028 完全なる世界1-4
3
放課後の教室でフサ子に声をかけられた。
「ねえねえ、ヨシカゲくん」
「はいはい」と、適当に返事する。
「一緒に帰りましょー」
「はいはい」
「あー、適当に言ってるでしょー」
「はいはい」
俺はふと気がついて、スマホを取り出す。見ればリサから電話がかかっていた。なんの要件だろうか、面倒だからこちらからコールはしない。着信回数は一度だし、かかってきたのも昼の話だった。どうも急ぎの用件ではなさそうだ。
おおかた、帰りにスーパーで塩だの味醂だのを買ってこいという要件だろう。
「私さ、携帯電話って嫌いなんだー」
「あっそ」
俺の気のない返事にフサ子はむっとしたようだ。風船を膨らますように頬をはって、自分は不機嫌なのだぞとアピールしてきた。
しょうがないので、
「なんで?」
と聞いてやる。
そうすると、嬉しそうに笑った。
「あのね、携帯電話ってなんだかペットの首輪みたいでしょ。プルプルプルってかかってきたら、ハイモシモシ。それでどこへでも飛んでいっちゃうの。私の前からいなくなる。ドロン」
「そしたらキミもついていけば良いんじゃないの?」
「そうなんだけどね、今ならそうするんだけどね」
「ふうん」
じゃあ、キミは今も携帯電話を持っていないんだと聞くと、そうなのーとアホっぽい間延びした声で返された。
教室にはいつの間にか俺たち以外、誰もいなくなっていた。いつの間に、と思った、どうにも最初から誰もここにはいなかったかのようにガランドウだ。
外は夕焼け空だ。このまま瞬きするよりも早く夜がくるのだろう。帰らなければ、と不思議な焦燥感にかられた。
これは不味い兆候だ。俺の中にあるシックス・センスがつげる――危機感だ。
なにか悪い予感がした。
俺が席を立つと、フサ子もついてきた。
「ねえねえ、帰るの?」
「ああ」
「じゃあ、私も」
俺たちが教室を出て、廊下に出た瞬間、外が一気に暗くなった。秋の夜はつるべ落とし、と。暗幕を落としたかのような、瞬きの間だった。
「うわ、外もう夜だ」
「そうだな」
この町では時々、こういうおかしな事がおきる。夕方から一瞬で夜になったり、夏なのにみぞれが降ったり、逆に冬なのにサクラが咲いたり。そういった不思議な町なのだが……これは少しおかしな感じがした。
違和感の正体はすぐにつかめた。
音だ、不自然なくらいに静寂なのだ。
カツン、カツン。と俺達の足音以外の音が、まったくしない。ともすれば、フサ子の小さな呼吸音すら耳に入ってくる。
「ね、ねえ……」
フサ子も気がついたのか、不気味そうに俺の制服の裾をつかんできた。
「なんか、静かだね」
「ああ」
俺はすぐにでも日本刀が抜けるように、竹刀袋の口紐を解いた。
普通ならばこの時間、部活動をしている生徒たちの声がする。それだけではなく、残っている生徒たちのザワザワとした音だってするのだ。
廊下についている時計の時刻を見れば、まだ十七時にもなっていない。それなのに俺たち以外の人間が誰もいないのだ。教師の姿すらもない。
間違いなく異常だ。
俺たち二人だけが世界に取り残されたかのようだ。
こんなヤバそうな世界からはさっさと抜け出すのが吉だ。
俺たち二年生の教室は二階だった。校舎はコの字型になっており、教室が並ぶ教室棟と、理科室や美術室のある特別棟に分かれている。教室棟は三階建、特別棟は二階建てだ。
廊下の窓からは特別棟の二階が見えている……。どうやらあちらも人の姿はないようだ。
階段を降りる。そうすれば一階のはずだ。
だが、何かがおかしかった。
「あれ? ねえ、ヨシカゲくん……」
「ああ、妙だな」
俺は窓の外を見る。地面は遠い、そして遠くには特別棟の二階が――
俺達は階段を降りたはずなのに、まだ二階にいた。
「私達、三階にいたかな?」
フサ子がそう言って、また階段を降りていく。俺はそれを眺めている。折れ曲がった階段を降りていくフサ子。踊場を曲がり、その姿は消えた。
そうすると、どういう訳か上からフサ子が降りてきた。
「あれ……?」
「よぉ、フサ子」
「なんで、なんでヨシカゲくんが下にいるの?」
「なんでだろうなぁ」
フサ子は不思議そうな顔をしながら、何度も階段を降りていく。その度に上から戻ってくる。ハムスターが延々と円筒の中を回っているようだ。
「おい、フサ子」
下へと消えていく。「なぁ~」
「にぃ~?」上から降りてきた。
「もう辞めろ」
「はぁ……はぁ……たしかに疲れるだけだわ」
「……どうするかな」
「取り敢えず他の階段も試してみたらどうかな?」
「あまり意味のある行為とも思えないがな」
それにしても、フサ子のやつ、こんな状況でも案外ケロリとしている。普通ならばもっと取り乱すものだが。まあ、この腑卵町に住むいじょう、こういった超常の現象に出会うことも少なくない。そういう意味じゃあ、麻痺してしまう人間もいる。ある意味で、フサ子も狂っているのだ。
「たとえばね、工事中の道路で道を迂回していくみたいにね、他の階段なら大丈夫だと思うの」
「そうか」
俺は面倒なことはしたくないのでその場で立ち止まろうとしたが、フサ子に怒られた。
「もう、ヨシカゲくんも来るのよ!」
「そうなのか?」
「こんな場所に女の子一人にしないで!」
それもその通りか。
階段は教室棟と特別棟に一つずつあった。だからわざわざあちら側の特別棟まで行かなくていけない。ちなみに二つの棟をつなぐ連絡通路には職員室がある。
俺はあまり世話になることはないが。
この空間を誰かが作り出したのだとしたら、どこかにその痕跡があってもおかしくない。あるいはこれが結界としての役割を持ち、俺たちは偶然その中に入り込んでしまった。
ありえないだろう、もしもこの空間を誰かが作り出したのだとしたら、狙いは十中八九俺だ。
腑卵町の退魔師といえばこの業界では有名だ。俺を倒したとなれば名を挙げられると、俺のことを狙ってくるやからも時々いる。今回もその手のやつだろうか。
「フサ子――」
「な、なに?」
「すまんな、たぶんこれ、俺のせいだ」
「何が?」
「いや、まあ。なんにせよキミに迷惑はかけないから」
「……もうかかってるんじゃないかな?」
「だから、たとえば傷つけたりしない。何かあれば俺が守る」
「えっ! ちょっと待って!」
待って、と言いながら立ち止まったのはフサ子の方だ。
「どうした?」
「今の……もう一回言って」
「はぁ?」
「いや、だから……今の、もう一回……」
「どれだよ、今のって」
「だからっ! むぅ……」
フサ子はなぜかゆでダコのようになって黙りこくった。
俺は構ってられないと歩きだそうとする。だが、壁に小さく書かれたラクガキに目を留めた。
そこには星型の小さなラクガキが一つ、黒いインキで書かれていた。
「なにこれ、お星様?」
「いや、たぶんこれはセーマンだな」
「セ~マン?」
シーマンなら知ってるけど、とフサ子。
「この星型の文様は陰陽道の魔除けだ。セーマンドーマン。ここにある星型のものは安倍晴明、もう一つ格子模様の方は芦屋道満に由来すると言われている、知ってるか?」
「しらなーい」
「だろうな」
だが、これではっきりとした。敵は陰陽師だ。この結界は全てその陰陽師が作ったものだろう。
問題はその陰陽師だが……術士本人がこの結界の中にいればそいつを倒せばいいだけだ。厄介なのは結界の外で構えられた場合だ。しかし、その可能性は低いだろう。この学校を覆うほどの大規模の結界だ。術士を中心として結界を張っていると考えるのが自然だ。
どちらにせよ面倒だ。
高校生にもなって隠れんぼなんて、な。
脳天気なフサ子は何も考えていないようで、もうこの閉鎖空間にも慣れたのかスキップしそうなくらいの様子だ。
「あ、ねえねえ。このドアあけて飛び降りたらどうかしら?」
だが、ドアは当然のように開かない。
「そうだ、携帯電話で助けを呼びましょうよ」
俺は確認してみるが圏外だ。
「やっぱり階段で降りるしかないのね」
「降りられればな」
「大丈夫よ、降りられるわ!」
その自信がどこから来るのか分からないが、フサ子の言葉には一点の曇もない明るさがあった。
フサ子はさっさと走り出す。俺はその後をついていく。その距離はどんどん離れていく。廊下の端から角を曲がれば、コの字型の校舎の真ん中、連絡通路だ。
連絡通路に差し掛かる瞬間、フサ子の綺麗な長い髪が揺れて廊下の角へと消えていった。
だが、すぐに彼女は戻ってきた。行くときよりも全力疾走で。
「どうした?」
「ななな、なんかいた!」
「なんか?」
また適当な表現だ。
俺がさっさと行こうとすると、フサ子が止めた。
「変なのがいるの!」
「それはさっきも聞いた」
「もっと慎重に行って!」
「はいはい」
一応、竹刀袋から日本刀を取り出す。もちろん鞘に入っているので抜き身ではない。それをベルトのホルダーに差す。これだけで俺の臨戦態勢だ。
俺は少しだけ、顔を覗かせる。
確かに、いる。
まるで巨大な折り紙で作ったキツネのようなものが、連絡通路の真ん中で待ち構えるように座っている。そのキツネの周りを紫色の蒸気のようなものが漂っている。
「ありゃあ、式神だな」
「式神……聞いたことある」
「漫画とかにもよく出てくる。陰陽師が使う中で、もっともポピュラーな術だろうな」
「ど、どうするの?」
「どうするもこうするも、推してまいるさ」
俺は日本刀を引き抜く。外から入り込む月明かりで、刀身が鈍く光った。
「それ……本物?」
「どうだろうな」
連絡通路に躍り出ると、式神はすぐに俺に気が付いた。
風船の空気が抜けるような音を、式神が発する。それが鳴き声なのだと気が付いた時、式神はもう俺に向かってとびかかってきていた。
それを振り払うように日本刀を横なぎに滑らす――が、空中で式神は体制を変え、もう一度跳びはねた。
「二段ジャンプ!」
フサ子のどこか楽しそうな声が廊下に響く。
俺は上半身をひねるように、式神に向かって遮二無二もう一度刀を振るう。それは式神の尻尾を切り裂き、体勢を崩させた。式神は壁にぶつかると、三角飛びの要領で俺の後ろに回った。
まずい、と思った瞬間、後ろから背中を噛みつかれた。
痛いと叫んでいる余裕もない――そもそも痛いという感情もない。
俺は日本刀を空中に向かって放り投げる。
高速で回転する日本刀は風車のような円を描く。
俺はあいた左手で、肩に噛み付く式神を殴りつける。体勢が悪く、うまくあたらない。背中に噛み付く式神を振り払うため、壁に向かって背中から体当たりする。
式神の顎が外れた。
その瞬間、地面に向かって回転しながら落ちてくる日本刀をうまく掴み取る。
そして、コマのように回転して、式神を切り裂く。
頭と胴体が離れた式神は、もぞもぞと個別の生き物のようにしばらく動くと突然発火し、灰になって消えた。
「ちょ、ちょっとヨシカゲくん! 大丈夫なの!」
「ああ、かすり傷だ」
「背中、噛まれたでしょ、見せて!」
「大丈夫だって言ってんだろ」
「変なバイキン持ってるかもしれないでしょ!」
「持ってねえよ、それに――」
「それに?」
「もう治った」
俺は背中を見せてやる。そこからは血の一滴も出ていない。もちろん痛みもない。怪我をした痕跡があるとすれば、もはや制服に開いた穴だけだ。
「え、なんで!」
「そういう体質だ」
俺はそれだけ言うと、連絡通路を通っていく。フサ子はなんでなんでと連呼してついてくる。
それにしても、あまり強い式神ではなかった。それだけが救いだ。もしもこれで強力な式神だったとしたら、俺はまだしもフサ子を守りながら、というのができなくなる。
どうにかして、フサ子だけでも逃してやれないだろうか。
特別棟の階段まで行く。
特別棟自体は二階しかないのだが、この上に屋上があるので階段自体は上に行くためのものもある。
「ねーねー、今度はヨシカゲくんが降りてよ」
「なんでだよ」
「良いじゃない」
面倒だから言うとおりにやってみる。
下に降りていく――そして踊場を超える。思っていたような不思議な感覚だとか、そういうものはなかった。ただ降りていくともう一度二階がある、それだけだ。階段を降り続けている、それだけだ。
「どうだ、満足か?」
「うーん、誰がやってもダメね。あ、そうだ! 逆に登ってみるってのはどうかしら?」
「勝手にしてくれ」
俺は面倒になって階段に座る。
フサ子はいきましょうよ、と俺の服を引っ張る。
「嫌だ」
「お願い、お願い!」
あまりの押しの強さに分かったよ、と立ち上がる。どうせ登った所で屋上があるだけだ。
フサ子が登っていくのを、俺は同じように後ろから追う。
すると、屋上には普通に行けた。階段を上がると外へと続くドアだけがある。横には掃除道具が入ったロッカーが。
「上には普通に行けたな」
「本当ね」
「おい、外を見てみろ」
フサ子がドアから顔を覗かせる。「……え、誰かいるよ?」
「もともと、ここに追い込むつもりだったのかもな」
屋上には安っぽいスーツを着た男がいる。
男は面倒くさそうにタバコを吸っている。
ここにいろ、とフサに言って屋上へのドアを静かに開ける。
「校内は禁煙なんだけどな」
俺が来たことに、男は驚いたようでタバコを口元から落とした。
さて、初手はどう動くべきか?
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