幕間:シュバルツバルト
黒々とした針葉樹に埋め尽くされし古の森、シュバルツバルト。
人ならざるモノの領域として常に歴史の片隅にあった。かつてはネーデルクスが踏破せんと神の槍を遣わし、エスタードがシドとジェドの兄弟を送り込んだ。だが、この地が何であるのか誰も知らない。
唯一の踏破者である男の口からもそれが語られることはなかった。
「何だ、この、嫌な感じは」
「……こわい」
「正常である。ここをそう感じぬ生物などおらん」
アークは眉間にしわを寄せながら常に警戒し続けている。一瞬、一瞬、まるで己たちの命の灯が揺らめき、消え失せるのを阻止せんと細心の注意を払っているように見える。
「生き物の気配がない」
「普通の獣はおらぬからな。この森には」
「……生き物のいない森、ですか?」
「理屈に合わぬ、と言いたげであるな」
「……はい」
「合わぬとも。人の理屈になぞ。ここはシュバルツバルト、人の時代、魔術の時代、それより前、神話の時代よりこの地に在った不可侵の領域である」
根源的な恐怖が三人の心を包む。魔術的なものなのか、もっと深く、遺伝子に刻まれたものなのかは分からない。アークとて比較的伝説が残るガルニアの王族出身ゆえに知識を持つだけで、放浪の中にあって唯一、この地にだけは踏み込もうとしなかった。
己一人だけでは、立ち入る選択肢を取ろうとしただけで灯が消えたから。
「森が深すぎて空が見えない」
「日も、星も遮断されていると方向が分からない」
「其処は案ずるな。我なら間違えぬ」
アークは己の中に在るか細い灯の揺らめきを見て、道を決めていた。厳密に彼は方向を理解しているわけではない。ただ、己が、三人が死なぬ方角へ足を向けているだけであった。本来なら通る気などなかった。
騎士王をして遊び感覚で踏み込める領域ではない。
それでもこの道を選び取ったのは――
「人を寄せ付けぬ森が、ひとたび踏み込めば生かして返さぬ迷宮と化す」
「凄い道を選びましたね」
「……我とて避けられるなら避けたかったわい」
この王子の灯が完成するにあたり必要なことであったから。通る通らぬで灯の勢いに、強さに、途方もない差が生じたのだ。ならば避けるわけにもいかない。
(我は正しく進めておるか? ぐぬ、一々揺らぐでない! 何が待つか見当もつかぬ。戦場でさえこれほど灯が揺れたことは無い。さしもの器も、不動とはいかんな)
アークの先導がなければこの時点で彼らは道を見失っていた。
シュバルツバルトにおける最も大きな死因は、道に迷い彷徨っている内に食糧が尽きて餓死してしまうことであった。普通の獣がおらぬ以上、食糧調達も出来ない魔の森。備えは万全、長期戦も視野に入れてきた。
それでも恐怖は拭えない。
まるで魂が叫んでいるかのようであった。
『入ってはならない!』
それに、もう一つの大きな死因も、この森には在る。
○
三人は木の陰に隠れて押し黙っていた。誰も口を開かない。全身から嫌な汗が濁流のように流れている。イェレナなど恐怖で失神寸前であった。アルフレッドも隣に彼女がいなかったら失禁していたかもしれない。アークは歳のせいかちょびっと――
「「「…………」」」
身動き一つ、取れない。
見つかったら殺されてしまう。
「……グルル」
あの巨大な魔獣に。
彼らの背後にいた化け物は、身の丈アークの倍以上、分厚さは熊のようであった。黒曜の毛並みは見た目にも硬質で分厚い体躯をこれでもかと覆っている。見た目は熊に近い、だがサイズが桁違いであるし、何よりも雰囲気が彼らのそれではなかった。
何よりも眼光、瞳が真紅なのだ。あんな眼をアルフレッドは知らなかった。
そして、あのサイズ感にもかかわらず足音が小さい。推測であるが相当俊敏なのだろう。とにかく人が戦っていい怪物ではない。逃げるべきだと全身が叫ぶ。されど逃げを打てば気づかれ殺されてしまうだろう。
ゆえに隠れ潜むしかない。
息を殺し、身を潜め、やり過ごすしか――
「……行ったか」
「ぶはっ、はあ、はあ、はあ。な、何なんですか、あの化け物?」
「アレクシスの冒険にも出てきておっただろう? 大熊である」
「あ、あんな熊がいてたまるか!」
「で、あるなあ」
イェレナはぐったりとへたり込む。
「勝てるはずがない。あんな生き物が存在していること自体間違っている。何でこんな場所にあんな化け物がいて、この森の周囲には町や村があるんだよ」
「あれはこの森の守護者、長き歴史の中で一度としてこの森の外に出たことはないそうだ。とはいえ不安に思うのは分かる。我とて知った以上、近づきたくない」
「そっか、立ち入らなければ知ることもない。立ち入れば知っても伝えられない。結果として立ち入らねば恐れる理由はない、のか」
アルフレッドは大きく深呼吸をする。無機質な殺意、今まで見たことがない本物の怪物。この世界に存在すると思っていなかった圧倒的未知。
「なに、焦らず、やり過ごし、潜り抜ければいいだけであろう? 我の眼を信じよ。もはや神だろうが何だろうが縋り倒してみせようぞ」
「……あんまり格好良くないですよ」
「緊急事態である! 致し方なし!」
「足に力が入らない」
「……ちょっと休みましょうか」
「うむ、これもまた致し方なし、だ」
「めんぼくなし」
アークとアルフレッドはイェレナに合わせて地面に座り込んだ。一見イェレナに合わせた紳士的振る舞いにも見えるが、この二人、イェレナはともかくイェレナ仕様の荷物まで背負えるかと白旗を上げただけであった。
言わないところが中々に小狡い騎士王、黄金騎士コンビである。
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