巨星対新星:ブラウスタットの剣と盾

 カールとギルベルトがラコニアの少し北にある都市、オルデンガルドに到達したのはベルンハルトがブラウスタット入りしてから一週間後のことであった。準備もそこそこに急ぎ馳せ参じたが、この光景は予想を遥かに超えていた。

「……ここは、ラコニアじゃないよね?」

「当たり前だ。オルデンガルド、ラコニアがオストベルグに取られた時代は此処を拠点として戦っていた都市だ。過去、オルデンガルドが抜かれたことは一度しかない。その一度が『黒金』のストラクレスを巨星の一角として昇華させたのだがな」

 暗にギルベルトはそれが再び起きると言っているのかもしれない。

 それほどにこの状況は悲惨の一言であった。

 街には負傷兵が溢れ、救護の手は回っていない。そこかしこに血がこびりついており、その重なりが多くの命が散ったことを示していた。幾度か接近を許したのか街の至る所に焼け焦げた痕がある。オルデンガルドですらこうなっている。その事実が二人の胸をざわつかせる。

「案ずるな。俺とお前が来た。勝つぞテイラー」

「うん!」

 負傷兵たちが二人を見上げる。馬にまたがる二人の姿は頼りなかった若造の面影を残していなかった。まだ一人では大将にも届かない。しかし二人ならば、巨星にすら手を伸ばす自信がある。その自信が、引力を生む。

「……ぉぉ」

 暗い絶望に立たされたオルデンガルドに、小さな希望が灯った。


     ○


 戦場から戻ったばかりのバルディアスに挨拶を済ませる二人。バルディアスは終始厳しい顔を覆すことはなかったが、ベルンハルトの送り込んだ新鋭の登場に「期待している」と言葉を投げかけた。

 そして帰還してきた兵の中に、二人の見知った顔があった。

「ぎ、ギルベルトか!?」

 ギルベルトたちと同じ世代であるグレゴール上級百人隊長であった。再会に喜ぶグレゴール、大柄の身体でハグされる最中、ギルベルトは複雑な表情をしていた。一応手を回してやっているのは友情の表れか。意外と根っこは優しいことをカールは知っていた。

「よかった、カールも達者でやっているみたいだな……おっと、二人とも階級は俺よりも上になっていたんだっけか。すまんすまん」

 普段のグレゴールなら悔しさの一つでも滲ませるところだが、それどころではないのだろう。ただ二人に生きて会えた嬉しさを爆発させていた。

「いやーしかし驚いたぞ。ブラウスタット防衛の要であるお前たちがこっちに来てくれるとはな! これで百人力、いや千人力だ!」

 あははと笑い合うグレゴールとカール。ギルベルトは苦い笑みを浮かべている。

「ヒルダはどうした? 彼女も生きているのならオルデンガルドにいるはずだ」

 びくりとするカール。グレゴールもまた表情を曇らせる。

「ああ、そうだな。いや、勘違いしないでくれ。死んじゃいない。快方に向かっている……ただ――」

 死んでいない、快方に向かっている。その言葉の示すところは、

「あ、おい! 待てカール!」

 カールは脱兎の如く駆け出した。その出足をギルベルトがひっかけて転ばせる。勢い良く転ぶカール。それを見てグレゴールは唖然とする。

「な、何するんだギルベルト!」

 カールにしては珍しい怒声。しかしギルベルトは表情一つ変えない。

「今のオルデンガルドにどれだけの救護所があると思っている? 臨時で出来たものも含めて貴様は把握できているのか? 貴様の遅い足を酷使するよりも、場所を知るグレゴールに案内させた方が合理的だ。頭を冷やせ愚か者」

 ギルベルトの叱責に、カールはしゅんとうなだれる。

「快方に向かっているんだろ? なら急ぐ必要はない。案内を頼むぞ、グレゴール」

「あ、ああ。任せておけ」

 カールとギルベルトの関係に、グレゴールは驚きを見せていた。ギルベルトの根が善人であることはグレゴールとて疑ったことはない。それでも、こうしてカールを叱責し、しかも気を遣いフォローまでするギルベルトは初めて目にする。昔のギルベルトなら男爵の息子に怒声を浴びせられれば剣を抜いていてもおかしくないのだ。それを何も言わず許したことにも大きな驚きがあった。

 三人は話もそこそこにヒルダのいる場所に足を向ける。


     ○


 そこは不衛生極まる場所であった。医者が床で兵士の壊死しかけた足を断つ、水の溜まった出来物から水を抜きその際に膿が流れ出る、血や膿が飛び交う場所。その奥にヒルダはいるという。カールはごくりとつばを飲み込んだ。ギルベルトでさえ無表情を保つことが出来ない。

「ヒルダはカスパル様の娘だからな。こうやって個室を与えられている。ただな、今のヒルダは、その、心がささくれ立っている。きつい当たりをされるかもしれんが、その辺りは汲み取ってやってくれ」

 グレゴールがノックをする。中から低い声で「誰?」という声。

「グレゴールだ。見舞いに来た」

 しばしの間、少しして「どうぞ」という声が中から響いてきた。

 三人が入室する。二人は久方ぶりにヒルダに会った。互いに硬直してしまう。

「な、んであんたたちが此処に」

 ギルベルトは声を発することが出来なかった。ヒルダの美しかった顔に走る醜い傷、それを見てしまったから。視線にはっとしてヒルダは毛布を被る。

「出て行って! 見世物じゃない!」

 ギルベルトは自身の無遠慮な視線を悔いた。普段強がっているが彼女も女性なのだ。そしてこの傷は、この時代における女性としての死を意味する。貴族の令嬢としては文字通り傷物になってしまったということ。

「……発熱は収まったから。明日からは戦場に戻れるから。だから、放っておいて!」

 ヒルダの悲痛な叫び。この地獄において生きているだけで儲けもの。そういう考え方も出来る。今まさに死のうとしているものからすると小さな悩みかもしれない。しかし尊敬する父を失い、顔に傷を負い、今の今まで発熱に苦しんでいたのだ。弱くもなる。

「……ゆっくり休んでてよヒルダ」

 カールの優しい声が、雰囲気が部屋を満たす。毛布がもぞりと動いた。

「急いで明日から戦場に戻らなくても良い。いつも自慢していたおとうさんが死んだんだ。心も、身体も傷ついている。だから休んでいて」

 カールはヒルダがいる方に背を向けた。ギルベルトも察して後に続く。

「ストラクレスは僕らが討つ。全部、任せろ!」

 蒼い暴風から漂う鉄の薫り、初めて見せたカールの牙。それを見てグレゴールと毛布に隠れるヒルダは慄いた。ギルベルトだけは笑みを浮かべる。

「君が生きていて、本当に良かった。それだけで、僕は戦える」

 そのままカールは個室を出る。それに続くギルベルト。残されたグレゴールとヒルダは呆然としていた。侮っていたわけではない。それでも自分たちよりも弱いと思っていた。だが、先ほど見せた牙は、この場の誰よりも――


     ○


 ストラクレスは昨日までとの手応えの違いに違和感を感じていた。昨日までこの戦場にあったのは『不動』の重苦しい雰囲気。ストラクレスとしては思うように動き辛い感覚もあり苦戦を強いられていたが、今日はそこに加えて軟らかい空気が混じっていた。

「うーむ。隙か否か」

 昨日まで見せてこなかった喰い破るための隙。此処に来て見せるとも思えない。だが昨日までいなかった部隊が合流し、そこに隙が生まれた可能性はある。連携の継ぎ目、今しかない好機となりえる。

「キモンはおるか?」

 そこを突く。罠にしろ隙にしろ、つついてみねばわからない。バルディアスが来てギリギリ持っているこの戦場。出来れば一気に押し切りたい。オストベルグ側もカスパル最後の抵抗と機転により思い切った攻めが難しい状況を作られた。オルデンガルドを落とせていないのはそのためである。現状でも時間を使いすぎていた。

 隙あらば喰らい、攻め潰す。でなくば強襲にならない。

「此処に」

「あの空気、どう見る?」

「わかりかねます。断定するほどの材料が揃っておりません」

 流石の返答。あの空気に勘付き、それを疑っている。測るにはこの男を置いて他にはいないだろう。

「材料を揃えて見せよ。もし罠であった場合、無理は禁物じゃ」

「御意」

 オストベルグが誇るストラクレスの右腕、『黒羊』のキモン。もし罠であったとしてもキモンならば最低限のダメージで済む。罠が甘ければそのまま押し潰すことも叶う。優秀な駒とはこういう時に使うのだ。

「レスター、幾人か集めよ。私が出る」

「了解です!」

 年若い部下、ストラクレスにとってキモンが秘蔵っ子であるとすれば、レスターはキモンの秘蔵っ子である。今はまだ未熟で経験も少ないが、いずれオストベルグを支える英雄となる資質を持つと見られていた。

「さて、『まだ』いないな」

 キモンの不安要素は戦場に見受けられない。

「今のうちにアルカディアの翼を手折らねば」

 それが到着する前に、勝負を決めておきたい。キモンもそう思っていた。


     ○


 カールは『黒羊』の接近に気がついた。流石このレベルにもなると僅かな緩みでさえ勘付かれるらしい。あえて作った僅かな隙、もちろん罠である。

 カールは自身らにとっての緒戦こそ相手に大きな一撃を与える機会だと考えていた。それ以降この手は使えなくなる。あくまで最初、相手も手探りだからこそ、この釣手は効果を発揮するのだ。釣りは餌が極上でなければならない。そして釣餌とばれてはならない。

(喰らい付かれてからが勝負)

 どれだけ引き付けられるか、どれだけ食い込ませることが出来るか――

「みんな! 全力で守るんだ!」

 作戦は、

「了解ですカール様!」

 伝えていない。退け腰の雑兵の動きで勘付かれる可能性もある。ただ穴のある陣形を取り、全力で守る。それもわざとらしくない程度、熟練者のみが察知できる隙を。ウィリアムが得意とした味方を使った撒き餌。カールにとって好ましい手ではなかったが、それでも今は好き嫌いを言っている場合ではない。

「来るぞ!」

 黒羊の突貫。群れと化した黒羊、その集の威力はその場で盾を構えていたものたちの想像を超えたものであった。先頭、二列目、ガンガン攻め立てられる。弓やクロスボウで応戦するが勢いに陰りは見られない。

「陣形変更! 五列目から密集隊形、紡錘型で受ける!」

 カールの号令から隊列がするすると入れ替わり、紡錘、先頭から陣の中ほどまで緩やかに広がる形に陣形が変化する。これで中央に厚みを持たせて堪える気構えであった。

「なるほど、練度が高い! だが、今ならば潰せる!」

 キモンはこの相手を潰さねばならない相手と認識した。あえて隙を作り相手を誘い込み陣形の変化で嵌め殺す。優秀な守戦の将であると理解したがゆえに。

「クソ、こいつらの矢は鎧も簡単に通すのかよ!」

 レスターもクロスボウの厄介さに気付いていた。

 その昔、七王国が並び立つ前の時代、東方の弩やローレンシアにもクロスボウの原型は在った。その威力は凄まじく、戦場において多くの騎士を殺すことになったのだ。

 騎士殺しの弓として、戦場の浪漫を打ち砕く武器の登場は、時の特権階級つまりは貴族たちにとって不必要なものであった。農民でさえそれを持てば貴族を殺すことが出来る。そんな武器を野放しにしておけない。ゆえにクロスボウの原型は『上』が使用を禁じ、戦場から姿を消した。その考えが風化した頃には人々の記憶からも消えていたのだ。

 エッカルトがそれを再発見、より殺傷能力を加味し、ウィリアムがそれを世に出すまで、革新的とまで言われたガリアスでさえクロスボウを用いることはしなかった。それはひとえにあまりにも容易く騎士を、貴族を殺せるからである。

「うろたえるな! やられる前にやればいい!」

 キモンはその旧時代の武器を厄介と認識しながら、しかし決定打にはなり得ないとも考えていた。量産に難く、リロードの速度にも難がある。決して万能の武器ではない。それに恐れて歩みを止めるのは愚かの一言。

「攻め潰せ!」

 新兵器を頼りにしていたと決め付け、キモンは一気に攻め立てる。材料は揃った。罠であったが甘く弱い罠であった。ならば食い潰せる。

「陣形変更!」

 キモンの耳に良く通る声が聞こえた。柔らかなテナー、キモンが討つべき相手。

「全隊散開、比翼の型。包囲陣形だ! 蟻一匹逃がすなァ!」

 戦場全体にも響き渡らん声、その大きさと強さにキモンは唖然とした。先ほどまで柔らかであった空気は幾重にも編みこまれ、とてつもない厚みと強度を兼ね備えた風の盾と化す。そしてそこから滑り込むように――

「我が盾を甘く見たなサー・キモン。オストベルグの翼、手折らせてもらう!」

 アルカディアの白き剣が黒羊を襲う。

 キモンは此処にきてもう一段階罠が張り巡らされていることに気付いた。中央を守るカールを最右翼に構えていたはずのギルベルトが守護する変則的な形。オストベルグにも勇名を轟かせているギルベルトの配置には警戒していたが、それゆえの失態。まさか味方の横陣を突っ切ってこちらの側面を強襲してくるとは考えていなかったのだ。

「突っ込みすぎたというのか!?」

 ある程度他の隊には話を通していたのだろう。いくら強引に横陣を突っ切ってきたとはいえ速すぎる。いや、この速さと陣形による時間稼ぎはすべて計算づくのこと。肝心要の自身の隊に話を通していなかったこともキモンを騙すのに一役買った。それこそが策に対する臭い消しとなったのだ。

「そういう、ことだッ!」

 オスヴァルトが誇る白き剣、白馬の突進力とギルベルトの剣が合わさった攻撃。それを側面からまともに受けるも、斬られるのを防ぐので手一杯。剣圧は抑えきることも出来ず、大きく横に吹き飛ばされ落馬してしまう。

「囲め!」

 咄嗟に周囲の兵たちが囲み仕留めようとするが――

「なめるなッ!」

 流石にこれは全員を切り伏せる。『黒羊』のキモンは伊達ではない。

「さて、剣比べといこうか」

 ギルベルトもまた白馬から降りてキモンと同じ地平に立つ。

「馬の利を捨てるか。随分なめられたものだな」

「いや、貴様を止めるまでが俺の仕事だ。あとは、テイラーの仕事でな」

 キモンが周囲を見渡す。落馬したがゆえに視界は大きく失ったが、それでも理解できる。包囲陣形は完成してしまった。あまりにも速く展開されたのもあるが、こちらが突っ込み過ぎたために陣形の完成を早めた点もある。

「すべて、作戦通りというわけか」

「無論! 後は貴様を止め置くだけ、だ!」

 ギルベルトとキモンの剣が激突する。アルカディアの若き新鋭、その剣技の冴えは――

「これ、ほどかッ!?」

 オストベルグで第二位の実力を誇る『黒羊』のキモンと互角に打ち合えるほどとなっていた。もはや『剣鬼』や『剣騎』すら超えている。兄弟子を超え、父の、『剣将軍』の高みにまで近づきつつあるのだ。

「噂ほどではないな!」

 キモンはギルベルトの放った言葉に苦笑いを浮かべた。

 キモンの実力は噂通りである。それを噂ほどと感じないのであれば答えはひとつしかない。ギルベルトが強くなったのだ。そしてまだ、底知れぬ伸びしろを感じる。

「末恐ろしいな、オスヴァルト!」

 今、断たねばならない英雄の卵。しかもそれがこの場だけで二人もいる。

 アルカディアに育ちつつある若き芽。想定以上の成熟を見せる彼らに、オストベルグを支えるモノたちがどう対処するのか。激戦の火蓋が切って落とされた。


     ○


 ストラクレスは己が軽挙妄動を恥じた。誘いの雰囲気は感じていた。しかしこれほど見事にキモンがしてやられるとは思ってもいなかったのだ。このままではキモンも含め全員が飲み込まれる可能性がある。ゆえに自らが動こうとするが――

「後手必勝……やりづらいのう、バルディアス!」

 バルディアスがストラクレスの動き出しを牽制する形を取った。これで軽々に動けなくなったストラクレス。こういうところで最も効果的な形を取れるのが『不動』の強み。動くべき時に動き、動かざるべき時には不動。

「さりとてキモンを失うのはありえんじゃろうが!」

 無理にでも動く必要がある。バルディアスの牽制をぶち破ってでもキモンの脱出路を作る。そうせねばならぬと動き出そうとするが――

「ストラクレス様! 側面から……あの旗は『戦槍』、『戦槍』のグスタフ・フォン・アイブリンガーです! こちらに突っ込んできます!」

「ふはっ! 不動め、まっことやりづらいわ!」

 動き出しを狙ったバルディアスの槍、第二軍師団長グスタフ隊の突貫。本来遊軍として最大効果を発揮する部隊であったが、此処までの戦でその持ち味は出せていなかった。槍が押し通る隙間すらなかったのだ。だが、今ならば――

「隊列を組み替えよ! 左側面、来るぞッ!」

「遅いぜストラクレスッ!」

 昨日までの鬱憤を晴らすかのような豪速の槍。不動の槍に相応しい重苦しい一撃は、ストラクレスの側面を食い破った。不動の戦の真骨頂、後手必殺である。

「わしには向かって来んのか?」

「冗談じゃねえや。まだ命は惜しいよっと」

 ストラクレスの本隊を強襲することなく、しかし出足を完全に潰したグスタフ。結果、大したダメージを与えていないが、救援の足は完全に潰した。

「中央に兵を集めよ! 中央を押し切れィ!」

 ゆえにストラクレスは届かない。届かせるのは『声』のみ。ただしその声は巨星の一声。戦場全体に響き渡るかのごとく投じられた咆哮は、オストベルグ軍全体に活力と目標を与えた。

「おいおい、一声でこうなんのかよ!?」

 側面を食い破り、その足で敵軍本隊の側面でも射抜こうかと考えていたが、そういう場合ではなくなった。全体が一斉に中央に集中し始めた。軍が一つの生き物のように形を変える。側面に回りこむのでは一手遅い。昔のグスタフならそれでも命令通り回りこんでいただろうが――

「んま、此処で考えなしに回り込んだら、まーた紅茶おじさんに説教喰らっちまう、ぜっとォ!」

 グスタフもすでに師団長となって長い。戦場の機微は読めている。

「後ろ、ぶち抜く!」

 後背を単騎駆け。危険は大きいが、此処を取らねば若手の作った勝機を潰すことになる。ようやく見えた光明、潰させるわけにはいかないのだ。たとえ自身の命を散らすことになろうとも。

 此処が戦争の分水嶺と見たり。


     ○


 キモンは『声』を聞いた瞬間、恥も外聞もかなぐり捨てて全力で後退した。『声』で生まれた虚を突かれた形となり、ギルベルトの反応が遅れる。

「レスター、退くぞ!」

 騎馬にまたがった部下がキモンを上手く拾い上げる。「クソ!」と悪態をつき追おうとするが馬の足と人の足では勝負にならない。一気に開く彼我の差。

「閣下が集めてくれた兵が目くらましになる。これで主力を逃がせば、負けは負けでも傷は浅く――」

 突如キモンらの前方が炸裂する。大槍を振るい血しぶきの中現れたのは、『戦槍』グスタフ・フォン・アイブリンガー。血と鉄こそ我が故郷とばかりに生き生きと戦場を駆ける男は、敵を捕捉する。

「キィモォン! 一昨日ぶりかァ? しっかり首を洗って待っててくれたみてーじゃん、っとォア!」

 ひと振るいで大勢を引き裂く。斬る、突く、などと生易しいものではない。『戦槍』の戦は派手なのだ。切れ味とか技とか、小洒落たものは持ち合わせていない。相手を蹂躙するための暴力こそこの男の根幹。

「抜きます!」

 レスターが駆ける。背に乗せるはオストベルグの翼。

「駄目だ、あの男を甘く見るな!」

 何としても運び届けねばならない。命に代えても――

「おいおい……こいつはッ!?」

 黒き、鷹。飛翔せり。

「退け! グスタフ・フォン・アイブリンガー!」

 すれ違う。一瞬の邂逅。大槍と黒き槍、重なる。

 決して油断があったわけではない。グスタフも傷を負ってはいたが、むしろ尻上がりのグスタフにとっては気合が入った状態であった。

「ちぃ、オストベルグにも良いのが育ってるじゃねーかよ、っとぉ」

 だが、仕損じた。それどころか手痛い傷も負わされた。致命傷ではないが、浅くもない。

「ぐ、がっ」

 同じ程度の傷は与えたが、レスターが負う傷とグスタフの負う傷では両軍にとって意味合いが大きく異なる。もし今日を引き分けに持っていかれた場合、グスタフを欠くという事実はアルカディアにとって致命となりかねないのだ。

「っくしょ。……流石に情けねえ」

 レスターはこの窮地に実力以上のものが出た。だがそれは彼の伸びしろを表している。彼もまたこれからの戦の時代を彩る英傑の一人となる可能性を秘めていた。

「折角捕らえたのに……このままでは」

 ギルベルトは悔しさを滲ませる。今日キモンを取れば大きな一歩であった。そしてキモンを取れた状況であった。逃がしたギルベルトにとっては痛恨のミス。同じくグスタフにとっても苦い痛み分けとなる。

「キモンは逃がして構わない! だが、それ以外は逃がすなッ!」

 戦場を奔る『声』。ギルベルトの良く知る男の声は、キモンにこだわり動きを止めていた二人に正気を取り戻させた。そう、キモンは逃がしたかもしれない。

 しかし――

「手足はまだ残っているぞ!」

 キモン直属の部隊、歴戦の猛者たちが未だカールの包囲陣形に捕らわれていた。

「……その通りだ。これは一騎打ちじゃない。戦争だったな」

 ギルベルトは気合を入れなおして乱戦の中に飛び込んでいく。グスタフもまた痛みを押して敵の掃討に加わった。


 キモンたちが本陣に戻った後、

「そんな……ブルーノさん、ロゲールさん、みんな、誰一人戻ってこない」

 ストラクレスやキモンと共に戦場を駆け、長い時間をかけて育て上げた精鋭たち。彼らは誰一人帰ってくることはなかった。キモンの懐刀がレスター以外すべて討ち果たされてしまったのだ。その中には上級百人隊長や筆頭百人隊長、師団長クラスの部下もいた。

「申し訳ございません閣下」

 苦渋の表情で頭を下げるキモン。ストラクレスは首を振る。

「わしが命じた。それがあまりに迂闊であった。それだけのことじゃ」

 ストラクレスの表情にも笑みが消えた。相手を侮り過ぎていた。キモンならば勝てると、たとえ罠に引っかかっても最小限の被害で済むと考えていたのだ。あまりにも迂闊な目算。バルディアスにばかり目がいってしまい、目が曇っていた。

「ふん、あれがあの小僧の強さ、か。若いくせにやりおるわい」

 蒼き風が幾重にも重なり生み出された『蒼の盾』。ネーデルクスはとっくに知っていた。この男の存在を。オストベルグはようやく認識した。カール・フォン・テイラーという男を。ブラウスタットを守護するアルカディア西部の守護神。

「もう、甘く見てはやらんぞ」

 そしてアルカディアが誇る白き剣。ブラウスタットの剣と盾がこの戦場に舞い降りた。

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