プレリュード:闇に射す光
カイルとウィリアムの戦いはそれほど時間がかかることなく終わりを告げた。片腕で壁に押さえつけられているウィリアム。勝利したカイルの顔は複雑な渋面が浮かんでいた。
「痩せたか?」
「王宮はものを喰うのにも一苦労でね。前ほどは食べられていないな」
「剣の精度は上がっていた。鍛錬も、忙しいだろうに欠かしていないか」
「ああ、それでもこれだけの差とは恐れ入った。お前は強いな、カイル」
「……俺の強さは変わっていない。そう感じたとすれば、お前が弱くなったんだ」
ウィリアムの表情は変わらない。仮面越しでもその程度はわかる。彼は知っていたのだ。自分が弱くなっていることを。近づけば見えてくる。食べる量が減った、そういう変化ではない。口は固く閉ざせども、剣は明朗に語り掛けてくる。
「そうか。ふ、凡人は少しサボるとこうだ。もう少し鍛錬の時間を取ることにしよう」
(精度は上がっていると、言っただろうが)
鍛錬を欠かしていない。剣の腕前自体はむしろ上がっている。問題は身体の方、食べ物ではないだろう。彼は国王で、王宮と言う魔窟にいたとしても飢えには縁遠いはず。ならば答えは一つしかない。カイルもまた『それ』により妻を亡くしていた。
「……どうしてもあの子じゃないと駄目なのか?」
本当なら目の前の友を救いたい。しかし、それが叶わないことは道が違えた『あの日』、十二分に理解してしまった。今更友の歩みを止める気はない。止める資格もない。それでも、その死地に愛するはずの息子を放り込まねばならない悲劇は、食い止める余地があってもいいはず。あまりにも、それはあの子にとって、そして目の前の友にとって酷な道なのだから――
「今のところ、器として最善だ。この先、どう成長するのか、俺の手から離れる以上いくらか別の器も用意しておかねばならないだろうが……それでも今、アルフレッド・フォン・アルカディア以上の器はいない。それが答えだよ、カイル」
王とは導く者。最善の道を選び取り人を導く者を指す。そこに例外はあってはいけないのだ。彼の考える理想の王は、そういう存在なのだから。過去、何人もの王が例外を作り、理想からかけ離れていった。王とて人なのだから仕方がない。カイルならそう思ってしまう。だが、目の前の男はそう考えない。
ウィリアム・フォン・アルカディアという男は例外を作らない。
「神がいるとしたら、あまりに底意地が悪いと思わんか?」
「毎日そう思っているさ。あの日からずっと」
「……そうか」
アルと言う少年から最愛の姉を奪い。ウィリアムと言う化け物に愛を与えて、また奪わせた。今度は息子も差し出せと言うのだ。あまりにも、酷い話であろう。すべて彼の選択で、彼自身納得した上で邁進している王道であったとしても――
「俺はじきに死ぬかもしれん。だが、俺は死に屈する気はないぞ。今、俺の身体を医家の連中が調べている。どの薬が効くか、どの処置が効果的か、幾度となく思考し、試行する。そして記録する。俺は死すら次に繋げてみせる。わかるかカイル? 人類史から見ればあまりにも些細な一歩だが、俺は確実にあのクソ野郎に一矢報いる。ファヴェーラを奪った病も、いつかは地上から一掃してみせる。悲劇全てを根絶するための王道だ。そのための犠牲なら、何だってやるさ。何でも、な」
自らの身体すら一歩のために捧げる。その一歩の積み重ねが轍と成り、いつかは道となることを信じて。だからこそ例外は認めない。自分で課した罰なのだ。自分が破って何とする。自分の意志も、息子の意志も、関係がない。
最善ならばそれをする。それだけのこと。
「やめろと言っても、止まらんだろうな」
「もちろん」
一切の揺らぎなし。問答は無意味、そんなことは承知の上。
「まだ用があるのでね、出来れば放して欲しいのだが」
「……まだ何かあるのか?」
「……もちろん」
ウィリアムの眼が一瞬揺らいだのをカイルは見逃さなかった。
「茶番の脚本としてアルフレッドを追い詰め、追い出した。俺の頭ではわからぬがこれ以上道化の出番があるとは思えんぞ。あったとしたらそれこそ蛇足だろう」
「……もちろん蛇足だ。用向きは茶番に関することではない」
「こんな夜中に何の用があると言う?」
「……王は忙しいのだ。偉いからな」
「ほーう、まあいい。お前も何だかんだと人の親だな」
「下民の言っていることは理解出来んな」
カイルはにやにやと笑みを浮かべながらウィリアムを放した。仮面越しでもぶすっとした表情がありありと見て取れる。きっと彼はこれから茶番の外側で旅立ちを見送りに行くのだろう。確認のため、念のため、理由はいくつもあれど、それでも彼は、言い訳の効く範囲では、きっとあの子のことを誰よりも深く――
ウィリアムはカイルに背を向けて歩き出す。ふと、足を止めて振り返る。
「その子についた塗料、洗って落としておけ。まったく、怪物の子は怪物だな。寝かしつけるのも楽じゃない。その上、愚息も欺かねばならないと成れば、やはり難しい」
「俺とファヴェーラの娘だぞ。当たり前だ。お前の方は、あまり似なかったな」
「ふん、ぬかせ。……蛇足とわかっているが一つ忠告だ。その子を抑えつける気なら早めに男に嫁がせろ。家庭で縛り付けでもせねばその手合いは止まらん」
カイルはびくりと揺らぐ。
「止める気がないなら『お前』も覚悟がいるぞ。何をするにしても、目指すにしても、この御時世だ、今の立場じゃ難しい。乱世ほど簡単じゃない。難しい道を、お前は少しだけ楽にしてやれる方法を持っている。俺が捨てた名は無価値だが、お前のはそうじゃないだろう? もし娘が望むなら、拾って利用するくらいしてやれ」
無言を貫くカイルを見てウィリアムは「くっく」と笑った。
「まあ俺がお前の立場なら、死んでも抑えつけるけどな。あれが俺の道を継いだ時、そのつがいが幸せになるとは到底思わん。娘を想うなら、選択肢は一つだ」
「ミラはたぶん止まらんだろう。心根はあいつに似ているから、強いから、な」
「だろうな……やはりままならん。本当にくそったれな世界だよ、此処は」
「ああ、そうだな。本当に、そう思う」
今度こそウィリアムは振り向かずカイルの視界から消えていった。
カイルはいそいそと大事な娘を背負う。その際、傷があるはずの腹に触れて、友の技量が凄まじいことを改めて確認した。断ち切る瞬間、刃を寝かせて腹で打つ。両断された皮の袋と思しきもの。そこに仕込んだ塗料は斬る直前か斬った後で切り裂いたのだろうか。あの聡い子に気づかれずその仕事を完遂したところはさすがの一言。
「昔から、狡い手だけは一級品だったからな」
だからこそカイルは哀しげな笑みを浮かべていた。
「……病は俺から、また奪うのか。くそったれめ」
毒づく姿に剣闘王の力強さはなかった。
○
一歩一歩が重い。悪臭が臓腑を満たし、何度も嘔吐し、先程から出てくるのは胃液ばかり。とっくの昔に中身は消え去っていた。出来る限り接触は避けても、結局進めば進むほどその気遣いが無意味に思えてくるほどの詰まりを見せている。四方八方異臭の源ばかり。
前々から問題視されているアルカスの異臭問題。工事着工前の清掃は金になる、などと考えるのも脳の手慰み。少しでも意識を別のところに飛ばして、鼻を劈く腐臭を緩和していた。それもほとんど意味はないが――
意識が朦朧としてきた。気づけば臭いは消え去っている。目の前には糞尿の海、であれば鼻が麻痺してしまったのだろう。
未だ光は見えない。それでも足は前へ、一歩ずつ着実に進む。
○
王宮を飛び出したクロードは一目散にアルカスの入り口である大門を目指す。降って湧いたような武芸大会、王には珍しい依怙贔屓、いきなり現れた刺客、空になった王の寝室、全てを繋げれば馬鹿と自負するクロードでもピンとくる。
すべては初めから仕組まれていた。この夜は、茶番だったのだと。
(脚本は王様、演出と役者の手配はエルネスタ様、ハッ、いい芝居じゃねえか。自称トップスタァも形無しだなおい……ほんと、ひでーや、ウィリアム、様)
疾走するクロードに追従しようとしたベアトリクスだが、激昂して本気になったクロードの速度にはついて行けずあえなく置き去りになっていた。「へなちょこのくせに足だけは速いな、ふん」とは精一杯の負け惜しみである。
「退け退け、轢くぞオラァ!」
と言いつつ器用にかわし、時には槍を使って跳躍、人垣を飛び越えるなど民への気遣いは忘れない。その姿に「やんややんや」と歓声を浴びるのは本人にとってはいい迷惑である。まあどちらにせよ、疾風の如き疾駆を前に声すら背中に追いつくのでやっと。何を言われようとも聞こえた頃には遥か彼方である。
(むかつくのは――)
それに今は、他人の声なんて気にかけられるほどの余裕はない。
(俺たちには役すら与えられなかったこと、だ。ほんと、むかつくぜ、なぁ、マリアンネよお。俺たちはあんたの何なんだ? あんたの息子にとって、俺たちは他人かよ? くそったれ、俺は、まだ、あんたにとって何者でもないのかよ)
ラファエルに投げかけられた棘がじくりと胸を刺す。
自分は王の剣としてそれなりの役目を果たしている。その自負はある。武力が飾りになりかけている時代、だからこそ武力は燦然と輝かねばならないのだ。それは出来ている。アルカディア、ネーデルクス、二つの大国にて自分は――
だが、本当になりたいのは、本当に欲しいのは、地位とか名誉とか、役に立つとかを超えた、家族のような例外。成れないのは理解している。二人ともわかっている。それでも、そうなりたいと想う心は止められない。
自分は役に立つことで、マリアンネは距離を取ることで、逃避しているだけ。
(ちくしょうめ。この茶番をぶっ壊せば、俺はあんたにとっての何かになれるのか? 敵でも良い。この際、何でも良いんだ。俺を、無視しないでくれよ、とう――)
心の中でも、ぐっとこらえるクロード。その先は、想うことすら許されない。手を伸ばす覚悟も無く、ただ漫然とお飾りの最強として生きる自分には、到底――
「急げよ、俺」
とにかく走る。やけくその勢いでも無いよりはマシであろう。
○
朦朧とする意識の中、アルフレッドは光を見た。か細く、今にも消え入りそうな光。触れただけで散る、そんなかすかな光でさえ、この地獄では涙が出るほど嬉しかった。腐臭の中から少しだけ風の匂いがする。未だ地獄にあっても、地獄にあるからこそ、その一陣の風、残滓でさえ愛おしく思う。
この気持ちは何だろうか。
この気持ちは自分のものだろうか。
それともまた、夢でも見ているのだろうか――
『…………?』
それはどこにでもある悲劇であった。愛する者との別離、慟哭が木霊する。この世界にはよくある風景、ただの日常。それなのに、何故かその悲劇からは風の匂いがした。かすかな、か細い光が見えた。
普通ならしばしの時を経て人は忘れる。悲劇に心が耐えられないから、代替物を見つけて、風化させるのが普通。忘れて、隅に追いやる。いつか振り返った時、目じりに涙を浮かべる程度。愛する者とて所詮は他人。血を分けたところでそれは同じ。
それでも彼は忘れなかった。その重さは失った頃と同じまま。年月が過ぎる。なるほど、彼は獣なのだろう。この世界を変える獣、確かにそれは光かもしれない。
世界を変える存在を彼女は愛した。特別に扱った。自分たちが愛し、犠牲になり、残した世界。半世紀の停滞など許せるものではない。人は進まねばならないのだ。あの犠牲に見合う分、進んで進んで、はて、自分『たち』の望みは何だったのだろうか――
それを思い出させてくれたのは獣。獣と思っていた、獣のはずであった、人の王であったのだ。獣に愛が与えられ、獣が愛を思い出し、獣が人を愛した。元々は愛の深い子であった彼は、その愛深き故、一個の愛を切り捨て、全体の奉仕者、自らと同じ人柱と化したのだ。それは獣時代の罪の意識ゆえか、それとも――
彼は獣から王に成った。破壊者から導く者になった。それは彼女に初志を思い出させる。自分が愛さなかった共犯者のことを思い出させた。嗚呼、それはやはり光であったのだ。あの日信じた、喪失から生まれる光。
犠牲の果てに――光があった。
それはとても嬉しいことで、感謝してもし切れず、愛するも愛し切れず――
そんな感傷が、胸に過る。
「ああ、そうだ。空気って、こんなにおいしかったんだ」
地獄に差す光はとても綺麗で、愛おしく、美しい。
「僕はなんで、泣いているんだろう? 変だな、嬉しい気持ちが、止まらないや」
気づけばアルフレッドはアルカスの外に出ていた。木々が生い茂るアルカス郊外の森。普段感じることのない感謝と抑圧からの解放でアルフレッドは天を仰ぐ。今日は良い月が出ている。旅立ちには、絶好の月夜ではないか。
不安はある。何処に向かえばいいのか、決められた道はない。目的地も、目標も、何もないけど、だからこそその手は何だって掴める。その足はどこへだって行ける。自分を遮るものはない。自分を縛る枷はない。
後ろを見れば、夜闇に屹立するアルカスの都が。今のアルフレッドにはそれが愛すべき故郷ではなく、狭苦しい檻に見えたのは、錯覚であろうか。
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