093 退魔腕2-1


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 ヨシカゲの目覚めは最悪だった。


 ベッドからのっそりと起き上がる。部屋にある小型の冷蔵庫からコーラを取り出し、半分ほど飲んでまた冷蔵庫へ。ヨシカゲの飲んでいるコーラは近所のスーパーに売っている安物だ。350ミリで59円。安い分だけ味も粗末で、べらぼうに甘い。だからこそヨシカゲのお気に入りだった。


「今日は……学校を休もう」


 誰もいないのにそう呟く。


 そもそもヨシカゲはリサがこの屋敷に来るまではまともに学校に行っていなかった。最近きちんと登校するのは一重にリサがうるさいからだ。


 ――まったく、女というのはどうしてそう俺に干渉してくるのだ。


 分からなかった。


 部屋の扉がノックされる。それから数秒の時をおいて目覚まし時計が鳴り出す。


 リリリリリ。


 ヨシカゲは即座にアラームを止めた。


「ご主人様、おはようございます」


「ああ」


 扉のあちら側からリサが声をかけてくる。これでもし返事をしなければ部屋の扉を開けて直接揺り起こすのだが、今日は目覚ましよりも早く起きていた。


 普通、目覚ましに叩き起こされれなければ気分は良いはずだ。しかしヨシカゲは憂鬱だった。


 感情らしい感情を持たぬヨシカゲだが、悪感情というものには敏感だった。むしろいつも感情の発露がない分、一度嫌だなと思ってしまうとそれがどんな些細な事でも精神的にくるのだ。


 もっとも、それは他人から見てほとんどいつもと変わらないのだが。


「入ってもよろしいですか?」


「ああ」


 ヨシカゲはベッドに腰掛けていた。わざとらしく頭を抑えている。


 それを見てリサは冷たい視線を送る。


「どこか体調でも?」と、心配していなさそうな声で聞く。


「頭が痛いんだ……たぶん風邪だ」


「嘘ですね」


「ああ、嘘だ。本当はビビのせいだ。……あのオカマは?」


「お外です」


「外?」


「はい。外で鍛錬をされていましたよ。見てみますか?」


 いや、いいと首を振る。起き抜けにあんなやつの顔を見たら今しがた飲んだコーラを全て吐き出してしまいそうだ。


「ときにリサよ、俺は今日学校に行きたくないんだが」


「そうですか」


 相槌はうちましたが肯定はしていませんよ、というようにリサは静かな目をしてヨシカゲを睨んでいる。いや、睨むというよりも軽蔑一歩手前だろうか。


「ふむ……寝る」


「ご主人様、朝食はあと30分ほどで出来ます。すぐに起きてください。そして顔を洗って学校に行く準備をしてください」


「嫌だ」


「駄々をこねないでください。どうせ来週からは春休みじゃないですか、あと少しなんですから、学校くらい毎日行ってください。それとも、私の能力でご主人様の感情を消しましょうか?」


「そんなものはそもそもない」


「じゃあなんで学校に行きたくないんですか」


「ただ……面倒だ」


 感情がないと言っても喜怒哀楽に乏しいだけである。妙なことに面倒という感情だけは幼い頃から変わらず普通に残っているのだ。


「そんなんじゃあロクな大人になれませんよ」


「ならなくてもいい」


 押し問答だ。


 しかしリサはこれで諦めるというようなことはしない。むしろ説得を続ける。一時間でも、二時間でも、ずっとだ。けっきょくいつも根負けするのはヨシカゲの方だった。リサの話を聞いている面倒さよりは、学校に行ったほうがまだマシだ。


 ではなぜこんな事を言うのかというと、ようするにお約束なのだ。ここ三ヶ月ほどだろうか、ほとんど毎朝こんな会話を続けている。最近ではヨシカゲも工夫を覚えて、仮病なども使うようになったが全く効果はない。


 ヨシカゲはしぶしぶ部屋を出ると、洗面所に行き顔を洗う。


 水が冷たい。


「どうぞ、タオルです」


 後ろからリサが清潔な白いタオルを差し出す。


「どうも」と、受け取ったヨシカゲは鏡越しにリサの姿をまじまじと見た。


 世間一般で言えば間違いなく美人のたぐいだ。感情に乏しい悪癖も、美貌のおかげでミステリアスな魅力を演出する一種のツールとなっている。声はささやくようなウィスパーボイスだ。これで子守唄でも歌ってもらえば泣く子も眠るだろう。特徴的な栗毛は軽やかにスキップするようにウェーブしている。強いて欠点を上げるとすればその行き過ぎたロリータ趣味だが、ヨシカゲは別になんとも思っていない。


 見つめていると、リサの顔が少しだけ赤くなった。だが表情は変わらない。


「ご主人様――早く顔を拭かれては?」


「ああ」


 ゴシゴシと顔を拭く。


 ――まあ、メイドっていうのも悪くないな。


 家事の一切をやってくれて、しかも無償だ。居てくれて困ることは殆ど無い、助かることだらけだ。


 顔をあげるとリサはもう居なくなっていた。朝食の準備に行ったのだろう。


 タオルをそこいらに放り投げる。


 学校の準備と言っても着替えるだけだ。いつも朝のこの時間はリサがもう一度書斎に呼びに来るまで本を読むことにしている。毎日朝30分の読書タイムだ。


 しかし、今日はそうならなかった。


 廊下から外を見たら、ビビがいた。


 ビビもヨシカゲの方に気がついたようで投げキッスを一つ。そして手招きをしてくる。


「無視だな」


 自分に言い聞かせるように呟く。


 だが、ビビが何かを言っている。ヨシカゲは目を凝らし口の動きでその言葉を読み取る。


『こなきゃ後でキスするわよ』


 やりかねない。


 というかビビの場合は絶対にやる。そういう男なのだ、あの女は。


 ヨシカゲはまず部屋に戻り、退魔刀を腰に差す。そして外に出た。


「ちゃんと来たわね、感心感心」


 ビビは使い込まれたカンフー着を着ていた。


 ブルース・リーやジャッキー・チェンが映画でよく着ているあれである。


 黒いジャケットは首元までしっかりと襟でかくしている。。袖は折返されており、そこは白くなっている。ズボンはどこかダボダボで、その足運びは見えづらくなっている。しかし右腕のある部分だけは、肩口から切り裂かれており赤く光沢のある布でテーピングされた長い腕だけが異彩を放っている。


「なんだよ、朝からそんな服着て。コスプレか?」


「そう見えるかしら?」


「ジェット・リーには見えないな」


 ビビはクスリと笑うと、すばやく構えた。


 左手を眼前に、右手をだらりと下げた特徴的な構え。そうだ、これは中国拳法の構えだったのだ。ヨシカゲはようやっと思い出す。そういえばビビは中国系の技を使うのだ。


「構えなさい、ヨシカゲちゃん。朝の運動よ」


「断る」


「キスするわよ」


 しょうがないので退魔刀を近くに置き構えた。ヨシカゲは無手ではあまり戦わない。しかしそれは戦えないのではない。ただ退魔刀があればそれを使うというだけだ。


 ビビが左手で「こい」と示す。


 ヨシカゲは左手で軽くジャブを打った。


 だが、あたったと思った拳にまったく手応えはない。ビビは半歩ほど後ろに下がっただけなのだ。まさに紙一重で当たっていない。


 ふふん、とビビが笑う。


「遅いわよ、ヨシカゲちゃん」


 ムキになったわけではない。


 たださっさとこの茶番を終わらせたかったのだ。


 だかギアを上げるように速度を上げていく。


 右、左、右、右。小気味よく拳を繰り出す。


「うーん、ちょっと早くなってきたわね。最初からそのつもりできなさい」


「うるせえ」


 全て空振りだ。まるで最初からどこに拳が飛んでくるのか分かっているようだ。


 ヨシカゲだって格闘がそう下手なわけではない。だがこれではまるで大人と子供だ。


「攻撃が単調なのよ。これまでずっと退魔刀に頼って戦ってたでしょう?」


 ビビの左がえぐるようにヨシカゲの頬を撃ち抜く。


「くっ!」


 倒れるのを必死で耐える。


 ビビはニヤリと笑った。


「根性は良いわね」


 しかし、耐えたのは失敗だった。ビビの左手はそのままヨシカゲの服の襟元を掴む。


 世界が、一回転した。


 どうやって投げられたのか分からない。だが、ヨシカゲはハムスターが回る輪っかのように横向きに投げ飛ばされたのだ。


 強かに地面に落ちる。


「ほらほら、すぐに立ち上がる。私が敵だったら待ってくれないわよ」


「クソ、人が不死身だと思ってバカスカやりやがって」


「あら、そう言えばそうだったわね。じゃあもっとやってあげるわ」


 立ち上がったヨシカゲは面白いほどにボコボコにされる。反撃しようにもその暇がない。まさに突風のような拳だ。


 ヨシカゲは体勢を立て直そうと後ろに下がる。


 だが――。


「甘いわよ」


 ビビの右手が伸びてくる。


「なっ!」


 右肘を掴まれた。


 完全に虚をつかれた。まさか動くとは思っていなかった、それくらいビビは右手を今まで使用していなかったのだ。


 また、その長さも想定外。


 右肘を掴めるほどに伸びるとは――。


「そおぉれっ!」


 そのまま引っ張り寄せられる。


 そして左手でアッパーカット。


 顎を強かに打たれた。


 ヨシカゲはその場に崩れ落ちる。脳を揺さぶられた、いかに不死身のヨシカゲであろうともしばらく動くことはできない。


「ちょっとちょっと、これで終わりぃ? まったく、ヨシカゲちゃんったら。全然クンフーが足りてないわ。運動不足なんじゃない?」


「うるせえ……こっちはあんたと違って暇じゃないんだ」


 誰が朝からカンフーアクションをしたいものか。


 ヨシカゲにとって朝は知的な読書の時間なのだ。汗臭い鍛錬なんてできることならやりたくない。


「口だけは達者なんだから。それでまだやるかしら?」


「当然だ」


 ヨシカゲはなんとか立ち上がる。


「あらあら、口だけじゃなくて根性も合格点だわ。そういう頑張る男の子、好きよぉ」


 ビビが自分の唇をぺろりと舐めた。


 悪寒がして一瞬力が抜ける。


 そこに、蹴りが飛んできた。


「ったく、卑怯なやつだな!」


 ギリギリ避ける。


「殺し合いで卑怯だなんて言ってられないわよ」


 喋りながらも二人は攻防を繰り広げる。ビビは右手も使い始めた。ヨシカゲは確実に押され始めている。


 ビビの戦い方は相手の攻撃をいなしてカウンターをとるというもの。一方でヨシカゲのそれはボクシングの要素が見え隠れするものの、基本はただの無手勝流だ。喧嘩でならばこれでも相手を制圧できるだろうが、ビビは玄人だ。力の差は歴然である。


「まったくヨシカゲちゃんったら――」ヨシカゲの回し蹴りを避けながらビビはわざとらしいため息をつく。「この分じゃあ剣技も酷そうね。師匠に教えてもらった事はどうしたの?」


「あの人の話は、するなっ!」


 パンチが大ぶりになった。


 そこを狙われた。伸び切った腕を捕まれ、ビビの体が反転した。そのままヨシカゲの腕を方に乗せて、一本背負いだ。


「うわっ!」


 背中から地面に落ちる。


「はい、私の勝ちね。まだやるかしら?」


「当然っ!」


 ヨシカゲはすぐに立ち上がる。背中の痛みは少しずつ消えていく。治癒能力はかなりのもの、しかし鈍い痛みが体中にある。本当に、ビビには良いようにされた。


「あら、ヨシカゲちゃん。屋敷の方を見てみなさいよ」


「そう言って、隙きをつくつもりだろう?」


 その手にはのらない。


「違うわよ、ほら。リサちゃんが見てるわよ。気になるのね、格好良いところ見せなくちゃね」


「なら負けてくれ」


「それとこれとは話が別よ」


「そうかい」


 ヨシカゲ身を低くして構える。今までよりも低い。


「あらんっ?」


 ビビが楽しそうに呟く。


 隠し玉だ。


 ヨシカゲの足は、そのまま動かない。ビビも待つつもりなのだろう。じっと二人は隙を伺う。そのお見合いはいつまでも続くかに思われた。


 だが――ヨシカゲが急速に前に出た。


 しかし足はまったく動いていない。


「なっ!」


 ビビの目が驚愕に見開かれた。


 さっきの意趣返しのアッパー。完全にヨシカゲが隙をついたのだ。これは避けることなどできない。


 だが、ダメだった。


「今のは良かったわね」


 ビビの赤い腕が、ヨシカゲの拳を止めていた。疾い。ヨシカゲの目には腕が動くことすら見えなかった。


「じゃあ食らってほしかったもんだぜ」


「ま、人生そこまで甘くないってことよ。そもそも私、ヨシカゲちゃんみたいに不死身じゃないんだから。このお顔に傷がついちゃあ世界の損失よ?」


「言ってろ」


 二人は拳を引いた。言葉をかわさなくても、今日はここまでだというわけだ。


「それなりの運動になったわね。お風呂でもいただこうかしら。ヨシカゲちゃん、一緒に入る?」


 無視した。


 振り返り屋敷の方を見ると、リサが本当にこちらを見ていた。薄く微笑んでいる。人がボコボコにされるのを見て楽しいのだろうか? ヨシカゲは分からなかった。


 あまりいい趣味とは思えない。


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