オリュンピア:甦る風

 人が空を舞うことはない。世界には重さがあって、その地に立つ者は全て世界に縛り付けられているから。でも、あの人は違った。

 あの風は――自由だ。

『私のせいで、あの子には姓もあげられない』

『気にしても仕方がない。蓄えはあるんだ。生きるのに不足はない。なら、充分だろう?』

『でも――』

 ルールに縛られていた。

『最近身体が重い』

『年だな。俺たちも良い歳になったってわけだ』

『ん、でもぴちぴち』

『ぴちぴち!』

『ミラに変な言葉を覚えさせるな。……おい、口から、血が――』

 病に縛られ。

『助けてくれ! 頼む、金ならあるんだ!』

『わけのわからん人種の、奇病をうちに持ち込まないでくれ! 迷惑だ!』

 八方塞がり。

 でも――

『何してる!? お前、身体が』

『この子に、私に世界を見せてあげたいから。生きている内に』

『……諦めるな。必ず医者を、探して見せる!』

『どちらにしろ、私たちは長く生きない。あの人たちも病で死んだけど、きっとそれは天寿。私も同じ。だから、せめて――』

 その人がひとたび駆け出せば――

『ママ! けしきがびゅんびゅんとんでく!』

『ママは、風の子なの』

『ミラも?』

『そう。私の大事な宝物』

 何よりも自由な世界が待っている。

『ママ、だいじょうぶ?』

『お医者さんに診てもらったから大丈夫。その子は?』

『アルフレッドです。この子の、ともだちになりました!』

『……アル、そう、いいお名前ね。ミラと仲良くしてあげて。ミラ、貴女は友達を大事にしなさい。貴女は強い子だから、私とあの人の子だから、きっと大丈夫。私たちは駄目だったけど、貴女は、諦めないで。ママが、そばにいるから。ミラのことは、ママとパパが守ってあげるから、貴女は、大事な人を、守ってあげなさい』

『ママ?』

『約束、ね』

 誰よりも自由な人だった。

『すまないカイル、ファヴェーラ、俺は無力だ』

『ありがとう、ございました。ウィリアム、さん』

『ッ!? すまない!』

 誰よりも強い人だった。パパと知らない白い人は震えているのに、ママは最後まで笑っていた。気丈に、美しく、鮮烈に。

 閃光のように短く。一陣の風のように通り過ぎて行った。


(……何、思い出してんだろ、私)

 それは、無意識の事であった。

 唖然とするゼナ。審判二人も、呆然とその光景を眺めている。目の肥えた観客たちも目を丸くする奇妙な状況。当の本人だけは、何も考えていなかった。

(あー、くそ! ママとの約束絡みかぁ。その後、色々、あったから記憶から飛んでた。完全に。まあ抱き着かれたぐらいじゃ墜ちないよね。私、其処まで軽い女じゃないし)

 そう考えながらも、あのぬくもりばかりが頭に過るのは、まあそういうことなのだが、本人はちっぽけなプライドのため、思い出した言い訳を盾に否定する。

(ってか、私、何してんだろ?)

 ミラの思考が飛んでいたのは、ほんの少し、致命であったとどめの一撃がその身に到達せんとした瞬間から、五秒も経っていない。

「な、なんだありゃあ!?」

 ようやく観客の理解が追い付き、驚きの叫びを聞いて初めて、ミラは自分が置かれている状況を理解した。そして――

(ハァァァアア!?)

 自分が一番驚いた。

 彼女は今、ゼナの打ち込んだ槍の上に立っていた。ゼナの剛力もあるだろうが、それでも重さを感じさせない立ち姿。

 まるで、彼女は羽根のようにそこに在った。

(ちょ、ハァ? いや、馬鹿じゃないの? 落ちるじゃん? 普通立てないし、あの突き見てさ、あ、槍の上立と、なんて思わないでしょ普通!)

 思考とは裏腹に、安定を欠く気配すらない。崩れるとしたら、それはゼナが正気を取り戻し、動き出した後であろう。そしてそれには、ほんの瞬きする時間すら要らない。彼女は、カンペアドールを背負う者。

 全ての方向性は勝利に向かっている。

 だから、ミラの思考が整う前に、動き出してしまった。相手の体勢を崩し、この戦いを終わらせるという至極真っ当な、やって当然の行動。誰もがやる。むしろ、そこで冷静に動けたのが彼女の強さであり、そしてだからこそ――

「ちょっと、まっ、まだ全然まとまってな、い」

「これで、終わり!」

 その一押しが――彼女の『覚醒』を促してしまった。

 ゼナの追撃。槍を引き、乗ってる相手を崩し、そこを突く。シンプルかつ最善の攻撃であった。奇策で一命をとりとめたミラを奈落につき落とすはずの一撃。先ほどまでの彼女なら、それで終わっていただろう。だが――

「え?」

 引いて、体勢を崩して、其処までは良かった。誰もがそれで終わりだと思っていた。当の本人すら(あ、負けた)と内心思ったほどである。

 見事な崩されっぷり。しかし、引いて、一撃が到達する頃には、本人も含め全ての者が想定を、確信を外していた。

 おそらく、本人すら気づかぬほど微小に、崩された瞬間、軽く跳ねていたのだろう。わずかに目算のずれた突きは、それでも相手を捉えて仕留めるはずであった。柔軟に、人間が宙で身体をコントロールできるなど、その仕手は、ゼナは思っていなかったから。否、知らなかったのだ。

 ミラは、今度は槍の上でくるりと回った。槍を、そらすように。

「あー、ごめん。蹴るね」

 槍の上でくるりと回って、その勢いすら利用して空中で回転しながら蹴る。巨体のゼナの頭を上から下へ蹴り下ろすという珍事。蹴られた本人は目を白黒させている。蹴った本人は、呆けながらも、ようやく、『理解』が追い付いてくる。

 ミラは、重力を感じさせない動きで着地した。もし、あの追撃が無ければ、白昼夢で終わっていたかもしれない感覚。

 覚醒した、もう一つの血。

「……偶然!」

「あー、ごめん。たぶんさ――」

 ゼナの猛攻を、人間離れした動きでかわすミラ。ゼナの顔色が変わる。ミラの中で、予感が確信に変わっていった。風が、耳の奥に吹き荒ぶ。あの人の背中が見える。あの人の肩から見た世界が、見える。思い出したのだ。

 自らが風の子だということを。

「まぐれじゃない、よっと」

 思い出してしまった。血が、すうっと風に変わる。

 その動きは柔軟。掴み難く、捉え難きモノ。その速さは疾風の如し。ゼロからマックスへ、人外の加速を見せる。その動きは、重力と言う楔から解放されたように見える動きは、ローレンシアで、おそらく彼女だけが見える景色を産む。

 厳しい隙の無い突きの連打を、ひょいひょいとかわして容易く懐へ、そのまま股抜きし、ゼナの感覚が背後に集まった瞬間、すり抜けるように跳躍。振り向きざまの一撃が周回遅れになるほどの差で、ミラはゼナの頭を支点に、美しい弧を描く。

 ゼナの攻撃が背後に到達した頃には、ミラは彼女の正面だった場所に降り立つ。その手前でおまけとばかりにゼナの後頭部を蹴っ飛ばしての着地であった。必然、今の彼女にとって正面に倒れ込むゼナ。

「…………」

 人は、あまりにも凄まじいモノを見ると、声を失ってしまうのだ。

 フェンリスが、リオネルが、スコールが、歴戦の勇士たちでさえ、口をあんぐりと空けている。アルフレッドも、珍しいほどの呆け顔。

 あのヴォルフですら、あまりの光景に声を失っていた。

 ただ、この会場で二人だけが、違う反応を見せていた。

 まるで、亡霊でも見ているかのように、カイルは自分の娘を見ていた。あの捉え難い動きは、いたずらっぽく跳ねまわる姿は、自分が追っていたあの少女と同じモノで、自分が手に入れ、こぼしてしまったはずの過去であったから。

 ウィリアムは微笑んでいた。懐かしい景色が其処に在ったから。二度と、見ることの出来なかった景色が、其処に在ったから。泣くのはきっと、彼女が許さない。いつだって彼女は、弱い自分たちを助けてくれた。何処からともなく現れて、盗んだりんごをひょいと投げる彼女は鉄面皮であったが、その奥ではいつも――

 二人は笑う。あの日々と同じように。

 ふと、背中の彼女が笑ったような気がした。

「は、半端ねえ」

 誰かが漏らした感想。それが、今の彼女を表す陳腐な表現であった。

 風の猫が、時を経てローレンシアに再誕する。


     ○


 ゼナは、ミラを警戒していると言いながらも、心のどこかでは勝てると確信していた。身体能力こそ互角に近いが、技には大きな開きがあったから。勝負に徹すれば勝てる。だからこそおふざけ無しで、勝ちに徹した。

 厳しい攻めを、絶え間なく繰り出して完封する。

「こ、のッ!」

 その幻想が、打ち砕かれる。

「はっは! どうした木偶の棒!?」

 速い、だけでなく柔軟。速さ自体は先ほどまでとそれほど変わらないが、とにかく動きが自由過ぎて捉まえられないのだ。羽根のように、重力を感じさせない動きに、女性でも類を見ない柔らかさと自由な発想。

 宙を舞い、地で舞い、世界を駆ける。

 槍を打てば受けるかかわすか、前後左右と色々あれど、人間の動きには『当たり前』がある。練達の武人であればあるほど、その予想と言うのは『当たり前』に支配されていく。『当たり前』の中で、相手の機微を読み、『当たり前』の中で選択肢を選び取る。

 その『当たり前』こそが武の基礎で、合理の集合体なのだから。

 だが、ミラの動きはそれに一切当てはまらない。合理的でない。人間的でもない。自在に、『当たり前』を逸脱した動きに、練達の予測が逆に足かせになる。

「ママの世界、背中で見ていた世界が、私の中にあるッ!」

 ミラは夢中になって攻めていた。

 ゼナでなくともその気持ちは見え透いてしまう。誰もが重力という檻に囚われている世界で、ただ一人そこから逸脱し自由に動き回れることが出来たなら、それはさぞかし気持ちよく、優越感に浸れることだろう。

「私は、カンペアドールだぞ!」

「何それ、私は、知らないよ!」

 何物にも縛られず、誰よりも自由な存在。

「名前が重いなら、捨てなって! 少しは、軽くなれるんじゃない?」

「速くとも、当たりさえすれば!」

 そのくせ――

「忘れてんじゃないわよ。私とあんた、平でぶつかったら、互角だったっしょ」

 力は重量級。割に合わない。道理に反している。

 底辺に生まれたことなど、彼女の隔絶した存在に比べれば、何のハンデにもなっていなかった。かの烈日、エル・シド・カンペアドールの系譜、その中でも優れたるテオ・シド・カンペアドールの末子にして、力を烈日から技を烈華から、受け継いだ天才でさえ――

「私の中の全部くれてやる! もっと、もっとォ!」

 ミラという唯一無二の前では――霞む。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る