復讐劇『急』:おわりのはじまり

 着付けが完了したヴィクトーリアを見てヴィルヘルミーナは苦笑する。素材は姉妹の中でも最高の逸材、誰よりも美しく優しかった母に似ている。それが昔は許せなかった。大好きな母の死の代わりに生まれてきた、この底抜けに明るい娘が許せなかった。

「……すごく綺麗よ、ヴィクトーリア」

 ヴィルヘルミーナは姉妹の中で、おそらくヴィクトーリアをいじめていた中心であった。あの頃、皆が喪失に打ち震えていた。それから何年もの間続くベルンバッハの暗黒時代。狂った父親から姉たちがぼろぼろにされていく様を見て、八つ当たりのようにヴィクトーリアに矛先を向けた、向けてしまった。

「ありがとうお姉さま。私一人じゃこんなドレス着れないし、メイクも得意じゃないしすごくすごく助かったよ。苦しいけどね、えへへ」

 底抜けの笑顔。あの暗黒の時代にあってヴィクトーリアのそれは変わらなかった。それは歪みである。テレージアでさえヴィクトーリアには触れようとしなかった。他の姉も、間接的とはいえ暗黒時代の元凶であるヴィクトーリアを疎んじた。それに対する答えがこの笑顔なのだ。こんな悲しい貌があるだろうか。

「ねえ、ヴィクトーリア。これで貴女はベルンバッハから開放される。私たちを、ベルンバッハを恨んでいるでしょう? もう、笑う必要はないの。もう、隠す必要はないの。私たちを憎みなさい。そして幸せにおなりなさい」

 ヴラドの矛先が外部に向き、多少落ち着いて来た頃、ようやくベルンバッハの家は正気を取り戻した。そして、自分たちがヴィクトーリアにした蛮行の数々を思い出し、後悔の念にとらわれることとなった。彼女に罪はなかった。彼女に落ち度など何もなかった。

「でも、今は愛してくれているでしょう? 私、好きよ。お姉さまは皆好き。あの時はみんな痛かったもの。それは仕方がないことだから。その後に私に謝ってくれた。私と一緒にいてくれた。それで充分。恨んでないよ、誰も。お父様すら」

 ヴィクトーリアの笑顔は皆を癒す。同時に彼女たちの心を砕く。良心の呵責が抑えきれないのだ。だから、ヴィクトーリアに近づかない姉もいる。申し訳なさでいっぱいだから。テレージアとヴィルヘルミーナが傍にいる半分はその呵責ゆえ。

 もう半分は、彼女を慕う妹たちと同じ。

「馬鹿ね、ほんと貴女は馬鹿よ。私なら、百回復讐しても飽き足らない、それだけのことをされたのに。貴女はいつも笑って、私たちに弱さを突きつける」

 ヴィルヘルミーナは泣きながらヴィクトーリアに抱きついた。一番、彼女を傷つけた自負がある。大きな、大き過ぎる後悔があった。

「なら、幸せに、ただ幸せにおなりなさい。何かあったらすぐ私に言うのよ。私に出来ることなら何でもしてあげる。何でも、させて、お願い」

 この姉の弱さをヴィクトーリアは知っていた。その弱いところが魅力なのだ。ヴィルヘルミーナという華の、とても可愛らしいところ。苛められている中、本当に、稀に、少しだけ優しくしてくれたことがあった。それは彼女の弱さで、彼女の優しさが見えたから。だから耐えられた。いつか、光が差すだろう、と。

「うん! でもなあ、相談してもお姉さまだと余計こじれそう」

「……それは今現在家出してることを言ってるの?」

「そんなことないよ。ないってば。いたたたたた」

 耳をつねり上げるヴィルヘルミーナには涙が浮かんでいた。それをヴィクトーリアに見せぬようぬぐい、すごく優しげな表情で耳を放す。

「幸せになりなさい。貴女にはその権利があるわ」

「まだ先だよ。これの着付けも気が早いと思うなあ」

「……着てわかったでしょ。太ったってことが」

「そうかなあ。たぶんルトガルドが小さく作ったんだよ。あてつけだね」

 ぽかりと叩かれるヴィクトーリア。しかし実は正解であった。今頃ルトガルドはくしゃみをしていることだろう。そしてなんとなく良い気分で裁縫を始めるはずである。

「そのルトガルドって娘もあの男の子とが好きなの? ちょっと、大変じゃない!」

 慌て出すヴィルヘルミーナ。競争相手が、明確な敵がいないから当確と思っていたが、個人名が出てくると別である。ヴィルヘルミーナはヴィクトーリアの良い所をいっぱい知っているが、同時に悪いところもいっぱい知っているから。

「私より前から、ずーっとだよ。本気出されたら負けるもん。でもね、私がいっこだけルトガルドに勝っている所があるんだ。その分だけ私が勝った」

「……容姿しか思いつかないわ。貴女が他所様のご令嬢に勝てるところなんて」

 その時の、解答する顔を、ヴィルヘルミーナは見逃すべきではなかった。考え込み、鏡に映るヴィクトーリアの顔を見ていなかった。もし見ていたら、察することが出来たかもしれない。

「私は、馬鹿なのだ!」

 呆れた答えにヴィルヘルミーナの拳が飛ぶ。「いたいよお姉さまぁ」と泣き笑いのヴィクトーリアが、ぽつりと、「ごめんね」とつぶやいたことも、ヴィルヘルミーナは「ん?」と聞き違いかと反応するも、ヴィクトーリアは「えへへ」といつもの笑顔で――

 誤魔化した。


     ○


 ウィリアムの軍勢は瞬く間に小国群を制覇した。それはアルカディア本国の誰もが想定していなかった速度。早過ぎる、強過ぎる軍勢であった。中にいる者でさえ唖然とするほどウィリアムが指揮する軍勢は強かった。策はぴしゃりと嵌り、あっさりと勝利を積み上げていく。相手が劣るとこうも圧倒的なのか、と恐れるものすらいた。

「さて、どうやら此処までみたいだな」

 しかし、進撃は此処で終わる。ルーリャ川が二筋に分かれる境目、その対岸は霞むほど遠い。それでもはっきりと見える。黒の旗が、狼の旗が見える。

「馬鹿な。あちらが先んじて動いていたのは知っていたが、これほどの速度で進軍して何故同着なのだ?」

 アンゼルムは疑問符を浮かべる。ウィリアムはそれに笑って応えた。

「なに、あいつならそれだけやるさ。むしろ同着ならもうけもの。これでかの国はどちらも手をつけられなくなった。準七王国の中でアクィタニアに次ぐ国力を持つ国。東西をルーリャに挟まれ、何人すら阻む水神の都、ダーヌビウス。此処が終点だ」

 巨大な城塞都市が二又のルーリャ、その間にそびえていた。そこから南へさほどの距離もなく山岳が蓋をし、その隙間の渓谷を抜けてルーリャは南へ赴く。つまりは北東西を川が守り、南は山が守る天然の要害。落とすに難し。

「平時は貿易の拠点として栄えているが、あの跳ね橋を引き込んだが最後、普通の手じゃ攻め込めない。世界でも有数の守備力を誇る砦だ」

 地形的に攻め難い。されどそれだけが難攻不落の理由にあらず。

「加えて此処がさまざまな国の貿易、その中間地点を担っている面も攻略を難しくさせる。何処も欲しいが、何処も取られたくない。取られるくらいなら協力して恩を売るくらいはする。そもそもとして俺たちが此処に至るまででさえ、この国に接していたのは多くの小国、川を少し下ったらオストベルグ、山を挟んで南に聖ローレンス、それらの背後にガリアスが控える。これだけの利害が、睨みを利かせているんだ。そして今、アルカディアとネーデルクスもその輪に入った」

 もはや攻め難いとかそういう次元の話ではない。此処を取ると言う意志を見せた時点で、その全てと同時に戦う覚悟が必要なのだ。そしてそれは軍団長の責任範疇を大きく超えるものでもあった。

「黒狼も此処までが限界。雇い主であるネーデルクスが攻めることを許さないだろう。そして俺も此処を攻める許可、それを得るための理由が見出せない。今は、な」

 ウィリアムはきびすを返す。最低限の見張りだけ残して撤退する。落としてきた国々とその周辺国、色々な交渉ごとは山積みであろうが、それは文官の仕事。今のウィリアムがしゃしゃり出る場ではない。

「やるべきことはやった。退くぞ」

 即断即決。それに季節はもうじき冬になる。何をするにしても翌年であろう。今は得られた戦果をかざし凱旋することで充分。やるべきことはアルカスにある。

(そうか、もう、こんな時期になるのか)

 ウィリアムはその手を見つめる。血塗れた、その手を握り締める。

 季節は、秋を越え、冬になろうとしていた。激動の一年が終息へと、新たなる激動の幕開けのため、しばし世界は休眠するのだ。


     ○


 ウィリアムはベルンバッハの屋敷に来ていた。着いた瞬間、まとわりついてきたマリアンネを振り切り、ヴラドの待つ部屋に赴く。直接会うのは久しぶりであった。

 今の状況は逐次調べさせており、報告通りかどうかの確認がウィリアムの主な目的である。どうせヴラドが呼びつけた理由などわかりきっているのだから。

「おお、我が息子よ。良く来てくれた。ささ、疲れているだろう。こちらへ座りなさい」

 ヴラドの顔を見て内心ほくそ笑むウィリアム。連日のパーティで疲労がたまっているのだろう。目の下には大きな隈があり目も充血している。以前に比べかなり痩せてきているだろうか。弱弱しく、小さく見える。だが、目の奥には隠し切れぬ暗い炎が渦巻いていた。

「コルシカでの一騎打ちは王宮でも語り草だ。私も鼻が高い」

 ヴラド自らがぶどう酒を注いでくれる。中身は、おそらく悪癖の産物であろう。血の色をしていた。そちらもお盛んなようである。

「いえ、義父上の後ろ盾があってこそ、私も安心して戦場に出れるのです」

「ふはは、我が息子ながら口が上手い。謙遜も過ぎると嫌味に聞こえてしまう」

 談笑しながら血色のぶどう酒を味わう。あまり味覚に対して煩くないウィリアムでさえ、この飲み物はまずいと断言できる。会うたびに、飲むたびに濃くなっている。塩みが、ほんのりと香る鉄のにおいが、気分をめいいっぱい下げてくる。

「ところで、だ。今夜マイシュベルガー侯爵主催のパーティがあるのだが。君にも是非参加して欲しい。皆、白騎士の参加を心待ちにしているのだ」

 要件はこれであった。自分よりも上位の者とのパーティ。毎夜毎夜違う貴族の会食に参加し、上位の者たちと交流をする美酒。上位の者にとってヴラドはウィリアムの義父に成りうるという価値しかない。その価値ひとつでこうも景色が変われば溺れもするだろう。

「途中からならば。まだ冬が来ていない現状気は抜けません。平定した小国の整理もついておりませんし、そちらが済めば取り分の分配も考えねばなりません」

「途中からで構わんよ。真打は遅れて登場するものだ。いやはや、これで私の面子も保たれると言うもの。早くつれてきてくれと急かされておったのでな。忙しいのにすまない」

「いえ。本当は全部お付き合いしたのですが。仕事がたまっておりまして」

「しかし仕事内容は武官ではなく文官のそれだねえ。まあ偉くなった証拠とも言えるが。そういえば軍団長になった祝いを言ってなかったね。おめでとう」

「恐縮です。これも全てはヴラド様が私を引き上げてくださったおかげ。私は忘れておりません。くすぶっていた私に道を指し示してくださったのは他ならぬヴラド様であると。ゆえに私の忠誠は国にも王族にもございません。ヴラド様にこそ我が忠誠捧げんと思っております」

 ヴラドは相好を崩してぶどう酒を一気にあおる。ヴラドとてわかっているのだ。自分の価値が目の前の男、その後ろ盾であることのみだということが。だからこそこの手の言葉は良く効く。信じる信じないではない。信じなければ今の状況が壊れてしまうのだから。白騎士が与えたさまざまな環境の変化を失ってしまうから。

「ヴラド様のお耳に入れておきたいことがひとつ」

 急に真面目な顔を作るウィリアム。ヴラドも厳しげな顔を作るが、ほんのりにやけており、この後続くであろうウィリアムの言葉に期待していた。

「北方に続き、南西の小国群もルーリャを挟んで東側はアルカディアが手にしました。我が国はさらに領土が広がったのです。ならば、新たな領土がある新たな領主も必要となります。小国とはいえ国は国。人も国土もそれなりのものがありますし、落とした国の数もそこそこ……私の部下が残りカスの平定に赴いておりますので、それらはさらに増えるでしょう」

 北方の件も併せて、今回の戦でアルカディアはぐっと大きくなった。北方と南西部を持たなかった頃と比べるとすでにこの時点で倍近く大きくなっている。その大きな身体を持て余しているのが現在のアルカディアである。

「優秀な統治者が要ります。国の意向を理解し、民衆を操作できる、有能かつ国家への忠誠篤き貴族の中の貴族が。私は、ヴラド様こそ相応しいと思い、勝手ながら推挙させていただきました。おそらく旧ジェノヴァを任されることになるかと」

 ウィリアムは申し訳なさそうな顔と声色を使い、ヴラドにさらなる欲を与える。すでに頭までどっぷり浸かり切っている状態だが、もう少し『これ』で遊ぶのも悪くないとウィリアムは考えていた。この辺りは正直趣味の範疇である。

「い、いや、しかし、そのような大役――」

 大役を前に嬉しさを隠せぬヴラド。ウィリアムは内心ほくそ笑みながら、ダメ押しの一言を耳元でささやいた。

「今回の仕事は難しいものです。任される領地もかなり広大なものになるでしょう。小国とはいえ一国分を任せる立場……伯爵では明らかに不足。よって、この任を任されし者には侯爵の地位が授与されることになります」

 侯爵、その一言でヴラドの心は蕩け堕ちる。欲望の海、その深淵まで一気に引きずり落とされていくのだ。抗うことは出来ない。もっと、もっと、この男に与えたい。与えて与えて、分不相応の極みまで肥え太らせて、全てを奪い去る。

「わ、私が侯爵に、なれるというのか? このヴラド・フォン・ベルンバッハが?」

「なるべき人物です。今までが不当な評価だっただけのこと。侯爵とてヴラド様の器に見合うとは思いません。その先、公爵への道は私が切り開いて見せます。しばし、侯爵の椅子にてお待ちください。それほどお待たせは致しません」

 ヴラドは感無量の表情でウィリアムの手を取った。「私は良い息子を持った」「ありがとう」などとウィリアムに感謝の言葉を投げかける。欲望に溺れた瞳、浮かぶ炎はさらにぬめり気を増し、内面を表すかのように顔はさらに醜悪なものへと変ずる。

「冬が参りましたら、各地から将も戻って参ります。それに伴い今年一年の総括ではありませんが、略式ばかりであった昇進式等をまとめて執り行う予定です。その時爵位も授与されることでしょう」

 ヴラドはウィリアムの手を握りしめる。其処にあるものが幻影じゃないかを確かめるかのように。頭を垂れ、涙すら浮かべていた。愛を失い、正気を失い、光を求め今もなお虚ろに生きる哀れな獣。それを見るウィリアムの眼は完全に冷め切っていた。

(これで救われると、終われると思っているのか? 本当に、度し難いほど愚かな奴だ)

 ウィリアムは嗤った。目の前の哀れな存在を、殺す価値もない弱き存在を。虚無の冷たさを埋めるために狂気の熱を求めた。熱き狂気と溢れんばかりの欲望。それなしでは生きられぬ弱きもの。弱く、そして強か。

 ウィリアムと同じ存在であり、ウィリアムと逆の性質を持つ愚者。それがヴラド・フォン・ベルンバッハ。すでにこの者、大海の底に沈んでいる。


     ○


 ウィリアムがヴラドの私室から退出すると、ひとつのねっとりとした視線が降り注ぐことに気がついた。視線の主はそれを隠そうともしていない。

「貴様には救えんよ。光を求める蛾が光を発することはない」

 視線が強まる。明確な殺意がウィリアムに突き立つ。強烈な殺意。しかしこんな殺意は贋物だとウィリアムは思う。己の否定をひた隠しにしたいだけ、これは自己を守るための殺意である。言い換えれば誤魔化すためのもの。

(あの女が俺に向けていたものに比べれば、あまりに幼稚)

 虚無に生きる者同士の傷のなめ合い。視線の主が何に惹かれ忠誠を誓ったのか、それはウィリアムの知るところではない。贋物らしく代替物の光に魅せられたか、それともあの男にも輝いていた時代があったのか、今となってはどうでも良い事である。

(今更俺が貴様らを断罪することはない。俺もまた同じ穴の狢だ。自覚のあるなし、それだけの違いしかない。方法は異なれど他者から熱を奪うのも同じ。だから、俺がこれから成すことは復讐じゃない)

 ウィリアムの手は血で塗れている。自分を知った今、自分の道を決めた今、ヴラドのことなど大した意味を持たなかった。それはあくまで仕事で、

(断ずるは我が道。求めるは絶対零度。貴様らは――)

 ただの添え物でしかない。

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