復讐劇『序』:ヴィクトーリア

 ウィリアム・リウィウスは一人でヴラド伯爵の邸宅の前に立っていた。アンゼルムはついてこようと色々画策していたようだが、すべて潰して置いてきた。まだアンゼルムを表立って従えるのは時期尚早。変に勘繰られる可能性もあるし、そもそもとして貴族を市民出の騎士階級風情が従えているのは反感も出てくるだろう。

「お待たせして申し訳ございません。伯爵がお会いになられるそうです」

 品の良さそうなメイドがウィリアムを門の内側に入れる。

「こちらになります。サー・ウィリアム」

「ありがとう」

 伯爵家はまさに貴族といった様子であった。煌びやかで、華やかで、キラキラ輝いている。この季節だというのに花が踊り、水の流れる音がする。美しく風情があり、何よりも金がかかっていた。

(まさに文方面の貴族って感じか)

 クルーガーやオスヴァルトの家にあった無骨さはまったく感じられない。血も戦も、剣も弓もここからは遠い何処かの出来事。花を愛で、唄を歌い、愛を語らう。まるで楽園のような光景に――

(ああ…………きもちわりい)

 ウィリアムは仮面の下で顔を歪めていた。一歩一歩反吐が出る心持である。此処に姉がいたのかは定かではない。むしろいなかった可能性の方が高いだろう。あのような凄惨な状態を作り出すのに、ここは街中が過ぎる。

「この角を曲がられますと伯爵様の私室になります」

 これ以上メイドは進む気がないようで、立ち止まり手を扉の方に向けている。

「案内ご苦労、感謝する」

 ウィリアムは指し示された扉の前に立つ。

 背後でメイドが様子を伺っているのは視線を向けずとも感じられた。あからさまではないが、眼の端に捉えられており、一挙手一投足が見抜かれている。

(雇われの護衛か。まあまあ強いな)

 白龍ほどの威圧感は感じないが、達人であることは間違いない。あれに身辺警護されていたら、並みの暗殺者ではすぐさま返り討ちにあってしまうだろう。

(まあどうでもいいか。今日ヴラドを殺すわけじゃないからな)

 ウィリアムはドアの持ち手に手をかける。

(さあ、拝見してやろう。ヴラド伯爵!)

 ゆっくりと引っ張り、視界が少しずつ拓けて――


「ようこそウィリアム・リウィウス百人隊長。いや、サー・ウィリアムと呼ぶべきかな?」


 あの日刻んだ姿そのままに、ヴラド伯爵がそこにいた。椅子に座り、パイプを燻らせ、温かい表情でウィリアムに微笑んでいる。その顔が、ウィリアムの目には酷く下卑て映っていた。

「本日は突然のお約束にも関わらずお会いしていただきありがとうございます」

 ウィリアムが頭を下げる。

「堅苦しいなあ。もう少し楽にしたまえ。ささ、まずは座りなさい」

 ヴラドは自身の前にある椅子を指差した。頭を再度下げ、

「失礼します」

 と言って椅子に座った。ヴラドと二人、対面にて向かい合う。

「まずはおめでとう。百人隊長、騎士位、どちらも簡単に手に入るものではない。胸を張りなさい」

 まるで父のように優しげな声色で語り掛けてくるヴラド。

 ウィリアムは笑い出しそうになる気分を必死に抑えていた。あれほど憎んだ男が、あれほど怒りを覚えた男が、まるで父のような顔でウィリアムの前にいるのだ。こんなふざけた話があるだろうか。

 ウィリアムは心の奥底からあふれ出しそうになる殺意を抑えるので精一杯だった。無論、それを抑えつけるくらいの制御は出来ているが。

「……いえ。すべてはヴラド伯爵のご助力あってこそです」

 ヴラドは「はてなんのことやら」と首をかしげる。しかし否定はしない。

「君の活躍は私の耳にも届いているよ。騎士位を推薦したいものなどいくらでもいるだろう。もちろん私もその一人だがね」

 笑顔のヴラド。その奥の瞳は笑っていない。ローランと同じ、ウィリアムを値踏みしている。ねっとりと、じっくりと、ねぶるようにウィリアムの深淵を覗く。

「そうだ。話の場に酒がないのは良くないね。とても良くない。ウィリアム君に上等な酒を」

 扉がぎいっと開く。段取りが組まれてたかのような流れ。いや、実際――


「お酒をお持ち致しました。お父様」


 組まれていたのだろう。

「おお、ヴィクトーリア。いつになく気が利くではないか」

「まあ、お父様ったら」

 美しい。とても美しい女性である。ウィリアムの知る中でもそうはいない。深窓の令嬢と呼ぶに相応しい楚々とした雰囲気。隙のない立ち居振る舞い、ふわりと香る薔薇の芳香。

(なるほど。そういう手か)

 ウィリアムは合点がいった。

「紹介しようウィリアム君。今年十五になる私の娘、ヴィクトーリアだ」

「ヴィクトーリア・フォン・ベルンバッハでございます。今後とも宜しくお願いいたします、ウィリアム様」

 まさに大輪の花。貴族の娘としてこれ以上ない出来。ヴラドの自信作と言ったところか。

「まだまだ社交界に出せるほど踊りも作法も熟達してはいないが、器量は良いと思う。どうだろう?」

 ウィリアムは苦笑いを隠すので精一杯であった。

 ヴラドはこともあろうにウィリアムに娘をやろうとしているのだ。最も簡単にその者の内側に入る方法、それが親類縁者になることである。あまりにも早く、そして断りづらい一手。ウィリアムは感情抜きに初めて目の前の怪物を見た。

 そこには笑顔の怪物が。

「どうだろう、とは?」

 ウィリアムは苦し紛れに聞き返すも、ヴラドの笑みは崩れない。

「君は今年いくつになるかね?」

「……二十二歳だったかと」

「ふむ、良い年だ。結婚して身を固めるには最適と言ってもいい」

 逃げ場は作らせない。ウィリアムは背に流れる冷たい汗を意識する。おそらく文官の、これがヴラドのやり方なのだろう。言葉一つの効果をよくわかっている。立場の違いを上手く利用している。今のウィリアムがこの場を上手く切り抜けることは出来ない。

「お父様。少しせっかちが過ぎますわ」

 ウィリアムは自身の逃げ場が失われていく感覚を覚えた。打つ手はない。否、打つ手はあれど巧手がなく、すべて悪手、つまり詰んでいる。

「ん? そうかい。だが折角の縁だからねえ。お前はウィリアム君のことをどう思うかね?」

 この後に続くのは社交辞令的な好意を示す言葉。ウィリアムが否と言えぬ以上、これでチェックメイト。ヴラドに取り込まれることになる。ウィリアムはそのケースについても考える必要を――

「大好きです!」

 一瞬、この場の空気が凍った。ヴィクトーリアの笑顔も凍る。あまりにも快活に、あまりにも爛漫に、楚々とした深窓の令嬢像が一瞬で崩れ落ちるほど、その笑顔と言葉からはひまわりのようなにおいがした。

「……お、お気に召しておりますわ。おほほ」

 ヴラドは額に手をやりうなだれる。笑顔が初めて崩れ、ため息がこぼれた。

「……お、お元気なお嬢様ですね」

 ヴラドは一旦ウィリアムに会釈し視線を外した。視線の向かう先はもちろん、

「……ヴィクトーリア」

 己が娘。

「……な、なんですのお父様?」

 楚々とした雰囲気を必死に取り繕おうとするヴィクトーリア。笑顔が引きつっている。

「挨拶はヴィルヘルミーナに教わったと聞いていたが」

「教わりました。……十分ほど」

「作法は?」

「テレージアおねえさまに。……五分ほど」

「……お前というやつは。まったくそんなことだから未だに――」

 ウィリアムは呆然と立ち尽くしていた。説教を受けているヴィクトーリア。説教をしているヴラド。親子のほほえましさすら感じられるやり取り、それを見て――

(なんだこれは?)

 ウィリアムは――

(ふざけるな!)

 その中にいる小さな怪物が吼えた。

 この光景を、姉を奪った極悪非道の男がしているのだ。貴族として狡猾で厄介な敵であったなら、ウィリアムも思う存分清濁併せて蹂躙することも出来た。その片鱗は見えていた。戦うための心の準備もしていたばかり。復讐するに足る敵であると、そう考えていたのに。その相手が――

(貴様が、ねえさんを奪ったおまえが、ぼくのねえさんを!)

 ウィリアムの中で塔がぐらついた。ふらりと揺れるウィリアム。叫んでいるのだ。激昂するアルが。最近静観に徹していたもう一人の己が。殺せと、犯せと、奪えと叫んでいる。今この場で理性を喰い散らかし、全てを失ってでも殺せと吼えている。

 アルが欲しくても手に入れられなかった親の愛。代替として存在していた姉の愛。それらを奪った張本人が、目の前で愛情たっぷりの光景を見せ付けているのだ。その愛、奪わねば、蹂躙せねば気が済まない。

(落ち着け馬鹿が。今この場で何か出来るわけがねーだろ!)

 こんなところで復讐を完遂しても意味がない。大本の、根本的な部分が水泡と化すだけである。天を掴むどころか地に逆戻り。しかも自らの意志で落ちたならば、もはや上がることなどできようはずもない。するべきでもない。

「えへへ。ごめんなさい」

「えへへではない。お前というやつはほんとに――」

 ウィリアムは仮面の奥で、己が内側で『アル』を踏みつける。しっかりと、思いっきり丹念に踏み潰す。吼えようがどうしようが、一歩たりとも己が支配権は渡さない。もはやヴラドを殺すことなど一過程。それでつまづくなど愚行でしかない。

「――とにかく一度下がりなさい。あとは私が話しておきます」

「ぅぅ、わかりました。それではウィリアム様、御機嫌よう」

 しょんぼりと退出していくヴィクトーリア。去り際の姿も淑女とは遠く、ヴラドはまたも深いため息をついた。そしてウィリアムの方を向き深々と頭を下げる。

「申し訳ない。わが愚娘が粗相をしてしまいましたな。あれの姉たちはもう少しおしとやかに育ったのですが……しかしこれだけはわかっていただきたい」

 ヴラドの眼が光る。それを見逃すほどウィリアムも抜けてはいない。

「あれは貴方に心底惚れているのです。あの日、あれを初めてあのような場に出席させました。ええ、そうです、私とウィリアム君が出会った日、暗殺者から私たちを守ってくれた、煙が消え月光が君を照らし顔を拝見したあの日。あの日以来ヴィクトーリアは一時としてウィリアム・リウィウスを思わぬ日はなかったでしょうな」

 ウィリアムは改めて自身の足元から這い上がる声を踏みつける。そのような声に惑わされている場合ではない。ヴラドが方針転換し、娘のミスを利用してウィリアムを再度囲い込もうとしている。逃げ辛さではおそらく此方の方が上。

「踊りも作法も、およそ貴族の娘らしいことは何一つ興味のなかったあの娘が、貴方を思い一念発起したのですよ。すぐに飽きてしまったようですが。ま、まあ誰にでも向き不向きは在るでしょう。ええ」

 情に訴えかけてくる。

 これほど娘は君を愛している。では君はどうかとヴラドは問いかけてきているのだ。

「ありがたい話です。ですが」

 これ以上相手を乗せるわけにはいかない。

「私は騎士位を得たとはいえ未だ市民階級。貴族の、しかも伯爵家のお嬢様と愛を育むなど分不相応でしょう」

 ウィリアムの切り返し。ヴラドはこゆるぎもしない。

「私が良いと言っているのだよ。それでは不足かね?」

 ヴラドの詰みの一言。上位のものにこう言われたならば何も言えない。

「…………」

 ウィリアムは幾通りもの選択肢を模索する。しかし有効なルートはない。そもそもヴラドが本気で推せば下位の存在であるウィリアムは是と言うしかなくなる。結局のところ今のこの場はヴラドの裁量次第なのだ。

「少々意地悪だったかな。すまないね。だが娘は本気だ。そして私も本気だということ、少し頭に置いておいてくれたまえ」

 ヴラドの微笑み。ここで手打ちにしてやったという意図を感じる。急ぎ落とすつもりはないが、ウィリアムを取り込む気があるのは間違いない。すでにヴラド伯爵の蜘蛛の巣に引っかかっている感覚もある。

「……わかりました」

 ウィリアムは一言搾り出すことしか出来なかった。何かを付け足せば必ずその粗を突いてくる。ヴラドは文官としてかなりの経験を積んでいた。言葉の操り方、誘導方法、仕草や癖、多くに精通しているのだ。

 武官としてここまで成り上がったウィリアムだが、文方面はまだまだ素人のようなもの。対するは日常をそれに費やすプロ。勝つための経験が足りない。

「そう言えば忘れていたね」

 ヴラドはおもむろに甘い香りを放つぶどう酒をグラスに注いだ。それをウィリアムに勧め、自身もまたその手に持つ。

「遅れてしまったが乾杯といこう。私たちの出会いに」

「出会いに」

 グラスが鳴る。クリスタルガラスの耳障りの良い音色。

 ウィリアムとヴラド、開戦の音である。


     ○


 ウィリアムは中身の一切ない、しかし緊張の抜けないヴラドとの談笑を終えた。飲んだ上質のぶどう酒はグラス四杯ほど。もちろん酔い潰れたならば、翌朝にはヴィクトーリアの横で呆然と起き上がるウィリアムがいたはずである。

 口撃と酒攻、この二つをとっても手違いは許されない。口が滑れば相手に利用され、酒に溺れれば知らぬ間に既成事実が作られる。隙を見せたらまずいのは戦場と同じ。否、こういう場が文官の戦場なのだろう。力で道理を引っ繰り返せない分、此方の方が難しいこともある。

「とても楽しい時間だった。これほど充足した時間はなかなかにない」

 満足げなヴラド伯爵。得たものはつながり。ウィリアムとのコネクション。

「もうすぐ冬だ。アルカスから離れることもなかろう。また来なさい。娘も楽しみにしている」

 ウィリアムは騎士位と引き換えに、ヴラド伯爵を半分身の内に入れてしまった。もちろん避けることなど不可能であったが、この騎士位、存外高くつく可能性もある。

「もちろんです伯爵。必ず再訪させていただきます」

「伯爵などと他人行儀な。この際、父上とでも呼んでくれまいか」

 冗談めかして言っているが、眼は笑っていない。

「あははは」

 返答は避ける。どのような返答でもこれはドツボにはまる。肯定的な返答なら利用され、否定的な返答でもやはり利用される。沈黙は金。少なくとも今は笑って誤魔化すしかない。

「それでは失礼させていただきます。本日はお会いしていただきありがとうございました。色々含め、この返礼は後日必ず果たさせていただきます」

 ヴラドは「ほう」と眉をひそめる。色々、つまり騎士位の返礼。それをどのような形で返すのか、返すと明言した以上ウィリアムは何かで返すつもりなのだ。形あるものか、それとも形なき物か。

「楽しみにしているよ。我が友ウィリアム・リウィウス」

 握手を求めてくるヴラド。それに笑顔で応じるウィリアム。

「ご期待に沿えるよう、善処いたします」

 そう言ってウィリアムはヴラドから手を放し、くるりとマントをはためかせ背を向ける。

「それでは」

 歩き去っていくウィリアムの背を、無表情で見つめるヴラド。その眼は最後の一挙手一投足まで品定めを続けていた。自分が得た駒の性能を確かめるように。


     ○


 ウィリアムは歩きながら今後の立ち回り方を考えていた。ヴラドとの出会いはウィリアムを大きく前進させた。ただの百人隊長と騎士位を持つ百人隊長では扱いが大きく異なる。ウィリアムは市民階級であるので、一部貴族階級の権利を持ち合わせている騎士位はやはり大きい。その代償としてヴラドを身の内に入れることになったのだが――

(暗殺の刻限。どうやら果たせそうだな)

 ウィリアムとしても今回の展開、実は相当おいしい状況であった。ヴラドを殺すための算段、身の内に入り込むことによりかなり簡単なこととなる。あとはどう演出するか、どう殺すかだけ。もちろん骨の髄までしゃぶりつくした後に、だが。

(とはいえ上手く立ち回らないとな。入りすぎても足枷になるし、入らなければ良い演出が出来ない。最大五年待たせるんだ。最高のショーにせねば。もちろん俺に疑いがかからぬように)

 ここからはあらゆるものが入り組んでくる。責任の大きさが、立場の上昇が、多くの人との関係が複雑に入り組み、天上の世界への道、障害へと変わる。一歩違えれば死を招く恐ろしい世界。高みに上がれば上がるほど、間違え堕ちた時の衝撃は大きくなる。

(さて、どう利用する? 俺を利用しようとしているこの家を――)

 ウィリアムの唇に白いもやが触れる。急に舞い降りた冷たさに、ウィリアムの思考はほんの少しだけ停止する。白いもや、ふわりとした雪、冬の訪れである。

(道理で今日は冷えると思った。まあ積もるほどじゃないだろ)

 昼はまだ問題ないが、夜はかなり冷え込む。冬の足音。そして奴隷身分や下層民にとっては死の足音でもある。毎年厳しい冬を乗り切れず凍死するものは多い。食べ物も蓄えているとはいえ貴重になってくるし、蓄える余裕なき者は餓死するしかない。冷えと飢え、冬は多くの命を奪っていく。

 もはやウィリアムはその立場にいない。高給取りの剣闘士の王として君臨するカイルも、盗賊稼業でしっかり一流のファヴェーラも、冷えと飢えを防げる立場。考えればよくぞここまで来たものである。姉と暮らしていたときは何度も死を覚悟したというのに――

(ねえさん。俺は強くなったよ。冬はもう怖くない。お腹いっぱい食べているし、あったかい毛布に包まって寝れるんだ。それでも、あの日々ほど満たされないのは何でかな?)

 ウィリアムはふと、がろんどうな自分に気付く。亡者の怨嗟で満たされている自分とは別の自分、そこはぽっかりと大きな穴が空いたまま朽ち果てつつある。昔は姉がそこを満たしてくれた。今は何もない。カイルやファヴェーラではそこを埋められない。埋めるわけにはいかない。

 そこに欠けているモノを、ウィリアムはわからないでいた。わかっていても、そこに誰かを、何かを入れるのが怖かった。ウィリアムもカイルと同じ、喪失を恐れている。カイルとの違いは初めから持とうとしないこと。守るものがなければ、愛すものがなければ、失うことはない。カイルとファヴェーラを突き放しているのも、結局はその弱さゆえ。

 ふと、脳裏に浮かぶ人の姿。それをありえぬとウィリアムは首を振る。


「あ、あの。ウィリアム様」


 久方ぶりの思考の隙。その間隙を縫うのはいつも『あの女』と決まっていた。朝方の己を組み上げる前、そこで交わすほんの少しのコミュニケーション、それだけであったはず。

「な、何故貴女が。しかもそのような薄着で寒くはないのですか!?」

 ベルンバッハ邸から最初の曲がり角、と言っても少し歩く必要のあるところに、先ほど初めて会ったばかりのヴィクトーリアが震えて立っていた。先ほど身にまとっていたドレスは着ておらず、おそらくは寝巻きであろう格好。寒くないわけがない。

「さ、寒くありません」

 無駄な強がりに耳を貸さず、ウィリアムは羽織っていたマントを肩にかけてやる。この所作も親切心からではなく、現状上に立つヴラドを怒らせぬためのこと。無視などしたらどうなるのか見当もつかない。そこまでウィリアムを愚かではなかった。

「も、もう冬ですね。こんなに寒いとは思わなかった」

 ヴィクトーリアは「えへへ」と笑う。そこに最初見せた楚々とした雰囲気はない。ないのだが――

「当たり前です。そのような格好で……いつからそこに立っていたのですか」

 ヴィクトーリアは指折り数えようとするも、そもそも夜に時間を数える術がないので指を折っても仕方がない。少し考えた後でそれに気付いたのか、ヴィクトーリアは少し顔を赤らめて顔を伏せた。

「お父様の私室から退席して、お部屋に戻って、え、と、その後すぐいてもたってもいられなくて、そこから待ってました」

 ウィリアムは愕然とする。ヴラドと話していた時間はかなり長い。そこから待っていたとなると一時間や二時間では済まない。その中をこの薄着で待っていた。

「何故そのようなことを。この時期でも凍死者はいるのですよ」

 酒を飲み外で潰れて、そのまま凍死するものも出てきている。決してこの時期の寒さをなめてはならない。

「凄くお恥ずかしいところを見せてしまって、嫌われていたらどうしようとか、色々頭がぐるぐるして、もう一度会ってお話をして汚名挽回したいと思いました」

(見事に汚名を挽回したものだ)

 ヴィクトーリアは言葉違いに気付くこともなくまたも「えへへ」と歯を見せて笑う。貴族らしさの欠片もない姿。だからこそまずい。

「呼ばれたなら何度でも伺いますのに」

「本当に!?」

 ぐいっとヴィクトーリアはウィリアムの近くに寄る。冷たいかじかんだ手でウィリアムの手を握り、顔は鼻先十センチも離れていない。

「あの、私、あの時凄く怖くて、お父様の後ろで震えていたの。そうしたらばばーんってウィリアム様が敵を倒してくれて、お父様を助けてくれて、私も、助けてもらって。……初めてだったの! 男のひとを見て胸が熱くなったのは! 物語の中の王子様みたいに綺麗で、かっこよくて。あの日から私、ずっとウィリアム様のことを考えてた。いつか会いたいって、ずっとお祈りしてた」

 怒涛の如くしゃべり倒すヴィクトーリア。嬉しそうに、本当に嬉しそうに話している。その言葉に嘘がないのはウィリアムにも理解できた。今のウィリアムなら嘘を察知する程度難しいことではない。嘘のにおいは、まったくなかった。

 恐ろしいほどに剥き出しの感情。

「そうしたらお父様がウィリアム様を騎士に推挙するっておっしゃったの! よくわからなかったけど、そうしたらもう一度会えるってお父様が言われて。嬉しくて飛び上がっちゃった。えへへ」

 笑い顔を見て、ウィリアムは顔を歪めそうになる。その顔があまりにも――

「お姉さまや妹たちを集めて大会議したの。その議題がウィリアム様と結婚する相手をどうするかで、私即座に手を上げたわ。本当は一個下の妹が第一候補だったらしいけど、エルネスタには事前にお菓子をあげて買収済み。棄権させて私が会えることになったの」

 ぶすっとヴィクトーリアは顔をちょっとだけ伏せる。

「その日から礼儀作法とか言葉遣いとか色々勉強しようと思ったんだけど、全然これっぽっちも頭に入らなくて、お菓子は我慢したのよ。本当に。ちょっとだけ食べたけど」

 何と言うか、色々と隙だらけな人物である。ウィリアムが出会ってきた人たちの中で少し異質な相手。女版カールといったところか。結構ダメダメな感じであり、自分を曝け出すことに抵抗がない点は共通している。

「案の定失敗して、嫌われちゃったって思ってお菓子をやけ食いしたの。でも胸がもやもやして、ベッドで転げまわって、落っこちちゃって、おでこを打って、それで思いついたの。そうだ、お話をするために待ち伏せしようって」

 よく見るとヴィクトーリアの口元にはお菓子のカスがついている。おでこも少し腫れていて赤くなっている。本当に貴族の令嬢なのかと疑いたくなってしまうほど、ヴィクトーリアは少し、否、かなりおかしかった。

「そうしたら会えた!」

 ヴィクトーリアの満面の笑顔。それをウィリアムは恐ろしいと感じる。

「貴方が好きです。初めて会ったときから、今日触れてもっと好きになりました。私と結婚してください。至らないところは多いけど、そこは愛があります。あと身体を動かすのとお菓子作りは得意です!」

 あまりにも直球。曲がり道など一切なく、嘘も方便も一切なく、ただ思ったことをそのまま口に出す。そのあまりの勢いに――

「く、くく、あははははははははははははは!」

 ウィリアムはつい笑い出してしまった。自分に嘘をつき過ぎて、何が本当かわからなくなって、本当に笑ったのは、こういう笑いはいつぶりだろうかと、そういう打算的なことなど何も考えず、ただただ笑ってしまった。

「わ、笑いどころじゃありません。私は本気です!」

 ヴィクトーリアはそれにむっとしてぷりぷりと怒る。その姿にまたも噴き出しそうになるが、そこは抑えてヴィクトーリアを見る。

 ウィリアムは理解する。

「申し訳ございません。ただあまりにも勢いよく告白されたもので。このような経験は初めてなのです。私は女性とこんなにも近づいたことはありませんから」

 ウィリアムに言われて距離感に気付いたのか、ヴィクトーリアは少しだけたじろぎそうになるのをぐっとこらえて、顔を赤くしながらさらにぐいっと寄って来る。

「女性とお付き合いしたことはないのですか?」

「ないですね。ずっと戦場におりましたので」

「お国に許婚は?」

「いませんよ。いたらこの国に参っておりません」

 ヴィクトーリアは小さくガッツポーズをする。いちいち大げさに感情を表現するのがヴィクトーリア流らしい。ますますもって貴族っぽくない。

「じゃあ私と結婚しても問題ありませんね!」

 ずずいと寄りかかるヴィクトーリア。そう来たかとウィリアムは苦笑い。

「折角の出会いです。私はこの出会いをもう少し大事にしたいと思っています。ヴラド様やヴィクトーリア様に出会えたこの幸運、このつながりをゆっくり育みたいのです」

 暗に断られたことに気付いてがーんとショックを受けるヴィクトーリア。

「……お好きな方がおられるのですか?」

「いませんよ。そういうことではなく、お互いを知る時間が欲しいのです。焦る必要など何処にもないではありませんか。私を知り、幻滅することもあるかもしれません。その時後悔しても遅いのですから」

 うつむいているヴィクトーリア。ほんの少しの沈黙の後、口を開いた。

「後悔しません。この気持ちを失う方がずっと後悔すると思います。でも、時間が必要なのもわかります。焦り過ぎたかもってちょっぴり思っています。えへへ、これからですよね!」

 顔を上げたヴィクトーリアはやはり笑顔。にっこりと満面の笑み。

「もっともっとウィリアム様を知って、もっともっとウィリアム様を好きになって、そして必ずウィリアム様に好きになってもらいます! 私の全力をとくと受けてみよ!」

 そう言ってヴィクトーリアはがっちりと抱きついてきた。雪が蕩けるほどの情熱を持って、ヴィクトーリアなりの宣戦布告である。

 ウィリアムは理解する。この女、自分にとって恐ろしく危険であると。

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