幕間:ウィリアム対ヴィクトーリア

 ウィリアムらは長い旅を経てアルカスに戻ってきた。語り尽くせぬほどの経験と喪失、それらが血と成り、肉と成り、新たなる道を照らす『光』と化す。だが、それは決して良い方向に転ぶとは限らない。

 巨大な『光』は同じく強烈な『闇』を生む。相反するモノは共存できない。何かを得て、何かを失う。何かを得るために、何かを捨てる。わかっていたことである。わかっていたのに、男は眼をそらし続けてきた。

「……最初にやるべきこと、か」

 うっすらと輝く『光』に向けて踏み出すと決めた以上、共存できないモノは切り捨てる必要がある。先頭を歩く者、人を導く者はただ一人であり、人は皆例外なく彼の背に引っ張られなければならない。

 つまり、孤高と愛は共存不可能だと言うこと。


     ○


 少し時は遡り、『彼女』の墓前から離れた後の事――

「あんた、国に好い人はいるのかい?」

 相も変わらず着崩すべきでない服を着崩し倒したシスターは煙をぷかぷか、ずかずかと大股でウィリアムの前を歩いていた。ふと、何を思ったのか妙な質問を吐き出したのだが、意図は不明瞭。誰もいない裏通り、嘘をつく必要も無いとウィリアムも口を開く。

「……婚約者はいる。人様にお見せできるような上等なもんじゃないがな」

「ほーん。不細工かい?」

「顔立ちは良い方だ。口を開かなければ美人だろう」

「愛嬌は?」

「それだけで生存しているようなものだ。それしか取り柄がない。つまり馬鹿だ」

「……ふーん。なるほどねえ」

 こりゃ参ったとばかりに額に手を当て苦笑するシスター。

「ガリアスで流行りの心理テストでもどうだい? 暇つぶしにさ」

「いきなりだな。まあ、表通りに出る間なら」

「好みの女性を思い浮かべて見な。この場合は性格だね」

「……ふむ」

 ウィリアムはふわふわと思い浮かべる。最初はおぼろげな姉の残滓であったが、次第に形を変えて読書をする己と隣で裁縫をする女性が出て――

(ああ、確かに彼女との距離感が一番――)

 ドーン。とその風景を吹き飛ばしニコニコと笑顔で詰め寄る幻影が――

(……悪夢か?)

 にこにこ、ニコニコ、ずんずん増殖していく締まりのない顔。

「じゃあ次さね。同じ質問で、今度は外見さ。さて、何が浮かんでくる?」

 ウィリアムは気を取り直して想像する。この質問は容易い。姉、と言いたいところだが外見だけで見るなら答えは一つ、思い浮かべるは太陽の王女、彼女と比肩する相手であれば姉も候補に入って来るが、ウィリアムの個人的な好みを問えばやはり妹の――

 ドドン。またも増殖を開始する笑顔の花。貴族の令嬢が歯を見せて笑うな、と叫び出したくなるほどの間抜け面。教育をすべきだとウィリアムは憤慨する。

「どっちも同じ人物だったかい?」

「ッ!?」

 びくりとするウィリアム。ガリアス式心理テストの恐ろしさを噛み締める。ただ質問するだけで相手の考えていることが読めるとは――何と恐ろしい技術であろうか。

「あんたさ、人の悪口ってあんまり言わないだろ?」

「……思うことは多々ある。口に出すか出さないかの違いだけだ」

「その二つはね、あんたが思うよりもずっと大きな違いがあるのさ。ちなみにガリアスで心理テストが流行ってるなんてデマだからね。流行ったのはあたしが処女だった時だから……あ? 何十年前だ? 酒とパイプやってた記憶しか――」

「……結局、何が言いたいんだ?」

「あばたもえくぼってね。その質問でどっちも同じ人物が浮かんできた場合、まあ、大分イカれちまってるって話さね。大事にしなよ、その人はあんたの、欠けちゃならない本当に大事な、特別な人だろうからさ」

 ウィリアムは立ち止まった。彼女の話を笑い飛ばしたい己がいた。うるさいから印象に残っているだけで、本当はそうじゃないと言い訳しようと口を開くも、いつの間にか乾いていた腔内、上手く発声が出来ない。

「何だい立ち止まって、変な、顔を――」

 シスター・アンヌはぽろりとパイプを落としてしまった。目の前の男が浮かべる表情。それがあまりにも痛々しく、凄絶なものであったから。

「気にしないでくれ。問題ない」

 問題無いと言った男の表情はやはり変わらずに――

「……どんな人間だって幸せになる権利はある。奴隷も、王様も、変わらないよ。勘違いしちゃいけない。あんたがどれだけ徹したって、例外や妥協は必ず出てくる。それが人間さ。そうじゃなきゃ人間じゃない。いいかい、あんたは十分に――」

「ありがとうシスター。大丈夫だ。俺は、幸せになるよ」

 彼女の言葉を遮ってウィリアムは感謝の言葉を告げた。断ち切るかのように、彼は鉄の微笑みを張り付けている。どんな言葉も届かない。どんな熱情も届かない。光すら歩みを止める絶対零度の仮面。

 その眼は語る。ならば、人間をやめよう、と。


 そんなちょっとした、他愛のない記憶。その一ページ。


     ○


 ウィリアムは子供らをいったんユリアンに預けさせて、自らは自宅のほうに向かう。移動日数を含めたならば一ヶ月近く留守にした我が家。どうせベルンバッハの家人が好き放題荒らしているに違いないとタカをくくっていた。

「帰ったぞ」

 ドアノッカーを軽く三度打ちつける。三度目が鳴った瞬間、扉が開いてその隙間から見えたのは目をきらきらさせた女性。ウィリアムはすぐさま眼を背けた。

「おかえりなさい、ウィリアム」

 はにかむ姿は万人の目に魅力的に映るだろう。

 ヴィクトーリア・フォン・ベルンバッハが後ろ手を組みながら現れた。ウィリアムは短く「ただいま戻った」と言葉を漏らす。冷たい反応にもヴィクトーリアはめげない。ニコニコと笑顔を揺らがせずウィリアムを見つめるのだ。

「ヴィクトーリアお手製のご飯があるのです。出来立てだよ」

 手際よくマントなどを取り外しながらヴィクトーリアは言った。なぜかヴィクトーリアの手には手袋が纏われていたがウィリアムは特に気にしない。

「……食べ物は無駄にできんからな」

 ヴィクトーリアはそれを食べるという反応と取り、急いで支度に向かった。ウィリアムは居間でゆっくり待つだけである。ウィリアムの帰宅を告知していない以上、出来立てのご飯があるわけが無い。つまりは今から猛スピードで作り始めるのだろう。

 特に急ぎの用も無いのでこの茶番に付き合うことにしたウィリアム。まあヴィクトーリアは料理を披露したい、ウィリアムは空き時間に本を読みたい。一応思惑は合致している。

 それに、少し話したいこともあるのだ。少々込み入った話になる。場合によってはまたも家出される可能性もあるだろう。そうであればまだありがたいのだが――

「とりあえず本でも読むか。ガリアスでは読書の時間もろくに取れなかったからな」

 御者にガリアスで購入した本の山を運ばせて、それを手に取り本の世界に埋もれる。

 しばしの至福の時であった。


     ○


 料理が運ばれてきたのは三十分ほど経った後であった。ヴィクトーリアは額に汗を浮かべながら、さも先んじて作ってあったものを配膳しているように振舞っていた。その意地の張り方が子供じみているところが、ウィリアムとしては――

「……食事のときも外さないのか、それ」

 ウィリアムはヴィクトーリアがしている手袋のことをとがめる。ヴィクトーリアは「おしゃれだから」の一点張りで乗り切ったつもりになっていた。

 正直に言うとウィリアムはこの部屋に入った時点で状況を解していた。この部屋にあるはずの無いものが随所に落ちている。一本、二本なら服からこぼれた程度であろうが、この数では偶然というのには少し苦しい。何よりもヴィクトーリアは日々の家事に手を抜く性質ではない。意外に真面目な性格なのだ。

(掃除をしてなお残った糸くず。俺がいなければ開ける必要の無い外套の収納スペースから、布が挟まって飛び出している。弄ったってことだろう。そして不自然な手袋)

 無駄な推理力を発揮して状況を察する。何よりも不自然な笑みですぐにわかってしまうのだ。そのことにウィリアムは驚きを隠せない。会った瞬間、顔を見て隠し事があるのがわかった。そのことが――

「ヴィクトーリア」

 ウィリアムが声をかけると、ヴィクトーリアはびくりとして顔を上げる。手袋のことを突っ込まれると思っているのか、それともいつもなら軽い憎まれ口が飛んで来るのでそれに対する条件反射か、そんなことはどうでもいい。いつもは此処から憎まれ口、そしてヴィクトーリアの苦笑からの前向きな返事。わかりきっている。そんな当たり前が――

「うまいな、これ」

 崩れる。ヴィクトーリアは大きく目を広げた。ウィリアムは無表情で食べ進める。

「え、と……そ、そうかな? ちょ、ちょっとだけ自信があったんだけど、えへへ」

 ほめられた事に対する笑みが、本当に底抜けに明るくて、その明るさに目が焼かれてしまう。心が侵食される。光へと――

 食事中終始ニコニコしているヴィクトーリアを尻目に、ウィリアムはしっかりとすべて平らげて食事を終えた。片付けようとするヴィクトーリアを見るウィリアム。

「話がある。大事な話だ。時間、あるか?」

 その言葉にヴィクトーリアの笑顔が凍った。陰る表情は何を察したのか。背中からは何も読み取ることはできない。

「えへへ、暇なの知ってるくせに……いいよ、時間は、いっぱいあるから」

「ありがとう、ヴィクトーリア」

 互いの表情を互いが知ることはない。向かい合わせの二人。振り向かず、ヴィクトーリアは片付けに赴いた。ウィリアムは本を広げる。その顔は――


     ○


 ウィリアムとヴィクトーリアが向かい合っていた。同居している身だが、このようなシチュエーションは珍しい。ウィリアムは本を閉じる。ヴィクトーリアはこわごわと肩を抱いた。まるで何かを断罪されるかのような所作。

「そう気負うな。少し、聞きたいことがあるだけだ」

 ヴィクトーリアがウィリアムに視線を合わせる。おそるおそると。

「俺はこの世界の諸々にはすべて理由があると思っている。それを解した上で理論に沿って動けば必ず答えにたどり着く、それが俺の考え方で、それが俺の生き方だ」

 ウィリアムの纏う雰囲気は普段よりもさらに静けさを感じるものであった。ヴィクトーリアがこわごわしているのとは対極、まったく異なり、そしてある意味で等しい。

「その俺が、今一番理解に苦しむのがお前だ、ヴィクトーリア」

 その言葉に、ヴィクトーリアは驚きの目を向ける。肩のこわばりは消える。

「何故、俺なんだ? 何故、此処まで尽くす? 俺はお前に何も与えていない。あの会場で命を救った? そんなつもりがないのはお前だって理解しているはずだ。お前はそこまで馬鹿ではない。ベルンバッハのためならば理解できる。もしそうであったならば、俺はお前を愛せる自信がある。そう、聞きたいのは、お前の理屈だ。俺の理解できる、な」

 ウィリアムは言い訳を先回りする。この同居が始まってかなりの月日が経った。留守にしがちだったとはいえ、個人同士此処まで踏み込んだ関係は初めてのこと。テイラー家には分別があった。この女にはそれが無い。だからこそ、ウィリアムも踏み込む。

「それは愛じゃないよ。私は、その愛を求めていない」

 そうであって欲しかった理解が崩れる。ウィリアムの内心がそよぐ。

「ならば教えてくれ。お互い、腹の内を見せ合おう」

「ウィリアムも見せてくれるの?」

 ぞくりとした感覚。ヴィクトーリアの視線が刺さる。ウィリアムは内心「なるほど」とつぶやいた。ウィリアムが理解できる中身を渇望しているように、ヴィクトーリアもまたウィリアムの中身を渇望していたのだ。その渇きが、また一歩ウィリアムの胸に踏み込む。

「ああ、見せてやるさ。君が見せてくれたならば」

 ヴィクトーリアが苦笑する。

「ずっこいなあ。いっつも後出しばかり。いいよ、でも絶対見せてもらうからね」

 ウィリアムもまた苦笑した。誤魔化せていたと思っていたが、相手はそこまでの馬鹿ではなかったらしい。

「ウィリアムと初めて会ったのは舞踏会だった。助けてもらって、すごいかっこいいヒトがいるなあって思ったのは本当のこと。だって、あんなの見せられたら誰だって蕩けちゃうよ。ウィリアムの想像の倍くらいはかっこよかったんだから。あの後舞踏会に参加していた女の子がみーんな顔真っ赤になっていたんだよ」

 あまりにも浅い回答。まあ入り口などそんなものかとウィリアムも納得する。

「でもね、私はあの時かっこいいと同時に、もうひとつ深い印象を抱いたの」

 ウィリアムの眉が軽くはねる。

「何でかな、すごくさびしそうに見えたんだ。笑っているのに笑っていない、仮面の下の素顔が見えない。素顔のはずなのに、仮面みたいで。誰も寄せ付けないものを感じたの」

 ウィリアムは言葉を発しない。ただ静聴のみに徹する。

「すごく昔に、お母様がいなくなったとき、ベルンバッハのみんなが失った。特にお父様はひどかった。心に大きな空洞があって、それを埋めようとあがいていた。気づいたら狂っていて、お姉さまたちを……色んな人を巻き込んで――」

 ウィリアムは驚いていた。テレージアやヴィルヘルミーナら年長の姉たちならいざ知らず、ヴィクトーリアがそのことを知っているとは思わなかったのだ。

「その空洞を貴方も持っていた。それが目を引いたんだ、すごくすごく大きな空洞、お父様や私たちよりもずっと大きながらんどう。なのに貴方は狂っていなかった」

 ウィリアムは内心で馬鹿にしていた。自分が狂っていなければいったい誰が狂っているというのだろうか。ヴラドとはスケールが違いすぎるから比較にならぬだけ。誰よりも己は狂っているという自負がある。そうでなければ報われまい。足元に積み上げた業たちが。

「それが、かわいそうって思ったのかな、えへへ」

「かわいそう、だと?」

 此処にきてウィリアムはとうとう口を開いた。まさかこの己が、白騎士ウィリアム・フォン・リウィウスがかわいそうなどと、そう思われていたことに対する嫌悪が口に出る。

「うん、だって辛いでしょ? 逃げられないの。狂って狂って、前後もわからなくなって、そうしたらすごく楽になれるんだと思う。お父様がそうだった。でも、貴方は違う。どんなことがあったのかわからない。けど、喪失に真正面から向き合って、色んなものを背負って、それでも逃げずに邁進している。それが目的になっちゃうほどに。なんとなく、だけどね」

 ウィリアムの塔、その頂点に立つ男が揺れた。王は足元を見る。それは忘れ難き業の群れ、己が犯した罪の集合体。

「貴方は優しい人なんだと思う。どれだけからっぽが辛くても、貴方はその代替を求めない。きっと、貴方は最後まで狂わない。それはすごく辛いことだと思うから」

 それらが指し示す道こそ我が王道。しかしてそれは己が願いなのか。そもそも自分の願いとは何か。姉を失った。そこから狂ったのだ。すべてを欲し、すべてを奪い、そして今がある。実の両親のように接してくれた本屋夫婦、ルシタニアから夢を抱きやってきた少年、それを追ってアルカディアにやってきた少女をも断った。

 己の何処に優しさがあるというのか。狂っていないといえるのか。

「お前は俺を何もわかっていない。俺が今までどれほどの、罪を犯してきたか」

「でも、そのすべてを貴方は覚えているでしょ?」

 ウィリアムは口ごもる。どうして忘れられるだろうか。自らの足元に蠢く彼らを。

「貴方は優しくて弱い。でも強くあろうとしている。そこが好き。貴方と会って、話して、一緒に暮らして、もっと好きになった。貴方の生き方は綺麗よ、私はそう思う」

 自分が他者に与えている印象は、真逆なものであるはずなのだ。冷酷にして残酷、情に薄く利に敏い。優しさも、情も、見せたことなど無い。

「忘れたほうが楽、溺れたほうが楽、私やエルネスタ、マリアンネと気楽に、気ままに生きて、子供を生んで、好きなことをして、愛にあふれて……そんな自分が許せない。そんな道はないと、貴方は断じると思う。でも普通の人ならそれが当たり前なんだよ? みんな折り合いをつけて生きているんだよ? それができない不器用な、優しい貴方が好き。そんな貴方の、唯一の例外に私はなりたい。貴方のがらんどうを満たしたい」

 ウィリアムの胸に何かが満たされていく。侵してはならぬ領域、渇きが癒えていくのを感じる。ウィリアムの鼓動が早鐘のように打ち鳴らされる。ここに立ち入ることをウィリアムは許さない。このままでは己が崩壊してしまう。

「俺はお前を拒絶する。お前は俺を弱くする」

「うん、知ってる。でも、やめない。拒絶されても、私は踏み込む」

「取り返しのつかないことになるぞ。その前に立ち去れ。お前ほどの女が、こんな俺を選ぶべきじゃない。あの善良なるレオデガーでいいじゃないか。彼は好青年だ。きっと君を幸せにする」

「そうしたら貴方は不幸になる。不幸な道を突き進む」

「俺の勝手だ。貴様には関係が無い」

「あるよ。だって私は貴方が好きだもの。貴方を不幸にしたくない」

「何故俺なんだ!? いい加減に分かれよ! 俺はお前を――」

「理由なんてどうでもいいよ。私は私が一番好きだったお母様を、何で好きになったのか覚えていない。貴方は覚えている? 貴方が失ったであろう、大切な人を好きになった理由。それと、おんなじ」

 ウィリアムの頬をそっとなでるヴィクトーリア。その指先の温かさに、ウィリアムは姉の姿を見た。それは遠くの幻想、手の届かない、手を伸ばしてはならない黄金の時代。

「わからないんだ。思い出せないんだよ。俺は何で、姉さんを好きになったんだ?」

 ヴィクトーリアが身を寄せる。ウィリアムは抵抗をしなかった。

 二つが重なる。ほんの一瞬の邂逅、そして別れ。

「ごめんね。私はそれを知らない。理由が在るのか無いのかも知らない。でも、私は貴方が好き。もう、どうしようもないほど、貴方のことが好きになっちゃった。離れられないよ、そうしたらきっと、私はがらんどうに飲み込まれちゃうから。私は貴方の優しさも、弱さも、強くあろうとする意思も持っていないから」

 ウィリアムはヴィクトーリアの目を見た。その瞳に宿る決意の重さを知る。

「前に喧嘩した時、ちょっとだけ離れてたけど……それだけで私すごく苦しくて、嗚呼、もう駄目なんだなって、そう思ったの。えへへ、これは、理由にならないかな」

 ヴィクトーリアがはにかむ。そのはかなき笑みを、そこに宿る愛という名の最強の矛はウィリアムを完全に貫いていた。きっと、とうの昔に、それは刺さっていたのだろう。

「いや、いい。参ったな。納得しちゃいけないんだろうが、くく、俺も手遅れか。わかっちゃいたが、ずいぶん間抜けだぜ、ほんとによ」

 ウィリアムはとうとう折れた。がらんどうを守る鉄の意思が砕かれた。決壊するがらんどう。満たされていく胸のうち。これほど暖かく満たされる感覚を、『ウィリアム』は経験したことが無い。その経験は名を得る前、名を失う前、奴隷であった時代まで遡らねばなかったもの。名も無き獣は、とうとう敗北を認めてしまった。

「俺の負けだ、ヴィクトーリア・フォン・ベルンバッハ。どうやっても俺はお前に勝てそうにない。どんな言葉も、お前を諦めさせることはできないだろう。お前の勝ちだ」

 ウィリアムは髪をかきあげる。そして、なんとも複雑な表情で、喜色も、嫌悪も、悲哀も、絶望も、ない交ぜになった表情でヴィクトーリアを直視した。

「俺は、どうやらお前のことが好きらしい」

 ウィリアムの言葉に、ヴィクトーリアは言葉を発することもできずに笑みをこぼす。いつもより控えめに、されどその笑みは普段のそうせねばならぬという笑みよりも、よほど自然で、格別に美しかった。

「俺がお前を愛するということの意味、わからないほど馬鹿じゃないな?」

「うん、なんとなくだけど、わかるよ」

 今度はウィリアムの手が伸びる。その柔らかな頬に手を添えて――

「お前は愚かだ。どうしようもなく、な」

 ゆっくりと重ねる。緩やかで暖かな時の流れ。

「これが俺の胸の内だ。出してやったぞ馬鹿女」

 ゆっくりと別れていく。

「うれしい。すごく、すごく、うれしい」

 ウィリアムは天を仰ぐ。これで賽は投げられた。運命は決したのだ。

「結婚はしない。まだ時ではないからな。それに俺も今はお前にかまけている余裕はないだろう。この一年、加速する世界で俺がどれだけ上がれるか、それを見極めねば」

 ヴィクトーリアはこくりと頷く。そもそも結婚という儀式的なものを彼女はそれほど求めていないだろう。ヴィクトーリア・フォン・ベルンバッハとはとことん感性でものを考えているのだ。ゆえに無学ながら白の獣の本質を見抜いた。そして白騎士ではなく獣を愛するに至った。それは幸か不幸か――

「わかってる。お仕事がんばってね」

「ああ、お前も下手くそなりに、裁縫でもがんばってろ」

 ヴィクトーリアはとっさに手をかばった。

「な、何で知ってるの?」

 その様子を見てウィリアムは「くっく」と笑う。

「俺にわからないことはないんだよ。こう見えて秀才なんでね」

 その反応が癇に障ったのかヴィクトーリアが「むー」とむくれた。それを見てさらに笑みを深めるウィリアム。ひとしきり笑った後、ごほんと咳払いしてヴィクトーリアに向き直った。

「一、二日ほど家を空けるぞ。商会と王宮に顔を出す必要がある。双方で色々と山積している問題があるだろうからな。それを捌き終わるまで、留守は任せる」

「任せて。留守番はすごく得意なの」

 留守番に得意も不得意もないと思うが、そこには突っ込まないウィリアム。突っ込んで欲しそうにしている顔を見ると突っ込む気も失せるのだ。

 外出の準備に取り掛かるウィリアム。それをサポートするヴィクトーリア。見た目だけならばただの夫婦に見えてもおかしくはない。その中身を、余人がうかがい知ることはないであろうが。

 とにもかくにも賽は投げられた。運命は決したのだ。女は愛を注ぎ、男は愛を受け入れた。されど覇道を往くはただ一人、孤独なる道の果てにこそ、それは存在する。

 塔が揺らぐ。その頂点で白の王は哀しき眼で世界を睥睨していた。

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