進化するネーデルクス:無敵の退き戦

「俺より強い輩がいる。もちろん限定条件はある。一騎打ち、それに近いシチュエーションだな。まあ、俺は迂闊に突っ込めなくなったわけだ。ってかギルベルトの動きを把握してなきゃ価値のある人材は動かせねえ。俺で駄目ならこの場の全員手も足も出ないわけだしな」

 ヴォルフは椅子にぐでーっともたれかかりながら、自分の部下を見渡した。アナトール、ニーカ、ユリシーズは特別、他も出来れば消費したくはない。かといって『赤』やネーデルクス軍ばかりを消耗させれば角が立つ。

「そもそも条件を揃えなくともギルベルトは俺よりも強い」

「傷有りの女も結構やるぜ。ま、負ける気はしねえけど」

 アナトール、ニーカの弁。そう、敵はあくまで対ネーデルクスにおいて連戦連勝を重ねた猛者揃いなのだ。ベルンハルトが欠けたとしても、その精神的支柱はカールの登場ですでに埋まった。退き戦であればカールの方がベルンハルトよりも上手く捌くだろう。

「士気の高さ、兵の練度も甘くはないであります」

 ユリシーズはシュピルチェで自分を止めて見せた二人組みを思い出す。その凸凹コンビは此処までの敗戦の中でもかなり上手く立ち回っていた。決定打を何度もかわす手並みも見せていたのだ。

「そう、そもそもとして敵軍は人材揃いだ。俺らはそれ以上だけどよ、甘い相手じゃねえのは確かだわな。昨日までは動きに付け入る隙があった。明日からはないと思って動くぞ。相手はアルカディアの若手で二番目の評価、あの若さで王会議に帯同したってのは伊達じゃねえ。気を引き締めろよテメエら」

 応、と叫びが陣幕にこだました。

「気は引き締めていこう。それで、具体的に明日はどう攻める?」

 アナトールがヴォルフに説明を求めた。ヴォルフはあごをさする。

「とりあえずホーエン・シュタットは無視していい。明日の朝にはがら空きになっているだろうし、中に入って死人に喰らいつかれても癪だ」

 ヴォルフは今日の守り方を見て明日には撤退を開始するだろうと読んだ。明日撤退に動いていなければ無利筋を通してでも包囲戦に移行する腹積もりである。カールが加わった以上、援軍を待って共に攻めたほうが効率的とヴォルフは判断した。

 ヴォルフは皆の前に地図を広げた。

「こっから東へちーと行った所に簡易な砦が三つ、どれも敵さんが侵略済みの拠点で何処に逃げ込んでもいい。何処に逃げ込むかは当日の動きを見てりゃ良いが、俺の予想では最短であるこのルートは消していいと思っている」

「最短を消す理由は?」

「このルートはおそらく先に逃がしたであろう怪我人が使っている。今日の戦い方で確信した。あのお坊ちゃんは多くを生かす方向で動いている。そいつらを確実に逃がすためにも他二方向を使うと見ていい。ま、どうでも良いんだがな。当日わかるこった。問題は、こっから本隊が逃げるであろう拠点だ。これらのルートはあらかじめ設定されていると俺は考えている。つまり、事前に各拠点簡易ではあるが、補給はされていると考えた方がいい」

 ヴォルフの言葉に周囲の者が怪訝な顔をした。

「ヴォルフ殿、考えすぎではございませんか? カール・フォン・テイラーがこちらについてまだ一日程度でしょう。王会議の予定から考えてもすぐこちらに動いたはず。そこまでの算段を用意できるとは思えませんが」

 ネーデルクス『赤』の男が意見を述べた。ヴォルフは頷く。

「まず認識として間違えているのは、今考えている補給ってのは今回の撤退戦のために用意されたものじゃない。シュピルチェを攻略した後のために用意していたものだ。どっか途上で止まっていた補給を動かすだけなら難しくない。もちろん指示なしで動かすことは出来ないだろうが、そりゃあ師団長でブラウスタットの頭張ってた男だ。当然出来る」

 アルカディアにはシュピルチェを攻略した後の備えがあった。浮いているそれをカールが利用しようと考えるのは至極当然のこと。武器防具、馬や食料、ホーエン・シュタットで留まっていた時間を考えれば、そこから逆算して補給を一ルートに集めていてもおかしくはない。

「あまりにも早い速攻、おそらくそれほどの用意はされていないだろう。マルスランを討てるかどうかで既に賭けの世界だ。あんだけ条件を整えるのがめんどくさい秘密兵器でやる以上、確実じゃねえわな。補給は微量、ただし本国から追加があるだろうからやっぱ早めに決めておきてえ」

 ヴォルフの読みは当たっていた。カールが動かしていた補給物資は元々用意されていたもので、本国からの追加物資はまだブラウスタットに到達してすらいないのだ。早すぎた速攻の歪が此処にも影響を与えていた。

「とにかく明日は早朝から動く。あっちも夜明けからホーエン・シュタットを抜けるだろう。んで、足止めは今日の戦場で負傷したやつとかになるのかな? ほんとひでー野郎だぜ。だから厄介なんだけどよお」

 ヴォルフは言葉とは裏腹に嬉しそうに笑っていた。元々の契約はマルスランと共同でアルカディア方面を叩くことであった。その場合でもカール・フォン・テイラーと戦うことは出来ただろう。しかしこれほど複雑で面白みのある戦にはなりえなかった。そもそもブラウスタットを落とすなら兵站を断っての持久戦しかない。それはそれで難しいが戦としてはつまらないのだ。

「さーて、どう逃げる? 半端な逃げ方しやがると明日が命日になるぜ」

 ヴォルフは獲物を前に舌なめずりをする狼の如く笑みを深めた。


     ○


 ヴォルフは夜明けのホーエン・シュタットを見ていた。小高く傾斜の緩やかな丘のてっ辺にたたずむ砦は、明かりもなく寝静まっていた。すでに動ける準備の出来ているネーデルクス軍と黒の傭兵団の混合軍はヴォルフの号令を待っていた。

「動きがないぞ。偵察隊から狼煙が上がらない。つまり撤退に向けて動いていないということだ。どうする?」

 ヴォルフの読みでは明け方すぐ撤退に向けての行軍を開始するはずであった。その側面、背後をついて攻め立てる作戦だったのだが、相手の動きがなければ成立しない。

「珍しく読み外したじゃん。今日は砦にひきこもるんじゃねえの?」

 ニーカはなぜか嬉しそうにニヤニヤと笑っていた。その頭をヴォルフがはたいて黙らせる。ヴォルフはしばし眼を瞑り、思考をフル回転させた。読みを大きく外したとは思わない。今日一日引き伸ばしても意味がないのだ。むしろこちらに時間を与えてしまうだけ。

 今、時は金よりも価値がある。それを無為に消耗するだろうか。

「とりあえずホーエン・シュタットの後背を押さえて様子見だ」

 ヴォルフの命令に従い軍が動き出した。どちらにしろ逃げ出す道は押さえなければならない。今までは逃げ出す気配がなかったのであえて塞がなかった。逃げ道を与えねば昨日のように死力でこられる。死力を尽くした相手よりも逃げる背を突いたほうが楽なのだ。それは昨日までの話、今は状況が変わった。そのはずである。

「何の策もねえなら、もうこの時点で半端だぜ」

 ヴォルフの眼に薄い失望が宿る。


     ○


 ヴォルフらがホーエン・シュタットの後背に軍の展開を終えてからかなりの時間が経った。すでに日は天頂に輝き、昼飯時となっている。朝から警戒を続けていたネーデルクス軍は緊張が切れ掛かっており、これ以上厳戒態勢を続けていくのは難しい状況であった。敵に動きがなく、そもそもとしてこちらが優位では集中も続かない。

「簡単にでもメシを食わさんと持たんぞ」

 アナトールの提言は至極もっともな話である。

「もしかして敵の策ってよお、こうやって俺らをやきもきさせるもんじゃねえの?」

 ニーカがふざけて言った言葉もあながち馬鹿には出来ない。現にヴォルフ本人が一番やきもきしているのだ。しかし攻め入るのは難しい。アルカディア側に布陣を敷いた以上、砦としての攻略難度は外壁の充実など逆側より上がっている。

「メシにするか。ただし警戒は解くなよ。さっと食ってさっと戦闘準備だ」

「わかった。現場に伝えてこよう」

 アナトールが各現場担当者に伝えに行く。

「よっしゃメシだぜ。おいチビ助、火おこせ火」

「な、何で自分が小間使いのようなことをやらねばならぬのでありますか」

「そう言いつつ準備するチビ助は良いやつだな。褒めて使わす」

 ニーカとユリシーズのいつもの光景を見て黒の傭兵団の面々が爆笑していた。小柄なユリシーズは団員皆のお気に入りとしてしっかり弄られているのだ。

「乾物で済ませられないか?」

 ヴォルフの問いにニーカは白い目で彼を見る。

「朝から読みを外しまくっている頭が、これ以上縛れば反発買うぜ? それこそあの戦の二の舞だろうが。此処は食わせとけよ。距離もある、攻めてきても間に合うだろ」

 ニーカの提言もまたごもっとも。理性より感情優先のニーカはヴォルフの思考が及ばないところをカバーしている。何だかんだで良いペアであった。

「わかったよ。俺の分も頼むぜユリシーズ飯大将閣下」

「いずれ立派になって団長殿に飯炊きをさせるのが自分の夢であります!」

 半泣きになりながらとてつもない速度で要領よく準備していくさまは、下っ端根性が染み付いていた。レオンヴァーン家の現当主(ユーフェミア)が見たら烈火のごとく怒り狂いそうな光景がそこにあった。


     ○


「カール師団長、そろそろかと思われます」

 ネーデルクスの陣地からか細い煙と陽炎が立ち昇る。この光景をカールは待っていた。本日初めて見せる明確な隙である。もちろん、付け込むには相応の手が必要だろう。しかしそれはすでに打ってある手、あとは――

「よし、全員馬の用意、一気に駆け抜ける!」

 動くだけである。


     ○


 ユリシーズの用意した昼食を食べている最中、ヴォルフの感覚が戦場の動きを捉えた。追ってアナトールが血相を変えてやってくる。その様子を見て黒の傭兵団は一瞬で戦場モードに切り替わった。此処で動いてくるのは想定の範囲内。

「迎撃の準備だ。騎兵は抜かせてやれ。だが、歩兵は蟻一匹通すな」

 ヴォルフの目に感情はなかった。相手の隙をつく良い手である。だが、今の状況では悪手でしかないのだ。逃がしたいはずの兵力、主戦力である歩兵全てを置き去りにしかねない悪手。それが今敢行されている突撃である。

「俺に馬を貸せ。この策を打った阿呆の面を見てくらぁ」

 ヴォルフは単騎動き出す。どういう意図でこの手を打ったのか、それを知りたいと思ったのだ。失望半面、もう半面は――

(俺は、何かを見落としていたか?)

 自分が出し抜かれているという希望である。


 ヴォルフがカールたちの姿を視認したのは、あたふたするこちらの陣を颯爽と駆け抜けていく後姿であった。駆け抜けていく最中、ちらりと振り返ったカールと視線が絡む。

(……良い顔だ。何も読み取れねえ。つまり、何かあるってことだろ?)

 ヴォルフはじっとその背を見つめる。騎兵だけの突破、そこに歩兵の姿はない。全員が騎馬にまたがるのは不可能、歩兵の中には馬に触れたこともない人間もいるだろう。そもそも数が合わない。圧倒的に少ないのだ。

 ヴォルフはホーエン・シュタットを見る。静けさに満ちていた。まるで――

 ヴォルフに追いついてきた黒の傭兵団の面々。

「なあ、アナトールよ。昨日、ホーエン・シュタットの背中を見てたやつはいるか?」

 ネーデルクス軍との折衝を担当しているアナトールは頷く。

「夜はしっかりと見ていたはずだ。明かりを見逃すほどの盲目ではない」

 ヴォルフは頭をかく。その目はやはり静かなるホーエン・シュタットを凝視する。

「昼は? 夕方はどうだ?」

「昼はこちらが跳ね返されたからな。後背を見ていた偵察隊も追い払われたはずだ。再配置が整ったのは……ッ!? 俺は、馬鹿か!」

 アナトールの気づきと同時に傭兵団の幾人かは気づいてしまった。昨日の索敵に抜かりがあったのだ。そのことに思い至らなかったアナトールは自分を恥じた。その情報を自分で止めていたことにも――

「いや、そりゃま余裕が出来たら偵察は追い払うさ。そこで再配置に時間が多少要るのも当たり前のこと。当たり前じゃなかったのはアルカディアの動きだ。こっちがもう一回突っ込めば破綻する作戦。主力たる歩兵を勝ってすぐ、偵察隊を追い払ったその足で退かせて見せたんだ。こっちがわちゃわちゃしている間にな。どんだけ強かな野郎だよ、カール・フォン・テイラー」

 ヴォルフの笑みに歓喜の色が混じっていることに気づかぬものは黒の傭兵団にはいない。好敵手の存在、それがヴォルフの成長を加速させるのだ。

「アナトール、てけとうな奴掴まえてホーエン・シュタットを偵察して来い。数人残って奇襲をかけてくる可能性、火を放ってくる可能性、当然だが主力が全部残って反撃してくる可能性、何通りかは頭に入れておけ。まあ、この読みは外さねえ自信があるぜ」

 ヴォルフは自身の中から湧き出してくる感情を抑えるので手一杯であった。出し抜かれた悔しさはもちろんのこと、好敵手に出会えた歓喜、この戦で自分が成長するであろう期待、そして、この戦はある意味自分が最も勝ちたい相手と根を同じくする将との戦いである。此処でしっかり勝ち切ることが出来れば、個人戦だけではなく集団戦でも引けを取らない証左のひとつとなる。

(単純な比較はできねえけどな。あの男にゃあの男の、カールにはカールの強みもある。でも、やっぱ似てるぜテメエら。人間が違い過ぎるからか? 対極ゆえに似るのかもな)

 勝てるかどうか、暗雲漂う様相を呈してきたことが逆にヴォルフの闘志に火をつけた。ここから始まる地獄のチェイス。昨日、今日と出し抜かれた。主導権は完全にあちらのものである。だからこそ面白い。

 最後に笑うのは自分だという確信は揺るがぬまま――


 ホーエン・シュタットは当然の如くもぬけの殻、残された食料や使える物資の数々が彼らが足を優先した証拠であり、次に到達する拠点への補給が済んでいる証であった。ヴォルフは状況を聞いてぶるりと震える。

 この戦はきっと楽しいものとなる。歯車がかみ合って、双方の限界を高めていくだろうという確信があった。

「さあて、楽しい楽しい鬼ごっこの時間だ」

 ヴォルフの笑みは揺るがない。


     ○


 その日の夕刻にはヴォルフたち黒の傭兵団と騎馬隊が先陣を切って、カールらが逃げ延びたであろう拠点の眼前に陣取っていた。昼時まで引き伸ばして騎兵の足で逃げたにもかかわらず、即断即決での行軍で時のアドバンテージを打ち消した。翌日の昼間にはアナトールが先導する本隊が到着、その足で交戦を開始する。

 進撃するネーデルクス軍と砦で守備をするアルカディア軍の本隊が激突する中、ヴォルフはにやりと微笑んだ。

「へえ、思ったよりも矢の数揃ってんだな。ただ、その割りに密度が薄い。今度は逐次後方へ下がらせているのかねえ? よーし、俺とユリシーズ、アナトールとニーカの二手で後方を攻めるぞ。ギルベルトに気をつけろ。絶対に孤立するなよ!」

 これまた即断即決、馬の足で砦を迂回し後背に攻め入る。ギルベルトとヒルダが守りながら兵を撤退させるも、此処はヴォルフに軍配が上がる。突出し過ぎず、されど攻撃の手は緩めない。上手く攻められ上手く退かれ、アルカディア側は大きく損をすることになった。

「逃げるか! 俺と戦え!」

 ギルベルトの叫びがしっかりと敵を削り撤退していくヴォルフの耳に入った。それを聞いてヴォルフは底意地の悪い笑みを浮かべて振り返る。

「別にいいけど……そしたらたぶんテメエが死ぬぜ?」

 隣でユリシーズが、他の部下たちもギルベルトを睨みつける。ギルベルトは悔しそうに歯噛みする。ヴォルフは絶対に一騎打ちの形を作らない。少なくとも完全に勝てる状況になるまで、遊びの要素を入れることはないだろう。

 ギルベルト対策は簡単である。今日の撤退戦でもヴォルフ自らがある程度突出してギルベルトと交戦、単独で打ち合うと桁外れの集中力を見せるが、ユリシーズの横槍や矢の一本の介入でさえ大きく集中力を落とす要因となることが判明。弱点を丸裸にすることにより怖さが半減した。

「今日は俺の勝ちぃー」

 撤退するヴォルフは削った戦力よりも遥かに価値のある情報を得た。ただし――

「んげ、結構えぐいことになってんな」

 後方に主力を傾けた分、主戦ではカール率いる守備隊が大きく勝ち越していた。今回は撤退する兵が囮、本命は主戦だったのか。そうではないとヴォルフは考える。

「また、してやられた?」

「いや、今日はギリ俺の勝ちだろ。撤退する人数はしっかり間引いたし、カールの本隊は此処で釘付け、撤退は明日以降に持ち越しだ。全体で見れば優位を取ったのは俺。っても囮の主戦で意地の肉薄、楽に勝たせてくれねえなァ」

「敵ながら天晴れでありますな」

 守戦の強さはギルベルトやヒルダを欠いてなお光るものがあった。砦自体こちらのものは至極簡素であり、カールが率いてなければヴォルフは正面突破の戦術を選択していたかもしれない。そこで比較的少数の守備隊を用いての勝利は見事の一言である。

 夜も気を抜けぬ駆け引きが――

「ヴォルフ殿、アルカディア軍が砦を抜け出して移動しております」

「そりゃあ欲張りってなもんだぜ。至急騎兵を集めろ。がっつり叩いてやる」

 ネーデルクスの見張りが撤退する敵影を捉えた。夜間の移動は灯りが必要な以上、昼間よりも目立ってしまう。追うは易し、さすがにヴォルフをなめ過ぎている。

「ただ、各部隊が散開して移動しているようで、どれがカールなのかはわかりかねます」

「関係ねーだろ。適当に叩いて運がよければカール、悪ければ戦力が減らせる。どう転んでも俺たちの得じゃねえか」

「確かに。どうする、ヴォルフ?」

 ヴォルフは少し考え込む。夜間の移動に関するリスクをカールが承知していないとは思えない。それを承知した上で多くを生かせると踏み、散開して移動。少し無理があるのではないだろうか。とはいえ傍観して見逃すのは愚の骨頂。

「当然追う。ってもそこまで深追いはなしだ。軽く圧力かけて退こう」

 ヴォルフにしては消極的な判断。しかしそこに口を挟むものはいない。それだけの相手なのだ。ただ突っ込んでいけば容易く料理されてしまう。

 その判断は間違っていなかった。しかし――

「こ、んの、ほんっと底意地わりいなおい!」

 甘かった。各部隊が明かりを持たせて移動しているのではなく、途中から囮の一人が明かりを持ち移動、夜闇に紛れ隠れ潜んでいた他の仲間がヴォルフら騎兵の明かりめがけて矢を放つ。夜の移動は逃げの一手ではなく攻めの一手であったのだ。

「くそ、どっから矢が降って来るんだよ。何も見えねえぞ」

 盾を天に構える者たちが右往左往する。こうなってしまえば力押しではどうにもならない。力で押す相手が視認できないのだ。それでもヴォルフは上手く立ち回り囮と待ち伏せ両方を平らげるも、全体では大きく損失をこうむった。

「撤退だ。撤退!」

 ヴォルフらが策にハマり撤退していくのは尻目に、悠々と東へ進んでいく明かりをネーデルクス側は憎憎しげに見つめていた。完全な作戦負けである。そしてこの一手で本日の優位はまたしてもアルカディアに傾いたのであった。

「……してやられたな」

「明日はぜってえ勝つからな」

「たぶん接敵しないと思うぞ、明日は」

 カールの退き戦、その手札の多さは経験の多さである。あらゆる手を使い功を上げていた十人隊、百人隊当時の経験が此処で生きていた。それをヴォルフは一身に受けることになったのだ。

 窮地でこそ光る底力、ヴォルフの顔から少しずつ笑みが消え始めていた。

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