幕間:束の間の休暇

 季節はめぐり夏の終わり、今年の夏は例年よりも暑く、残暑も厳しいものであった。アルカスに残っていれば酷暑に苦しむことになっていただろう。丁度、そのシーズンを避暑地にて休みを取っていたウィリアム。

 火傷に効くという温泉で身体を休める傍ら、式こそ行われていないが名実共に夫婦となったヴィクトーリアと遠乗りや狩り、夜にはダンスや音楽に興じる日々。マリアンネはついていくと言って聞かなかったが、その少し前に自らが撒いたマリアンネ自身のわがままによって見事ご破算となった。

 今日もまたベルンバッハの別荘から離れた温泉まで、馬の二人乗りで訪れていた。人里はなれた秘湯だが、昔から傷病に対して他の温泉よりも効果が高いと言われており、週に二度はウィリアムらも訪れている。だいたいは二人っきりでの入浴。

 最初は戸惑いがあったものの、今となっては照れも消え、もはやこなれたもの。数分隣でちょこんとしおらしく座っているが、その後は一人ですいーっと泳ぎ始めるのがヴィクトーリア。それを眺めながら不動にて傷を癒すのがウィリアム。かなり対照的である。

「ねえねえ、昨日はすごかったね。とっても遠くの鳥が一発でひゅーっと落ちてくるんだもん。私驚いちゃった」

 昨日といえば、同じように避暑に来ている貴族たちと合同で狩りのちょっとした大会があった。そこに飛び入りで参加し(ヴィクトーリアが面白半分でねじ込み)、見事優勝をかっさらうといった出来事があったのだ。彼女が言っているのはそれを決定付けたあの一撃であろう。

「ああ、そんなこともあったな」

 ウィリアムは何でもないようにさらりと流す。すいーっと近づいてくるヴィクトーリアの頬は膨らんでいた。たぶん会話がしたいのだろう、構って欲しそうな面をしている。無視するのも面白いが、すねるとまたつまらないことを隠れて押し付けてくるので迂闊に流せない。狩りの大会への参加も、前日のダンスパーティで別の女性と仲睦ましげに踊っていたのが原因であった。

「弓が得意なんだよ。昔から眼は良いんだ。遠くは見えるし、相手がどう動くのかもわかる。あとは其処に打ち込むだけだ。難しいことじゃない」

 難しいことじゃないわけが無い。ウィリアム自身これに関しては才能だと思っている。ゆえに今まで忌避していたが、この前の戦場以来、剣と並行して弓も毎日の修練に追加した。どんなものでも利用する。天から与えられたものであっても、自分は凡人なのだから避けるべきではない。そう考えられるようになっていた。

「えー、凄いことだと思うけどなあ」

「別に大したことじゃない。あと、顔、近いぞ」

 すいーっと顔がくっつきそうな距離まで接近するヴィクトーリアを、白い眼で見るウィリアム。ヴィクトーリアはにこにことさらに顔を近づけて――

「近づけてるんだもん。当たり前だよ」

「調子に乗るな」

 くっつく直前にでこぴんで撃退される。「ふぎゃ」と温泉に沈むヴィクトーリアを見てウィリアムはほんの少し噴き出してしまう。見事なまでの道化っぷりに免じて、浮上してきたヴィクトーリア再度のアタックは受け入れてやった。


     ○


 ウィリアムが休暇を取っている間も、世界は加速し続けていた。


 ガリアスに敗走したアークランドはその足でユーフェミア奪還作戦を決行。少数の騎馬隊による電撃作戦は成功し、無事ユーフェミアの奪還をかなえる。しかしこれはエスタード側の作戦であった。あえてユーフェミアを奪わせて、その背後を本隊が強襲、相手を全滅させる非情の作戦。

 ユーフェミアの情報によると、この軍の指揮は『Ⅱ』の文字を持つ男であるらしい。最古のカンペアドールと自らを称していたチェよりもさらに前のカンペアドール。誰の記憶にも残っていない謎の男であった。

 退路を断つ作戦はアークランド側も予期していた。事前に全体の作戦立案者であるメドラウトが指摘していたのだ。部隊を騎馬隊のみで編成、全速の強襲および撤退にてからくも成功を果たす。その際、後背に展開しようとする本隊への足止めとして『白鳥』のローエングリンが自らの意志で向かい、敵本隊とまみえ戦死した。彼の稼いだ時間は万金に値したと伝えられている。

 アークランドは痛みを知った。苦い敗北と辛い勝利、失ったものは大きい。

 エスタードを指揮する男は、死に際のローエングリンにこう吐き捨てたという。

「ユーフェミア一人のために軍を動かした時点で王としては三流。英雄の才気に溢れども、王たる資格無し。つくべき王を間違えたな、勇猛なる戦士よ」

 そこでローエングリンがどう返したか、それは伝えられていない。


 対して絶好調であったのはネーデルクスであった。対アルカディア、聖ローレンスは完全に捨ててエスタードと七王国以外の国に焦点を絞った狙いは的中した。

 エスタードではディエース率いる『白』がエル・シド不在をいいことに猛威を振るった。ディエースの強みである敵の弱みに付け込む策の数々は、ネーデルクス最高の矛であるジャクリーヌの武力もあいまって、かのエルビラから勝利を積み重ねるという結果を生んだのだ。

 ネーデルクスの北方、北海にて猛威を振るうのは『黒』を率いるゴーヴァンであった。ラインベルカを除くフェンケを副将とした軍勢は、北海の猛者をものともせず蹴散らしていく。ネーデルクスのみならず世界中で戦争略奪行為を働いてきたヴァイクと呼ばれる荒くれどもも形無しの暴れっぷり。今日もひとつ砦が燃えた。

 そしてネーデルクスの東方、アルカディアとは接していない地域、つまり七王国でない国をはさんでいる地域には『赤』を率いるヴォルフが詰めていた。文句なしの破壊力、桁外れの速度で、準七王国と称されている国を二つ同時に相手取り圧倒して見せる。世界がようやくフラットな視点でヴォルフを知る。その理不尽なまでの強さを。

 目立っているのは主に前述の三名だが、他にも多く優秀なものを他国から引き抜いたネーデルクス。ハースブルクの富を空っぽにするくらいの勢いで集めた人材は、この国に勝利をもたらした。だが、それはあくまで第一段階。そこから学び生え抜きに落とし込んでこそ大枚を叩いた甲斐があるというもの。

 まだ進化は途上、復権のネーデルクスを世界は知る。


 ウィリアムが休暇を満喫しアルカスに帰還する。加速する世界から取り残されているウィリアム。白騎士と黒狼の戦から二ヶ月しか経っていないにもかかわらず、すでにそれは過去のもので、世界は今の熱狂に注視している。

 身体はかなり回復した。されどこの二月の開きは痛い。ライバルたちは実戦の中で実力を伸ばしている。ウィリアムは訓練こそ毎日欠かしていないものの、実戦に比べれば成長は遅い。身体の回復に時間がかかったとはいえ、置いてけぼりを食らった感は否めない現状があった。

『随分楽しんできたようじゃのお』

 ストラチェスの相手は闇の王ニュクス。顔は笑っているが心に一切の笑みはない。そんなニュクスを前にして、ウィリアムの心はさざなみひとつ立っていなかった。以前まで抱いていた恐怖は一切見えてこない。

「そうだな。羽目を外し過ぎたかもしれん」

 ウィリアムはゆるりと駒を進める。その手は雰囲気とは対極の厳しい一手であった。

『忘れてはおるまいな、そろそろ刻限の――』

 ニュクスは即座に応じる。厳しい手だが、潰せぬ手ではない。

「もちろん忘れてはいないさ。約束は果たす。準備は刻々と整っているだろう? もうあの男は溺れているよ。毎夜繰り広げられる、自分より上位の者とのパーティ。その超特権階級と同じ空気を吸って、べろべろに酔ってしまっている」

 だが、その潰しの一手すら――

「だが、まだ底じゃない。酔いが足りないんだ。だから待て、万事俺に任せていればいい」

 白騎士はひねり潰して見せた。ニュクスの想像を超えて、全てを読み切っていた会心の一手。これでウィリアムの勝利がほぼ確定した。ニュクスはその強さを、その深さを知って追求をやめた。この男は決して期待を裏切ることはない。それだけの強さを見せ付けられたから。

「別件でひとつ頼みがある」

 ニュクスが優雅に頭を下げ、勝敗が決した盤を挟みて白騎士と闇の王が対峙する。白騎士の瞳には穏やかな光が浮かんでいた。穏やかで、揺れることのないまなこ。

「――――――」

 ニュクスはそれを聞いてゆっくりと眼を伏せる。そして紅き涙を流す。

 ニュクスは知った。自らの王の完成を。神話の時から願ったヒトの王の完成を。自らが望んだことである。アルカスと己が夢の果て、自分は其処に立っている。その業の深さに、哀れなる夢想の具現たる王を想い、静かに涙を流した。

 勝負の決まった盤面。後はこの一手が放てるか否か――


     ○


 ウィリアムが久方ぶりに仕事場へ赴くと、青筋を何重にも浮かべるシュルヴィアと飄々と小ばかにしたことをのたまうリディアーヌが睨みあっていた。一触即発の状況、というよりも何度も弾けたのだろう、本人たちこそ無傷だが部下は青たんだらけであった。

「……合わないとは思っていたが、これほどとはな」

「「ウィリアム!」」

 双方喜色を浮かべてウィリアムを見る。ウィリアムがどうこうと言うよりも、この状況に終止符を打ちたいのだろう。

「このクソ女は細かいことを愚痴愚痴愚痴愚痴煩いのだ。現場を知らぬお嬢様――」

「この能無しをどうにかした方がいい。こんな愚か者に将は務まらないだろう。それと――」

 怒涛の勢いで互いの悪口を連ねる両者。ヒートアップするにつれ部下はそわそわしてしまう。また殴り合いに割り込んで攻撃を受けねばならぬと考えただけで憂鬱にもなろう。

「二人とも落ち着け。シュルヴィアは現場により過ぎている。リディアーヌは現場を軽視し過ぎている。それだけのことだろうに」

 ぐうの音も出ない二人。ほっとする部下たち。

「それで、武官主動で行うブラウスタット周辺の開発は」

「計画は、ウィリアムが残していったたたき台を私が手直ししたものが採用された。資材の手配は済んでいるし、すでに現地は動き出しているだろう。それに伴い第一軍大将ヘルベルトが安全マージンを得るために侵攻。勝利を収めた」

 ブラウスタット周辺の開発をつつがなく行うためには、敵が目と鼻の先では都合が悪い。ある程度余裕を持つためにも敵軍を多少押し込み戦場になる場所を先へ移す必要があった。その任務をヘルベルトは完璧に果たして見せたのだ。

「なるほどな。完璧な状況だ」

「独断で攻め続けるかと思ったがね。そこは任務を優先させられる男だったようだ。存外優秀だよ、オスヴァルトの後継者は」

「知っている。優秀でない者を肉親と言うだけで副将にするほど、先代は優しくない。この状況なら完璧に働いて見せるだろう。懸念はない」

 状況はウィリアム抜きでも好転していたようである。

「オストベルグ方面も特に動きはない。ラコニアの開発はひと段落、ヤン大将は自軍を分割しアンゼルム『師団長』を主として南西への侵攻を開始。勝利を重ねている」

 此方も盤石。アルカディアにとっては黄金の時代が来たといえるだろう。もちろん他国も思惑があってアルカディアに触れていないだけ。勘違いするべきところではない。とはいえ順調なのは事実であり、こういうときこそ国力の増強に努めるべきである。

「大体見通しどおりだな。ユリアン、お前にこの先の行動表を渡しておく。現状ずれはないから、それどおり動けばいい。字はその辺の奴に読んでもらえ」

 誰よりも顔を膨らませている男、苦労人ユリアンがウィリアムの行動表を受け取る。見せて見せてとリディアーヌが飛びつき、ユリアンのために読み上げてやった。意外と有能な者に好かれやすいユリアン。自身の能力を過信なく自覚し、やるべきことをやれる人材と言うのは意外と珍しいのだ。

 読み上げならが、リディアーヌは「へえ」とか「ほう」とか興味深そうに声を出す。シュルヴィアはすでに興味を失い、筋トレに勤しみ始めた。堪えのない女である。

「こ、これを僕に任せると?」

 最後まで聞き、顔を青ざめさせているのはユリアンであった。

「こなせる力はある。やれるかとは聞かん。やれ」

 冷たいようだが、ある意味でユリアンへの信頼が形となった丸投げ。ユリアンは幾ばくか迷いながらも「承知しました」と頭を下げた。

「シュルヴィアとリディアーヌは俺について来い。此処でわずらわしい小国と小うるさいネーデルクスをけん制しておく」

 シュルヴィアは眼を輝かせてウィリアムを見る。

「戦か!?」

「そうだ。一ヶ月、いや、移動も含めたら二ヶ月近くか、まあ我慢した方だろう。褒美でもないが暴れさせてやる。リディアーヌも待たせたな、好きなだけ観察していいぞ。良い経験をつんでガリアスに持ち帰ると良い」

 シュルヴィアは歓喜に打ち震えながら執務室を飛び出していった。自慢の得物を磨きにでも行ったのだろうか。リディアーヌは挑戦的な目でウィリアムを見ていた。好きなだけ観察して良い。経験を積んで帰ると良い。全ては上からの言葉。事実、ウィリアムとリディアーヌでは大きな開きがある。それは先の戦で充分理解できた。自分ではあの黒狼を止める術を持たなかっただろう。

 学ばせたことを後悔させるような速度で成長してやる。リディアーヌもまた燃えていた。

「ユリアンには苦労をかけるな。これを終えたら昇進させるよう上に掛け合ってみよう」

 ユリアンは不思議そうな顔でウィリアムを見る。何か、何かがおかしいのだ。北方で暴れまわっていた、あの残虐非道な力の王と何かが違う。確かに味方に対して優しい部分はあった。しかしそれは利益があり、目的があってのこと。

(何かあるのかな? それとも、何かが変わった?)

 ほんの少しの誤差。大した意味はないとユリアンは頭を振る。自分が考えるべきことは託された大仕事。本来自分の身分、階級が行うべきものを大きく超過した仕事についてである。ユリアンは頭から違和感を消した。

「さあ仕事を始めるか。発つ鳥後を濁さず、だ。綺麗に片付けて戦場へ赴こう」

 ウィリアムは久方ぶりに仕事場の椅子に腰を下ろした。

 そこからの進行ペースの上がり方にユリアンらの杞憂は完全に吹き飛んでしまった。やはりウィリアムがいるいないでは仕事の速度と質が違い過ぎたのだ。


     ○


 商会にも顔を出して製鉄所の進行状況を確認する。此方に関してはウィリアムと互角、条件によっては格上が何人かいることもあり、特に指摘することはなかった。

 すでに国内の武器は完全に押さえ、過去八商会が得ていた利益を大きく上回る好調っぷりである。自分たちを裏切った取引先から徹底的に価格を下げさせて、それを市場価格に転化する。他の取引先もある程度価格を下げるしかなく、大元の利率はむしろ上げる形で高まる需要と共に大きく飛躍した。

 薬品も安定した収益を上げている。此方は其処まで踏み込まず独自路線をひた走る。追従は出来ないし、させない。代わりに自分の『畑』以外には手を出さない。暗黙の了解がすでに確固たるものとして確立されていた。

 リウィウス商会はまさに成熟を迎えようとしている。


 ウィリアムは家路に着く。屋敷からは門をくぐる時点で不穏な音が聞こえていた。ウィリアムは頬をひくつかせる。いる、間違いなくいる。しかも複数人――

「それマリアンネの! マリアンネのなの!」

「うるせー! 俺がガリアスから持ってきたんだ。何で俺がやらなきゃならねーんだ!」

「クロードは弟だよ? 弟はおねえちゃんにしたがうべきなの」

「……そりゃ養子だけどよお。つーかその場合お前おばさんだからな」

「あー! 悪口いった! ゆるさないぞ!」

 取っ組み合いの喧嘩。多くの仕事をこなしてきたウィリアムにとって最大の障壁が立ち塞がっていた。まあこの二人が出会えばこうなることは端からわかっていたことである。ゆえに養子であったが住まう場所は別に設けていたのだ。

「……どういうことだ?」

 三白眼でウィリアムはこそこそと隠れようとするヴィクトーリアを睨んだ。「えへへ」と申し訳なさそうに物陰からこっそり這い出してくるウィリアムの嫁。頭が痛い。

「だって、養子だって言うんだもん。じゃあ一緒に暮らそうってなるよね?」

「養子は養子だが、あくまで形式上の話だ。こいつに身分を与えるのが主眼で――」

「でもでも、折角だから人数は多いほうが楽しいよ」

 そこは存外食い下がってくるヴィクトーリア。そんな中、さらに加熱する二人の輪の外で、ウィリアムがガリアスから買い付けてきた全員がしっかりとご飯を完食していた。何人かは自発的におかわりをするほどである。その辺の図太さはさすが底辺育ちと言ったところ。

「別に一切呼ぶなとは言わん。だが、こいつらを甘やかせる必要はない。今はまだ、満たすべき時じゃないんだ。無闇に与えることはこいつらのためにならんし、俺の思惑からもずれていく。ほどほどにしろ」

 一応この場は認めるが、ほどほどにしろとお達しを聞いてしぶしぶヴィクトーリアは頷いた。やたらめったら愛を振りまくのは悪い癖である。そこで満たされ彼らの貪欲さや生命力が損なわれるのでは本末転倒。何のためにぎらついた者を買い付けたのかわからなくなる。

 ウィリアムが席について食事を取り始めると、さすがのクロードも喧嘩をやめて席に着く。しんと静まり返る居間。そんな中、ちょこちょことマリアンネだけはウィリアムの隣に立っていた。

「マリアンネね、きょうはかけ算をおぼえたよ」

 そう、クロードらという養子の存在がバレたのは、マリアンネが駄々をこねてウィリアムの学校に入学したのが切っ掛けであった。ウィリアムの養子と幾人か知り合いの子弟からなる学級にマリアンネも入り込んだのだ。ベルンバッハの方針は市井の学校には通わせず、家に講師を招きいれるというものであった。それを曲げてマリアンネは我が儘を通したのだ。まあ、ウィリアムの口利きでヴラドから了承を得たのだが――

「偉いな。算術は覚えて損のない技術だ。潰しが利く」

 マリアンネの頭を片手間になでてやりながら、(まあ貴族の令嬢には不要だろうが)と思っていた。そんなこととは露知らず満面の笑みを浮かべるマリアンネ。

 そんな様子を見て、クロードはそっと自分の頭をさすってみる。別に甘えたいわけではない。だが、ちょっとだけ、ほんの少しだけ寂しくなっただけ。ガリアスにいた頃はよく姉代わりの『あの人』に撫でて――

「じゃじゃーん」

 とてつもない速度でクロードに接近、その頭を捕獲して高速で撫で回し始めたのはヴィクトーリアであった。何が起きたのかわからずクロードは目を白黒とさせている。

「この家でそんな顔はさせませーん。ウィリアムの小言は聞こえませーん」

 他の子供たちにも抱きしめたり撫で回したり、その度に寂しさが消えていく。ウィリアムはふるふると震えていた。マリアンネはすでにそばにいない。その辺りの空気は結構読めるのだ。

「さっき俺はなんて言った? ヴィクトーリアァ!」

 落ちる雷。全員抱きしめた後に脱兎の如く逃げるヴィクトーリア。クロードたちはそそくさと自分たちの住処に戻り、マリアンネは帰されないようウィリアムの寝室で一人眠っていた。その夜、どんな仕事よりも疲弊したウィリアムはぐっすり眠りこけるマリアンネを寝室で発見し、それをベルンバッハ邸まで運び終え、再度ベッドまで戻り就寝する段階で永眠の如く熟睡した。

 最近、悪夢を見ない日が続いている。

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