061 悪魔1-1


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 彼女は悪夢のせいで飛び起きた。


 時刻を見れば朝の八時半。目覚まし時計は七時にセットしたはずなのにいつの間にか止まっていたようだ。もしも時間通りにきちんと起きられば、悪夢など見ずに済んだのだと思うと、起きられなかった自分が恨めしい。


 しかし、しょうがない事だ。ここのところ寝るたびに悪夢ばかり見て不眠症気味だったのだ。久しぶりにぐっすり眠れたのが昨晩。しかし目覚めはいつも通り最悪だったが。


 とりあえずテレビをつける。健康的な顔色をしたアナウンサーがやけにハキハキとした口調で喋っている。


 ベッドから這い出て洗面所へと向かう。自分でも笑ってしまうくらいのクマが目の下には浮かんでいる。いかにも寝不足でございますというふうだ。


「ブスに見えちゃうわ」


 と、自嘲気味に言ってみる。


 もちろんそんな事、微塵も思っていない。


 顔を洗い、歯を磨き、服を着替え――としていると、呼び鈴が鳴った。モニターで確認するとマネージャーである城山の冴えない姿が映っていた。


『おはようございます、城山です。花園さん、起きてますか』


 起きたばかりよ、と花園はイライラと思った。低血圧のせいで寝起きはいつも不機嫌なのだ。


 何も言わずにロックを解除する。


 20階建てのオートロックマンションとも今日でおさらばだ。しかしこの部屋も親が与えてくれたもので愛着の一つもない。


 まとめられた荷物は一足先にあちらに送ったので、実に殺風景な部屋だ。残ったベッドと洋服ダンスは明日にでも業者が引き取りに来る。


 着替えを終えた頃、城山が部屋の前まで来た。


 チャイムを鳴らすだけで良いのに、ドンドンと扉を叩いてくる。うるさいことこの上ない。借金取りでもあるまいし。これだから田舎者は、と花園は顔をしかめた。


「花園さん、開けてください、開けてください!」


「うるさいわね……」


 ドアを開けると城山はなだれ込むように部屋に入ってきた。その勢いで転けてしまう。


 バカなのかしら、こいつは。と花園は憐憫れんびんの目で城山を見てしまう。それとも天然の振りをしているだけなのだろうか。こんなコントみたいな事、アニメの中だけで十分だった。


「イテテ、転けちゃいました」


 立ち上がりながらずれたメガネを直す城山。ぜんぜん可愛くない、と花園は思った。


「どうですか、準備できてますか?」


「できてるように思う?」


 まだ化粧もしていない。


「え、そんな。早くしてくださいよ」慌てたように城山が腕時計に目をやる。「出発は八時半って言ったじゃないですか」


「あんた、いつから私に命令できるほど偉くなったの?」


「そ、それはそうですけど。でも私にだって予定があって……」


「すっぽかせば良いじゃない。それであんたが事務所をクビになれば私が清々するわ」


 あはは、と花園はわざと笑う。これで怒れば良いものを、城山はシュンとなって縮こまった。


 まったく、10も歳の離れた小娘にこんなにバカにされて悔しくないのだろうか。それとも人間、27にもなればプライドなんてものもなくなるのだろうか。分からないし、分かりたくもないが。


 花園は部屋に行き化粧品を取り出す。どれも高級なもので、普通であれば高校生である花園に買えるものではない。もっとも彼女の家は裕福だから小遣いで買うこともできるが。しかしこれは、彼女が自分の稼ぎで買い揃えたものである。


「あのぉ、それでどのくらい掛かりますか?」


「5時間」


 と、花園は適当に答える。


「そ、そんなに!」


 嘘に決まってるじゃない、と言おうと思ったがそれも面倒なのでやめた。


 城山はハラハラとした様子で花園を見つめる。鬱陶しい。


「ちょっとあんた、そんなにこっち見ないでよ」


「す、すいません」


「ったく、そんなに暇ならアニメでも見てなさいよ。昨日も私の出てるやつ、放映されたでしょ」


「あ、はいバッチリ見ましたよ! あ、もしかして花園さんも見てたんですか? その目の下のクマ!」


「うっさいわね、これは違うわよ」


 誰があんな夜中の番組を見るか。あんなもの、録画しておいて1・5倍速で一応見ておく程度のものだ。おめでたい人間は、夜中に更新された花園のSNSをリアルタイムで視聴しているものだと思って勘違いしているだろう。


『第九話視聴中! このお話、本当に面白いからミナも毎週楽しみ』


 しかし実際にそれを書いているのは目の前の城山だった。


 仕事とはいえ、毎晩ご苦労な事だ。しかもその翌朝にはこんな小娘の足になれなければいけない。私ならできないわ、と花園は高慢に思った。


 化粧は薄ければ薄いほど、受けが良い。という事を花園はよく知っている。彼女のファンたちはそもそも女性がする化粧というものをよく知らないのだろう。だから唯一の比較は自分の母親の厚化粧であり、それとは真逆のナチュラルメイクを清らかなもの、素晴らしいものとして崇拝する。女性が美しくなりたいという願望は同じだというのに。


 マスカラを塗っていると城山が本当にアニメを見始めた。


「ちょっと、本当に見るの?」


「え、だって花園さんが……」


「別に見なくてもいいわよ、そんなの」


「でも面白いですよ?」


 オープニングが始まった。メインヒロイン二人による女性同士のデュエット曲だ。明るい曲調とポップなリズム、そして電波な歌詞。これでなかなか、今期のアニメでは評判の良いオープニングだった。


 思わず鼻歌まじりになる。


 オープニングを歌っている二人のメインヒロインのうち、一人は花園が声をあてているキャラクターだったのだ。


「いい曲ですよね」


「うるさいって」


 しかし花園もこの曲は気に入っていた。どうも売上が良さそうだからだ。アニメ自体も人気で、このままならば二期も制作されるかもしれない。長い付き合いになる可能性もある。


 そういう考えでいけば、もう少し真面目に作品を見ておいたほうが良いかもしれない。しかし今期だけでも花園がメインをはる作品は二作。サブヒロインまで入れれば5作だ。文句なしの売れっ子声優。あまりの多忙さに一つ一つの作品に愛着など持っていられない。


「にしても、わざわざこんな時期に引っ越さなくても良いんじゃないですか?」


「あんたには関係ないでしょ」


「だって、東京に居たほうが仕事も楽で――」


「この事は社長とも話をつけたの。たかだかマネージャのあんたに、これ以上言われる筋合いはないわ」


「いや、私は花園さんを心配して――」


「余計なお世話よ!」


 この女に私の何が分かるものか。この苦しみを、辛さを、一刻も早く解放されたいという気持ちを。そのためにならば藁にもすがる思いなのだ。


 アニメがまるまる一本終わる頃、花園の化粧も終わった。


「じゃ、行きましょうか」


 待たせていたのは花園の方なのに、なんと尊大な態度か。それでも立場上、城山はペコペコと頭を下げる。


「あ、ちょっと待って」


 忘れるところだった、と花園は洗面所へ向かった。そこにある鏡の前で髪を二つに縛る。ツインテール。露骨なぶりっ子だがなんだかんだでこれが一番受けるのだ。


「これでよし」


「よく似合ってますよ」


「ったく、本当にうっさいわね。あんたは私のお母さん?」


 そういって笑いかけると、城山も笑った。けど、花園はそんな笑みが嘘であると知っていたのだ。自分は心の底から笑うことなどできない。この魂が呪われている限りは。


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