オリュンピア:拳士

「随分余裕だな」

 最初、黒星に言われた時、俺は何の意味か分からなかった。

 疑問符を浮かべる俺に、彼は苦笑して続ける。

「あいつ、上手いこと発勁を使ってるだろ」

 ああ、彼のことかと得心する。確かに上手く戦う。年下なのに丁寧な発勁、遅らせて出した時はセンスに身震いしたものである。ただ、それだけの印象。彼はきっと拳士にはならない。彼にとって発勁はただの道具で――

「あれ、体得して一、二年程度だぞ」

 耳を、疑った。

「は、いや、だって、それじゃあ震脚だってまともに」

「かっか、お前、やっぱ気づいてなかったか。まあそりゃそうだろ。普通あり得ない。震脚を覚えるのだって一苦労、ましてやそれを戦闘に使えるまで落とし込むなんて、それこそ十年先の話。普通は、な」

 言葉が、出なかった。今まで積み上げてきたモノが、とても脆弱なものに思えた。足元がぐらつく。立ち位置が、視えなくなる。

「たぶん、今のお前程度なら、二年も要らないだろ。そうは、思わないか?」

 二年、馬鹿を言っちゃいけない。二年どころか一年、半年で追いつかれかねない。まだ、ディティールこそ甘かったが、それでもかなり近いところにまで詰め寄られていた。幼少から東方の技に浸かっているならまだしも、つい最近、覚えたばかりの付け焼刃であのレベル。足音が、木霊する。幻聴だと分かっていても、振り払うことなど出来ない。

 否、幻聴だからこそ、己の中から溢れる焦燥感だからこそ――

 このローレンシアで唯一、東方の技を使う者。どこかに安心感があった。拳士は自分と老師だけ。老師は遥か先を往く先達。彼の弟子もこっちに来ている可能性は聞いていたが、それも兄弟子であり先達であることには変わりない。

 追いつかれる恐れなどなかった。追われる恐怖など皆無だった。あのオルフェと戦い、紙一重で敗北した時も、相手は槍使いで自分は無手、異種格闘技で負けただけ。そりゃ悔しさはあったが、危機感などはなかった。

 今は、怖い。拳士として生きていく果てに、拳士になる気すらない相手に劣る己を想像しただけで吐きそうになる。

 なるほど、自分は、これほど負けず嫌いだったのか。

 大人ぶって、余裕ぶって、口調を柔らかくして、でも、性根のところでは元のまま。底辺で、余裕などなく、いつも誰かと比べている。

 上に立つ者を、浅ましく覗く、あの日々。

「……老師のところには案内する。だから、稽古、つけて頂けませんかねえ」

「ああ、いいぜ」

 あの日から、余裕なんてない。

 幾度、拳を打ち付けただろうか。黒星を老師の元へ案内して、二人に稽古をつけてもらって、また一人で旅をして――あらゆる揉め事に顔を出した。あえて揉め事を大きくしたこともある。すべては、生きた拳を、強き拳を模索するため。

 いくつも壊して、壊して、まだ余裕はない。今も、まだ――


     ○


 二人の動きは、見るモノにとっては非常に、緩慢に映るかもしれない。

 それでも打ち合いの中で双方に流れている力の奔流は、見るモノにとってはおぞましく映る。結局、全ては見るモノ次第、見る目があるか、そうでないか。

 川の流れを速いと思う者はそういないだろう。強いと思う者も、そう多くない。しかし、穏やかな流れであっても、そこには巨大な力が働いている。長く、強く、どこまでも続く悠久の流れ。力のやり取り、生み出した力は拳を、足を伝って相手に流れ込み、相手はそれを利用して、自らが起こした力と重ねて打ち込む。

 制御し切れなければ大地に、壁に返せばいい。

 緩やかに、柔軟に、少しずつ大きく流れ、うねる力。

「うん、強くなっているね」

「余裕だな」

「そりゃ、これだけ初歩の初歩なら、多少は退屈だと思うけど」

「くっく、言うねえ」

 ラウルは確信する。あの時、余裕を失ったのは正解だったと。のほほんと生きていれば、確実に抜かれていた。拳士として、生きることを許せなくなるほどの差がついていたはず。今は、そうでもない。

「なら、こいつはどう捌くよ!?」

 ぎゅるん、流れに、急に差し込まれたねじれ。螺旋が襲い来る。

「……ッ!」

 黒星との稽古で高めた、オーソドックスな拳法。流麗なりし大河の拳。そこに差し込まれた急激な螺旋の激流。力づくの、剛の拳。

 アルフレッドはこの時点でのベターで対処する。だが、おそらく最善ではない。受け手に残る、鈍い痛みがその証拠。螺旋を取り入れた拳が叩き込まれる。そらし、壁に打ち込まれたその威力に、アルフレッドの背筋に嫌な汗が流れた。

 硬い岩壁すら穿つ、無手の破壊。

 一瞬、鉄でも仕込んでいるのではないかと思うほど、その破壊は人間離れしていた。それは、そのままラウルと言う男の覚悟と努力、尋常ならざる道のりを表している。拳に宿る執念、拳士というモノに救われた男は、たった一つの生き方にしがみついている。

「どうだ! アルフレッド・フォン・アルカディア! 俺は強いだろう!?」

「ああ、素晴らしい強さだ。君の時間が、透けて見えるよラウル」

「ハハ! まだ余裕があるな!」

「ないよ、俺に余裕なんてない。君たちには、分からないだろうけど」

 どんどん、螺旋の流れにも順応していく男の発言とは思えない。無論、完璧に捌けていない以上、少しずつ歪みは積もり、ダメージは蓄積されてはいるが――

「天才の謙虚は、嫌味にしかならねえよォ!」

「天才? 俺が? うん、良かった。何とか、まだそう見えるみたいだ。あまり弱音は吐きたくないし、弱みを見せる気も無いけれど、君なら良いか。どうせ、この勝負の勝敗に関わらず、君はローレンシアを去るつもりだろ?」

「……何故、わかった?」

「本場だから。偽物がどれだけ蔓延ろうとも、そこまで積み上げた本物はそこにしかない。なら往くさ。君たちは、俺とは違う。極める者たちだから。ただ、早熟なだけの俺とは違って、どんな歩みでも、君たちは先んじた俺が、壁で立ち往生する横を、悠々と抜けていく。それが、俺にとっては本物の天才さ。君たち、スペシャリストだ」

 アルフレッドが見せた弱さ。それはきっと旅立つラウルへの手向け。

「俺は、人より覚えが早いだけ。あと数年もしたら、此処に居る何人かの本物に抜かれる。そして、永遠に追いつけない。だから、俺はここで、この地で勝負をしなきゃいけないんだ。ここで勝たなきゃ、勝って証を立てなきゃ、誰も頂点だと認めない!」

 ゆえに、絶対負ける気はないとアルフレッドの眼は言っていた。彼の道のりもまた、凄絶なモノであったのだろう。ただの、一道具でしかない技をここまで高めた。その努力は、決してラウルの覚悟に負けていない。いや、総合的に見ればラウルでは勝負にもならないだろう。

 それでも、ただ一つ、拳士と言う分野だけは――

「君たち天才を、倒して俺は頂点を奪う。脚本は、俺が旅立つ前から出来ている。ゆえに、これは喜劇だ! ただし、大根役者じゃ務まらない。例え、性根が大根で、貧相な張りぼてであっても、役を務めきらなきゃ、劇にならないからね!」

 アルフレッドの拳から伝わる執念、愛憎、あらゆる感情の奔流。

「何が貴様を駆り立てる!?」

「今までの全てさ」

 仮面の下で――

「嗚呼、観客無しって言うのは、隠す必要のない相手ってのは、楽で良い」

 全てが入り混じった表情で拳を振るう。すまし顔はない。本当の、貌。

「笑う必要がないからね」

 ラウルは少し安堵する。そして同時に警戒する。

 彼は同じ人間だった。同時に、本気で、勝ちに来ている。

「さあ、踊ろうか!」

「ローレンシア最後の戦いを、勝利で飾らしてもらう!」

 剥き出しの両雄、さらに加速する。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る