オリュンピア:超えた者対超えられなかった者
フェンリスの変化に、リオネルは驚くより先に嫌な予感が駆け巡るのを感じた。これは、あの時と同じ、自分が、格上を相手にする時と同種のもの。
フェンリスが動き出す。赤い、紅い、純血の疾走。
眼に映ったのは――残像のみ。
「ふざけるな!」
自分の方が強かった。
「ふざ……んだ、これ!?」
反応が追い付かない。先ほどまで僅差で勝っていた全てが引っ繰り返る。
「俺は、強い!」
充血した眼は、闇夜に浮かぶ獣が瞳。まるで魔獣の如き赤き眼に、リオネルは自分の知らない強さを感じた。あの男とも違う、知恵でも、経験でも、積み重ねでもない何か。それを背負っているから強い。
あの重さに比べれば、己の何と軽いことか。
「俺の方が強いんだ!」
もはや虚勢にもならない。この差は――なんだ。
全てが覆る。己が何処に立っているのか、分からなくなる。
「俺はもうあそこには堕ちないッ! テメエが、超えたんなら俺様に超えられねえわけがねえ! 超えろ、超えろ、超えろ超えろ超えろ超えろ超えろォォォオオ!」
だが、限界は依然として目の前に横たわり、フェンリスのいる場所まで到達するのを阻んでいる。超え方が分からない。
背中は見えているのに、手の、伸ばし方が分からない。
「一人じゃ辿り着けねえ場所も、ある」
凶暴な連撃。速く、重く、強過ぎる。
「悪いな、お前は強い。認める。俺より天才だ。でも――」
リオネルは目の前が真っ白になった。超反応が、オーバーヒートしてしまったのだ。もう、追いつけない。
焼け付いたそれは、もはや何物にも反応することなく――
「俺とお前じゃ、立っているステージが違う」
決着の刃が、喉元に添えられるのをただ、漫然と眺めていた。
時間にして十秒にも満たないわずかな間に起きた逆転劇。主審であるエアハルトが勝敗を告げた瞬間、会場は爆発的な歓声に包まれた。勝者を称える声、最強を賛美する声、地上最強の生物の息子ではなく、フェンリス・ガンク・ストライダーとして、誰もが彼を理解した。彼は、彼こそが最強なのだと。
「俺の勝ちだッ!」
観客ではなく、守るべき者たちへ、共に歩む者たちへ向けたガッツポーズ。ヴァルホールが吠える。王妃が、スコールが、ハティが、部下たちが、あらん限りの声で叫んだ。地上最強の男、ヴォルフだけは、小さく、誰にも見えないところで拳を握るだけに留めていたが。
その背中の遠さに、リオネルは、膝を屈するしかなかった。
反論の余地もなく、自らは負けたのだ。
「ハッ、所詮、番犬止まりか、俺は」
夢を見ていた。何かに成れるのではないかと。でも、結局は届かない。子供の頃と同じ、こうして、膝を屈して眺めるだけ。白亜の塔、トゥラーンを、羨まし気に、恨めし気に、眺めていたあの頃と何も変わりはしない。
また、手からこぼれた。二度目、今度こそ、全てを失うのだろう。
「…………」
一瞬、あの男と目が合った。健闘を称える目。本当に、リオネルにとっては一から十まで憎らしい男である。あれも狼の子も、選ばれし者の血筋で、自分は野良猫。血統書どころか親の顔も分からない。そんな自分が手を伸ばすのは、やはりおこがましいことであったのだろう。
リオネルは、乾いた笑みを浮かべながら、そう思うしかなかった。
○
勝者であるフェンリスは声援に応えながら舞台を去る。緊張感のある表情に、周囲は次の戦闘へ意識が行っていると勘違いしてくれているが――
(全身が、いてェ。クソ、やばいのは、わかり切っていたが、これほどかよ)
声援に笑顔で返す余裕がないだけであった。不自然にならない程度に抑えているが、少しでも気を抜けば叫び出しそうになる。痛みが全身を駆け巡り、可動部は明らかに常態とは程遠い熱を帯びている。
あれ以上長引けば、おそらく『明日』はなかった。
「フェンリス、無事か!」
人目のつかぬ場所で、ようやく気を許せる相手に出会った。スコールとハティ、二人とも信頼できる男であり、片方は腹違いの兄、弱音を吐いたところで彼らは腹にしまっておいてくれるだろう。だから――
「余裕だっての。ちと手こずっちまったけど、ま、勝てばよかろうってもんよ」
「身体は、無事なのか?」
「見ての通りピンピンだって。少し疲れたから、帰って飯食って寝るわ」
「主審に提言してきましょう。一日休めた彼と休みなしのフェンリス、公正を期すためにせめて一日、出来れば二日三日間隔を空けたい、と」
ハティの提案を、
「ふざけろハティ。俺に恥かかせんな。いいか、俺も踏み込んだからわかる。あの野郎も同じ領域に入れるんだ。実際、クニツナってのとやった時、一瞬踏み込んだだろ? あんだけコントロールできるってことは、かなり使い込んでいる。くそ親父と違って元が貧弱に出来ている分、消耗は俺の比じゃねえ。始まる前から満身創痍の貧体野郎に、休ませてくださいなんて言えるかよ!」
フェンリスは一蹴する。踏み込んだがゆえに見えた景色。先んじられていた事実、そして、追いついたことで生まれた敬意。少なくとも、彼の覚悟も準備も、己の想像をはるかに超えたモノであった。リオネルとの一戦が無ければ、スコールとの一戦が無ければ、自分はきっと彼に負けていただろう。
それだけのリスクと力を彼もまた背負っている。
「俺に任せとけ。明日は勝つ。それで良いだろ」
「……任せたぞ、フェンリス」
ハティの肩を押さえ、スコールは笑みを浮かべてその強がりを受け取った。
「……勝ったら何かくれよ」
「風俗でも行くか?」
「要らねえよ。そんなんより俺、彼女が欲しい」
「……俺も欲しいんだが」
「私も欲しいです」
「……ひでーな俺たち」
笑いながらフェンリスは休む場所を求めて立ち去って行く。二人とも弁えているのか、その背を追うことはしない。自分たちがいては、休むことすら出来ないのだろう。この強がりは成長であり、少しだけ自分たちの手を離れた証左であり、ほんの少しだけ寂しい気持ちもあった。
それをはるかに上回るほど、成長を喜ぶ想いもあったが。
○
敗者であるリオネルは一歩、一歩、踏みしめるたびに足場が崩れ落ちていく感覚に陥っていた。負けて、失って、初めて理解した。自分は、今の立ち位置を気に入っていたのだ。喰うに困らぬ番犬でありながら、王宮に出入りし様々なことを半強制的に叩き込まれる。ふてぶてしく、時には嫌そうな顔をしていたが、学ぶこと自体は楽しかった。
強くなっていく実感は、何物にも代えがたい快感であった。
特別扱いは心地よかった。あの白亜の塔、憧れであったトゥラーンに出入りしても文句を言われず、当たり前と成りつつあった日々。
それらは、強かったから、才能を見込まれたからこそ、手に入った特権であり、負けて、価値を喪失すれば、無くなるモノ。
所詮は野良猫、自由に地べたを這いまわるのがお似合いであったのだろう。
元に戻るだけ。それに、番犬の仕事は失わずに済むかもしれない。またあの見世物小屋の王に戻るくらいなら、あの女の番犬の方がマシ。何も持たないどん底ではない。しかし、本当に其処まで甘いだろうか。大元であるあの男は、価値を喪失した己を手元に置いておくほど甘くはない。
やはり、失うのか、考えが堂々巡りする中で――
「あら、随分縮こまっていますわね。普段はやたら尊大ですのに」
「……テメエか、俺を嗤いに来たのか」
現れたのは自分と同じ男に飼われる道を選んだ女。飼われる中で、自らの立場を不変のものとしつつある。彼女は多くを繋げるコネクター。
自分とは違い、替えの利かない人材に成長した。
「当たり前でしょう。わたくしは、嗤いますわよ。貴方が踏み躙ってきた全ての代わりに、己が強さを誇示し、無意味に振り撒いていた貴方を、わたくしは許さない。ずっと、そう言ってきたでしょうに。お忘れですの?」
「ハハ、言ってくれるなクソアマ。俺は今、機嫌がわりい。そこを退かねえと、何するかわからねえぞ」
「無様」
リオネルはシャルロットの襟を掴んで壁に叩きつけた。
「お前に、俺の何がわかる!? 貴族に生まれて、何不自由なく暮らしてきたお前に、野良に生まれた俺の人生がわかるかッ!?」
「わかりませんわね。それほどに苦労してきたことと同じ道に、多くを叩き込んできた貴方が、今更同情を求めていますの? それこそお笑い種でしょうに」
「殺してやる」
「どうぞご自由に。畜生道がお好きなら、お戻りなさいな」
リオネルの眼には、様々な欲望が渦巻いていた。純粋な殺意、歪んだ欲望、諦めていた愛情、それゆえに、やはり歪んだ愛憎、あらゆるものが渦巻き、揺れる。
それでも――最後の一線で、彼女の眼が、引き戻す。
「くだらねえ。テメエを殺しても、一銅貨の得にもなりゃしねえ」
リオネルは、手を離した。そうすると思っていたかのように襟を正ししゃんと立つ彼女を見て、リオネルは哂う。結局、本物の貴族には勝てない。
「あら、わたくしの死体であれやこれやするのかと思っていましたわ」
「するかボケ! テメエは俺を何だと思ってんだ」
「畜生」
「あけすけだなクソアマ」
「わたくし、貴方様には気を遣わないことにしていますの、おっほっほ」
「いつか殺す」
そのいつかは来ない。自分は、彼女の近くに立つ権利すら失ったのだから。
「……おバカさんに忠告しておきますわ」
「まだ言い足りねえのかよ」
すれ違いざま、シャルロットは苦笑しながらちらりと振り向き、
「ノブレス・オブリージュ。自覚なさい、その重さ。もうとっくに、貴方は逃げられない。特別扱いのツケを払う時が来ましたの」
「何言ってんだ?」
「良いから進みなさいな。わたくしは、忘れないであげますわ。貴方の罪を。これから、どんなことがあろうと、どれだけ変わろうとも。これは、優しさですわよ。大嫌いな貴方に向ける、わたくし唯一の」
シャルロットの言葉を、リオネルが理解するのはそう遠くない未来。今はまだ、自覚無き故に理解出来ぬこと。彼女の言葉を理解した時、彼は改めて知るのだ。己の犯した多くの罪、その重さと、自分が背負うモノの重さを。
それこそが、『本物』の責務なのだから。
○
リオネルが会場の出口を潜ると、そこには唖然とするような光景があった。
ガリアスの精鋭、百将がずらりと居並び、その横に若き俊英たちも立つ。
市民は何が起きるのかと遠巻きに人だかりを作る中、その中心には王の頭脳であるリディアーヌ、王の左右であるロラン、リュテス、ボルトース、そして引退したエウリュディケに代わりその座につくアルセーヌ、そして、王の剣であるランスロが立っていた。
「やあリオネル、待っていたよ」
「…………」
この大仰な仕掛けは何事であるのか。公開処刑でも始まりそうな雰囲気に、リオネルは改めて敗戦の重さを知る。これだけの人間が雁首揃えてお疲れ様などありえない。いったい何が起きるのか、弾劾されるであろうリオネルにすら理解不能。
此処より始まるは何事か。外縁で眺めるは各国の重鎮たち。そこには彼と覇を競ったライバルたちもいる。覇を競うはずだった好敵手も、満身創痍であるが負かした男も、遠巻きに眺めていた。
何かが起こる。この光景には、何もせずともそれを示す圧力があった。
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