ゴールドラッシュ:闇の寵愛
北方にて静かに散る火花。武人もかくやという体力で北へ南へ西へ東へと動く両雄。劣勢なる若き挑戦者。優勢とはいえ手を抜く気配を微塵も見せぬ王者。商の王道たる蛇の道を往く。
「この程度かい。そうであったならば……無駄な寄り道だったね」
商の怪物、装飾界隈の王者たるローランは息子のいるであろう地平を見る。足元に輝く白き絨毯にぽつぽつと真紅が垂れる。王者の時はあとわずか。
「これでは彼に利用されるだけで終わってしまうよ、アインハルト」
咳き込み、ぬぐった端からこびりつく命の残滓。時よ止まれ――まだ、早い。
若き挑戦者は同じ道では勝てぬと悟った。それにこれは自分が否定しようとした道。これでは意味がないのだ。この道を否定し勝ってこそ、自分はあの男を否定できる。
「……すまんウィリアム。勝つために、負担をかけるぞ」
裏取引を知る由もないアインハルトは一通の書をしたためた。この戦略はずっと考えてきた。しかし使うには仲間に負担をかけすぎる。アインハルトにはその負担を背負える力はなかった。ウィリアムにその力があるか、賭けるしかない。
「資料は揃えた。……往くか」
アインハルトは雪原に足を踏み込む。ここからは、本当の、寄り道をした、ふらふらと横道にそれた、其処で得た今の自分をぶつける戦いである。
○
ウィリアムの下に一通の手紙が届いた。差出人を見てウィリアムは興味深そうに中身を覗く。そこに書かれていた内容は――
「あんにゃろう……本気で勝つ気かよ」
ウィリアムの想定を超えていた。ローランと競り合い負ける。負けても問題のない下地は整っている。もちろんそれをアインハルトに伝えていなかった己の落ち度。
「く、くく、いいぜ、好きにやってみろ。言われずともやるだろうがな」
磐石が揺らいだ。だが、それはウィリアムにとって面白い揺らぎ方であった。想定の範囲外、急に降って湧いたものではない。既知のものが自身の想定を超えてきた。今のウィリアム・リウィウスを超えてきたのだ。
「あー、にいちゃん悪い顔してる!」
懲りずに遊びに来ていたマリアンネがウィリアムの顔を指差す。
「俺は悪いやつなんだよちびすけ」
「あ、またちびって言った! マリアンネはマリアンネって名前なんだよ!」
「わかったよちび」
誤魔化すように頭を撫で回すウィリアム。こなれたものである。
「急用が出来た。今日、明日は屋敷を空けることになる。マリアンネを送るついでにそっちの家に戻っておけ」
ウィリアムはマリアンネの声を聞きつけて様子を見に来た、ヴィクトーリアに声をかけた。
「わかった。気をつけてねウィリアム」
素直に頷くヴィクトーリア。「えー、今日あそぼうって言ったのに」と不貞腐れるマリアンネにウィリアムは「また今度な」と言ってやった。不貞腐れたままだと後々面倒くさいのだ。結構根に持つのがマリアンネという少女であった。
○
「金を集める!」
商会に現れたウィリアムは開口一番言い放った。ディートヴァルトを初めとする三名は、当たり前のことを大声で言い放った自分たちの代表を不安げな表情で見つめていた。最近の忙しさのあまりとうとう壊れたのかと心配してしまったのだ。
「……正気だ。今日アインハルトから手紙が届いた。各自これを見て欲しい」
ウィリアムはアインハルトからの手紙をディートヴァルトに手渡した。その横でこっそり覗き見るヴィーラントとジギスヴァルト。三名の目が大きく見開かれた。
「要約すると……金の叩き合いじゃ勝てない。別のところで付加価値をつける必要がある。そこで我がリウィウス商会が鉱山の所有者となった場合――」
「現地に原料立地型の製鉄所を設置する……ってこれは何の冗談だよ?」
ヴィーラントは頭を力いっぱい掻き毟る。彼らは武器商人である。これがいったいどれほど難しいことか、どれだけ困難なことか重々承知しているのだ。
「北方は精錬には向かない。確かに強固な地盤と水利は確保出来るでしょう。水は冬季のことを考えるならば多少工夫が必要と思いますが。しかし、気候だけはどうしようもない。安定した気候の確保だけは……あそこが北方である以上得難いものです」
ジギスヴァルトは首を振る。不可能と言う言葉こそ放たなかったが、可能であるというニュアンスはその言葉には含まれていなかった。
「しかし技術的には可能と書かれておる。これは信ずるに値するか否か。とりあえず確信に至るための資料を待つしかあるまい。今は動けぬよ」
アインハルトは詳細な資料をこちらに送ってきていなかった。取り急ぎ手紙だけ送ってきたのだろう。資料の到着を待ってから動くこと――
「それでは遅過ぎる。動くなら今すぐ、動かぬならば至急アインハルトを止める必要があるだろう」
ウィリアムは待つという選択肢を切り捨てた。ディートヴァルトは「ううむ」と唸る。
「製鉄所の設置となれば莫大な、それこそちょっとした都市を作る金が要る。今のわしらにそれだけを捻出する力はない。我ら全ての資産を集めたところですずめの涙よ」
ディートヴァルトはやるべきでないと首を振った。二人の若手も追従する。
「だが、このままでは全てローランに、他の商会に喰われてしまうぞ」
ウィリアムは彼らにローランとの密約を伝えていなかった。彼ら三人を信じていないわけではないが、うっかり誰かがこぼせばすべて水泡と化す案件である。最後まで伝える必要はない。ローランの死と共に密約の事実もまた消え去るのだから。
「あてはあるのか? やるとなったら、我らも全力を賭す。だが、あてのない戦いは出来ない。勝算がない商いをするほど、俺は商人として落ちぶれちゃいないぞ」
ヴィーラントはウィリアムの目を覗き込む。そこにある自信が如何ほどのものであるかを測っているのだ。彼は情理で金を取ってくるタイプの商人であり、人の感情を推し量ることにかけては尋常ならざるセンスを持っていた。
「あてがないわけではない。難しい戦いになるだろうが」
その男が彼の眼を、言葉を聞き――
「ならやろう」
即決する。ヴィーラントは鼻息荒く立ち上がった。その勢いにウィリアムでさえ驚いてしまう。
「この勝負に勝てば我々は大きく飛躍する。勝ちさえすれば、市場は一新するだろう。我々が市場の価格を操作し、我々が市場を先行する。つまりは市場の支配だ。商売は巡り合わせ、巡り合った機会をどう生かすかが商人の腕。やってやろう。ウィリアムもやる気なんだろ? 天下の白騎士様が負けっぱなしで良い訳がないものな」
ヴィーラントの言葉にウィリアムは苦笑する。言おうと思っていたことが全て言われた形。負けても大丈夫な形を作った。だがそれはアインハルトの自尊心を大きく傷つけることになるだろう。ローランにとっても不本意な末期となる。そしてウィリアムにとっても、己の陣営が負けたというのにローランの死によって命を拾った幸運な男、されど敗者としての名が残る。
「若造が生意気な口を叩きよって。よかろう。このまま負けるはわしも承服できん」
「生か死か、腹をくくればこれほど面白い状況もないでしょう」
腹をくくれば肝の太い男たち。むしろ勝負を楽しもうとする雰囲気すら出てきた。この空気感を自らが言葉を発する前に作り上げられたのだ。代表としては商売あがったりである。
「では戦といこう。各自出来うる限りの金をかき集めて来い。多少無茶なやり方でも構わん。とにかく今、現物を手に入れて来い!」
ウィリアムの号令と共に動き出すリウィウス商会。傘下であるロイエンタール商会、アーベル商会、ゲーリング商会もまた始動した。やるべきことはひとつ――
金をかき集めることである。
○
ウィリアムはいきなり闇に潜った。おそらくウィリアムの持つカードの中で最も大金を、しかも見えにくい金を所持している集合体、それが闇の王国である。ここからいくら引き出せるか、それによって今後の進路が大きく変化する。
「ご無沙汰している、ニュクス」
ウィリアムの目の前には亡き姉の姿をした怪物が横たわっていた。その怪物は退屈そうな目でウィリアムを覗いた。そしていきなりすねた顔をする。
「久方ぶりじゃのう。最後に会ったのはいつじゃろうか……十年前? 百年前かの? 用向きがなくばわしに会おうとも思わぬのじゃろうなぁ。さびしいことじゃて」
いきなりの愚痴。ウィリアムはどう答えるべきか思案する。
その思案の途中に――
「ほれ、用向きを申してみよ。どうせ用向きがあってここへきたのじゃろう? ささっと申すが良い。わしの答えはとうに決まっておる」
ニュクスは先へ進めと促した。
「金を貸してほしい。条件は――」
「断る」
即断即決。ウィリアムの顔が歪む。条件すら話す前に断られたのだ。
「条件を聞いて欲しい。そうすれば双方にメリットがあると」
「わしは断るというておる。メリット、デメリットなぞどうでもよい。気乗りせん、ただそれだけのことよ。用向きはそれだけか? であれば帰ってよいぞ」
ウィリアムとニュクスの関係は良好であったはず。それがなぜ今こうも崩れているのか。
「理由をお聞かせください。でなければ納得が出来ない」
ニュクスはつまらなそうにウィリアムを見る。
「わしの意に背いた。あの夜、小娘一人のために矜持を曲げた男がおったじゃろ? わしが友好を結ぶは王者の道を歩むものよ。ぬしのような半端者ではない」
ニュクスの視線の冷たさが、ことの深刻さを暗示していた。ウィリアムの背に汗が伝う。あの夜のことであれば弁解の余地はない。あれは暴走、しかも女一人に道を曲げられた。確かにニュクスの意に背いた行動であった自覚はある。白龍も助言をしてくれた。
「確かにあの夜のことは弁解の余地がございません。しかし――」
「あの女……ぬしに殺せるか?」
ウィリアムは自分が今どういった表情をしているのかわからなかった。ニュクスの目が細まる。
「……容易だ。いつでも殺せるさ」
「なら殺せ。今日中に、すみやかに殺せ」
ウィリアムは自分の震えを自覚した。「わかった、殺す」そう言えばいいだけのこと。嫌いな相手だ。殺すことなど簡単に出来る。ましてや仇の娘、容易いのだ。赤子の手をひねるよりも容易い。
「り、理由がない」
こぼした言葉にウィリアム自身愕然とする。ニュクスはゆらりと立ち上がり、すべるようにウィリアムの前に足を向けた。冷たさがウィリアムを覆う。怒気が、伝わる。
「わしのご機嫌取りが、理由にならんと申すか。このわしの命が理由にならぬと申すか。小娘の命ひとつ、己が磐石を崩す可能性、除く事を理由にならんと申すか」
ニュクスの言葉が耳朶を打つ。一言一言に殺気がこもっている。失望が絶望に変わり、ウィリアムを侵していく。死が、伝わってくる。
「随分と入れ込んでおるようじゃのう? 女は男を堕落させる。数多の英雄が色香に溺れ道を誤った。ぬしもそうなるか? 手始めにわしを怒らせて……ひとつの道を潰すか? 貴様も所詮そこら凡百の英雄と変わらぬ男であったか!?」
失望の叫びがウィリアムを揺らした。揺れる思考の中、ウィリアムは――
「違う、俺はそうじゃない。俺は、俺はあの女を否定するために生かしているんだ! 今、あの女を殺せば俺は負けを認めることになる。これから先、あれが注ぐ存在に怯えながら歩む道のどこが覇道か! 俺は全てに勝つ! あの女にも……それが俺の道だ!」
ニュクスの目がウィリアムを定める。ゆっくり、じっくりと、深淵の先まで見通していく。品定めが終わったのか、ニュクスはするすると自分の場所に戻っていった。
「愚かじゃのう。まこと愚かじゃ。よかろう、もう少しだけ猶予を与えてやる。ぬしが愛に溺れるか、愛を切り捨て王道を往くか、もう少しだけ……見届けてやろうぞ。まったく、わしは善意で言うとるというのに、時が経てば経つほどに、その先は地獄じゃて」
ニュクスに何が見えたか、それはウィリアムにもわからない。しかし果てが地獄であることはウィリアムにも理解できている。もしそれが本物であったなら、揺らがざるものであったなら、ウィリアムには『理由』が出来てしまうのだ。覇道を歩むために――
「して、用向きのほうは金であったか? 投資するかは条件次第じゃが……まあ現在の薬品関連一律一割引きで手を打とう。期限は金利分含めたの返済を終えるまで。これで金貨千枚。ぬしの用意してきた条件と相違あるまい?」
ウィリアムは先ほどまでとは別種の怖れを抱いた。目の前の怪物は全てを見通しているのだ。死と生の狭間で揺れる亡霊のような存在。真の怪物。
「じゃが、わしは退屈しておる。商談が決まってはいさようならではさびしゅうて仕方がない。じゃから……ひとつ遊戯をしよう」
ウィリアムは暇ではない。闇の融資を受けられるとなれば、別の場所にも赴き金をかき集める必要がある。出来ればこの場からすぐにでも立ち去りたいのが本音であったが、
「わしと軍将棋をせよ。ぬしが勝てば同条件にて金貨をさらに千枚。わしが勝てば暇つぶしが出来て楽しかった……で終わりじゃ。やらん理由は――」
「ないな。さっさとやろうか」
ウィリアムは笑みを浮かべた。こういう時のニュクスは実に非合理である。本当に退屈しのぎができればいいのだ。金貨千枚、豪商が持ちうる資産に等しい。ウィリアムの資産は土地と建物を合わせても金貨二百程度。その五倍をぽんと出すというのだから笑いが止まらない。
「この羊皮紙に最初の布陣を書くのじゃ。その後互いに敵側の陣を並べる」
「初心者じゃないんだ。悪いが勝たせてもらうぞ」
互いがすらすらと羊皮紙に布陣を書いていく。そこに迷いはない。ウィリアムはニュクスの性格を度外視して現行最優の布陣を書き綴った。ガリアスで生まれた布陣の名はダルタニアン・ストラディオット。騎士と戦車の足を生かした軽快な攻撃型の陣形である。ここからの派生であれば現行使用されている初期陣形のほぼ全てに対し優勢または互角まで持っていける。一部例外はあるが、それでも初期陣形の時点で悪い形にはならない、とされていた。
「かっか、わしからすれば皆初心者じゃて」
対するニュクスは――
「ほれ、これがわしの陣形じゃ。しっかり並べるんじゃぞ。何しろ――」
ウィリアムは手渡された羊皮紙を見て目を剥いた。この陣形をウィリアムは知らなかったのだ。陣形と呼んでいいのかもわからない形。しかしそこから一瞬で弾き出した自陣との比較にウィリアムは苦々しい笑みがこぼれた。
「相当に旧い形じゃからのう。まだストラチェスなどと統一されておらなかった時代の遺物。スクトゥム・テストゥド、亀の盾じゃ。遅く、攻撃力もない」
軍将棋の流行として最近は早い展開が好まれている。初期陣形もそう。そもそも軍将棋に限らず実戦でもそうだが、速いことはそれだけで有利なのだ。ゆえに皆速さを重視する。重視し過ぎて欠陥まみれの戦術でさえ場合によっては採用される。しかし目の前のそれは、あまりにも、あまりにも――
「まあ指してからのお楽しみじゃな。ん? 浮かぬ顔色じゃのう」
現行最優に対するメタゲームとなっていた。
「にゃろう。相当やりこんでやがるな」
「暇じゃからのお。ほれ、本来ならコインの表裏で先攻め後攻めを決めるが、今回は特別サービスじゃ、ぬしに先攻をやろうぞ。ちゃきちゃき攻めるが良い」
「なめられたもんだな。このゲームは先攻若干有利とされている。初期陣形の有利不利なんてのは力差があれば誤差の範囲だ」
ウィリアムが一手目を指す。ニュクスが間髪入れぬ二手目。
「力差があれば、の」
ニュクスのからかい顔にウィリアムは挑戦的な笑みを浮かべた。
○
ウィリアムは盤上を見て震えていた。ニュクスはにやにやと盤上を見つめるウィリアムを眺めている。ウィリアムの発する言葉を今か今かとそわそわしていた。
「……参りました」
ウィリアムの盤上は悲惨の一言であった。そもそも初期陣形の時点で思っていた以上の差が生まれていた。指せば指すほどに深まる差。ニュクスの差し回しも古めかしいものの軽妙な指し回し、付け入る隙もなく投了まで持ち込まれてしまった。
「新しいものばかりが優秀とは限らぬ。時として旧いものが新しいものを上回ることもありえるのじゃ。特に、こういう省みられなくなったものはのお」
時代が置き去りにした戦術。それが一週回って最新の戦術を喰らった。ヤンとの対局は紙一重、その紙一重が分厚く感じたが、今回の敗北は歴史の膨大な厚みを感じさせられた。力差はニュクスの言ったとおりほとんど互角に近い。しかし初期陣形、序盤、中盤、最近では見られない指し回しに翻弄された。
「速さを殺された。強みを潰して自分の優位なフィールドに相手を飲み込む、か」
ウィリアムは当初の目的を忘れたかのように盤上を見つめていた。幾度も頭の中で反芻しているのだろう。時折「違う、そうじゃない」などとこぼしていた。
「勉強熱心じゃのう。わしとしては眺めとるのが楽しゅうて良いのじゃが、そろそろ往かんと覇道に差支えがあろう?」
ウィリアムは「あ」と声を上げて立ち上がった。時間はかなり経過しているはずである。しかもこの戦いで得るはずであった追加分金貨千枚も水泡と化した。まさに無駄な時間、もちろんウィリアムとしては得るものの大きな戦いであったが、今現状すべきお金集めに関しては後手を踏んだ形である。
「わしらが遊んどる間に白龍に金貨を持たせてある。それを持ち昼の世界へ戻れ。リベンジはいつでも受け付けておるでな。暇が出来たら遊びに来るのじゃ」
さらっと言ってのけたが、最初からニュクスは渡す金貨の枚数を決めていた。つまりは負ける気などさらさらなかったのだろう。そのことに気づいてウィリアムは心に誓った。絶対にリベンジしてやる、と。
「負けても良い。しかし負けっぱなしは良くないぞ。世界にも、女にものお」
ウィリアムの背中に向けて放たれた言葉。まだ機嫌が戻ったわけではない、いずれ今日の負けも『この前』の負けも清算せよと言っているのだ。それにあえて反応せずウィリアムはニュクスの間を退出する。言われずとも、負け続ける気などないのだから。
「金貨だ。……早く持て。手が、しびれて」
最強の暗殺者である白龍が青い顔をしてウィリアムを待っていた。担いだり、ぶら下げたり、色々試して長時間待っていたのだろう。しなやかな筋肉がぴくぴくと震えていた。それもそのはず、金貨千枚となればとてつもない重量である。普通は何人かで手分けして運ぶし、外なら牛や馬に運ばせるだろう。それを一人で持ち、あまつさえ律儀に待っていた男の忠義と要領の悪さはウィリアムの笑いを誘った。
「わ、哂うな。さっさと持て。そしたらわかる」
持たなくてもわかりきっている超重量の袋。たぶんウィリアムでは持てない。そしてウィリアムは持つ気もない。
「ニュクス、白龍を貸してくれ」
途端に青ざめる白龍。「かまわぬ、好きに使え」との声が届いた瞬間、白龍の心は折れた。心折れても忠義のため袋から手を離さないのは立派の一言である。
「屋敷まで頼むぞ」
白龍の膨大な殺気がウィリアムに注がれる。それをへらへらと受け流し、負けた腹いせに白龍で遊ぼうと心に決めたウィリアム。負けず嫌いも考え物であった。
「いつか殺す。絶対だ」
刺すような視線を心地良く思いながらウィリアムは歩む。
○
「ご苦労さん。金貨千枚も運ばせて悪かったな」
ウィリアムの心にもないねぎらいを聞いて、白龍は思いっきりウィリアムをにらみつけた。そして咳払いをして自分を落ち着かせた後に、ウィリアムの方に改めて向き直る。
「金貨千枚ではない。金貨千五百枚だ。何だかんだとあの御方は貴様に甘い。他の者なら幾度となく死んでいるだろう。今日の機嫌なら問答すら許さなかったはずだ」
ウィリアムは驚いた目で袋を見る。
「あの御方を失望させるなよ。ではな」
そのまま音もなく消え去る白龍。やはり暗殺者としては超一流である。
「言い忘れていたが――」
にょっきり陰から顔を出す白龍。突然の帰還に噴き出しかけるウィリアム。
「その金貨は全て旧時代のもの。アレクシス金貨というらしい。闇の王の私物だが他の混ぜモノよりは幾分か価値が上だそうだ。存分に使えとのこと。ではな」
白龍が去った後、ウィリアムは袋から一枚の金貨を取り出す。見たことのない刻印だが触った瞬間の重みとやわらかさで白龍の言葉を理解した。
「混ぜ物無し。かなりの純度だぞ……これを千五百枚、豪気な話だ」
ウィリアムは改めて自分がニュクスに甘やかされていると自覚した。そしてその分恐ろしくなる。その期待を裏切ったとき、ことは自分だけで済むのか、と。
ふと、ウィリアムは引っかかりを覚える。アレクシス、どこかで――
「あれ、にいちゃんだ! おかえりなさい!」
どたどたと駆け寄ってくるマリアンネ。とっくに帰っていたと思っていたのでちょっぴり驚くウィリアム。そしてぞくぞくと湧き出してくるベルンバッハファミリー。飛び出してくるヴィクトーリア、それを追いかけるヴィルヘルミーナ、そそとして出てくるエルネスタ、そして最後には極上の笑顔で「お邪魔してますね」とウィリアムの反論を止めたテレージアがいた。暇人ばかりである。
「それなに?」
マリアンネが物欲しそうな顔で覗き込む。
「アレクシス金貨だそうだ。聞いたこともないがな」
「ちょーだい」
「駄目だ。これは俺のものじゃなくて商会のものだからな」
「けちんぼ!」
無駄な問答の中、アレクシスという単語を聞いてエルネスタが首をひねった。
「アレクシスの冒険、子供の頃読んだことがあります」
「あ、私も読んだことがあるよ。難しくて全部読めなかったけど」
「あ、あんな子供だましでさえ貴女は読めてなかったのね。ちょっとこっちに来なさいヴィクトーリア、折檻してあげる!」
どたどたと騒がしい状況だが、ウィリアムは引っ掛かりに対する得心がいった。確かにアルカディアでアレクシスといえば勇者アレクシスの冒険譚である、『アレクシスの冒険』が浮かんでくるだろう。だが、ウィリアムは本屋に勤めていた中でアレクシスの冒険に対する金貨が作られたことなど聞いたことがなかった。ゆえに思い至らなかったのだが――
(初版が二百年ほど前のこと。記録に残っていないのも仕方がない、か?)
それでも千五百枚の金貨。しかも今では絶対に流通しないであろう純度の高さ。純度の高い金はやわらかく硬貨に向かない。今は白金などを混ぜた合金が主流である。いったいいつ作られたものなのか、少なくとも二百年前にはすでに合金が主流だったはず――
(まあいいか。考えても仕方がない)
必要なのは金である。この金貨は普通の金貨よりも価値がある。上手く捌けば二割、三割増し程度の金貨と交換できるはず。そうすれば二千枚近くになるだろう。ウィリアムの想像以上に己は甘やかされている。それを肝に銘じてことを運ぶことにする、ウィリアムは自分にそう誓った。
「これだけの金貨、お仕事で使うのかしら?」
テレージアがにこにこと聞いてくる。その目の奥は笑っていない。
「ええ、少々高い買い物をしようと思いまして。いずれ伯爵からお話がいくと思いますよ」
「そうですか、それは楽しみね」
腹の探りあい。間違いなくこの娘はヴラドの娘である。ヴィクトーリアがこういう娘であったならウィリアムも気楽に出し抜けるものの――
(……阿呆か、俺は)
こういう思考がすでにハマっているのだと自分を戒めるウィリアム。その元凶はどこかの部屋で姉に折檻を受けて悲鳴を上げていた。一応あれでも年頃の娘である。
(……ここ、俺の家なんだけどなあ)
金貨を掠め取ろうとしたマリアンネを押さえてしみじみと思うウィリアムであった。
この屋敷より職場の方が落ち着くのは自明の理である。
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