ、とんでもないです」

「そういえば、野球はもういいの? 大学の推薦を狙える腕はあったでしょ? 君ならうまくいけばプロ野球も夢じゃないって噂になっていたよ」

「ええ。でも、もういいんです」と言って秀太は左腕を無意識に隠した。

「そうか。親方、新人ですよ。吉岡さんのところの息子さん」

 そういって男は奥の部屋にいる親方を呼び出した。

 親方は奥から顔だけ覗かせた。綺麗な白髪頭の彼は秋元浩二という名で、秀太の祖父、吉岡隆と戦時中同じ職場にいた。彼もまたGHQの調書の存在を知っていた。彼は終戦後、陸軍を辞めてから広島で小さな建設会社を立ち上げ現在に至る。

 浩二は秀太をジロジロと眺めた。好青年そうな顔立ちをしているところが隆そっくりだと思った。

『孫のことをどうか頼む』と以前に隆から頼まれた事が脳裏によぎる。

「おう。がんばれよ」と言って浩二は顔を引っ込めた。

「さっそくだが、明後日には原爆ドームの保全工事が……」

 男は秀太に仕事の話を切り出した。

 浩二は部屋に戻り、事務机の前に向かった。

(……原爆ドームか。その保全工事が最初で最後のチャンスになるだろう)

 彼は机の引き出しから金槌とコンクリートを掘るための鑿をとりだした。


―原爆ドーム―


 夜8時、足場が組まれ、防音用の布で覆われた原爆ドームは月明かりを受けて神秘的な雰囲気を纏っていて、まるで遮られたカーテンの向こうに裸体を隠す美女のようだ。

 浩二は組まれた足場の一番高いところにいた。防音用の布の隙間からは広島市民球場の跡地が窺える。

 彼は跡地をみて戦後を思い出していた。

「いつかカープで4番を打つんじゃ。原爆ドームまでかっとばしちゃる」

 軍服を着た隆はバットを振り回していた。

「ばかいえ、原爆ドームは三塁側じゃ、ファールになる」

 浩二はアメリカ兵からもらった当時のMLBの公式ボールを隆に向かって投げると、隆は見事にバットをボールに当てた。

 そんなことを言い合ったかつての仲間はつい先日死んでしまった。しかし、彼と共に歴史を闇に葬るわけにはいかない。

 結局、俺は日本人だった。隆と一緒に目先の欲にくらみ祖国を裏切って生き延びたが、隆のように悪役のまま死ぬほどの覚悟はできなかった。

 これを公表して国民に裁いてもらい俺は地獄へ落ちる。

 彼は鑿と金槌を手に取った。

 浩二の目の前の壁は他の部分とは違い、コンクリートが不自然に新しく塗り固められている。

 彼がその部分を砕き、調書を今から掘り起こそうとした瞬間だった。

 一瞬、木製バットがボールを打つ快音が市民球場から聴こえてきた。

 なんだ? 手を止めた親方の手に、防音用の布の隙間をすり抜けてきた野球のボールが勢いよく当たった。

「うぅぅ」

 浩二の年老いた手は脆く、ボールの衝撃は手の一部を粉砕骨折させて、鑿と金槌を足場に落としてしまった。

 もう鑿を持つことはできない。

(まさか……隆が打ったのか?)

 跡地の方を見ると、人影は無かった。

「親方? どうしたんですか?」

 秀太は親方のうめき声を聴き、親方のいる足場の下へと駆け寄ると、近くに古びたボールが落ちていることに気づき、拾い上げた。

「どうしてこれが…」

 その古びたボールを彼は知っている。

 祖父がアメリカ軍人からもらったMLBのボールだ。

 どうしてこんなところに落ちているんだ? 秀太はそのボールを見て祖父とキャッチボールをしたことを思い出した。

 ……そういえば、じいちゃんがいつも言ってたっけ。

―今、カープは弱いチームだが、強い信念と心があるから、将来必ず優勝するチームになる。秀太も挫けそうになったら、カープを見なさい。弱いチームだが誰も諦めていない。おまえも諦めのわるい男になりなさい―

 秀太はプロ野球選手を目指していたが、今は左腕の怪我で諦めている。

 良くみてみると、ボールに何か書いてあった。

―怪我が治れば、また野球を始めなさい―

 それは祖父の文字だった。


―広島市民球場跡地―


 タクシードライバーは一息つくため、タクシーを降りてタバコに火をつけ、煙を吐いた。

 工事をするために姿を変えた原爆ドームを眺めながら、大きなあくびをした。

「広島駅まで」

 ドライバーは突然の声に驚いた。

 振り返ると2人の女子高生が居た。

 何故か片方は阪神タイガースのユニフォームを制服の上から羽織っている。

(今日、阪神戦なんかあったっけ? しかも、こんな時間に市民球場の跡地から乗ってくるなんて。バットケースなんか担いでるし、……変な客だ)

 そう思いつつ、彼は運転席に戻り、彼女らを乗せた。

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