022 夢の箱庭7
家に帰ると、ネメアが二階の彼女の部屋からゆっくりと出てきた。
「おかえりなさい、あなた」
「ああ、ただいま」
「怪我したの?」
「少しな」
もう治りきったが、肩口に酷い傷を負った。俺でなければ出血多量で死んでいただろう傷だ。もし生きながらえても壊死は免れなかったろう。そんな大怪我も、もう影も形もない。服に残った血だけは消えないから、ネメアは心配しているが、もう痛くもかゆくもないのだ。
「すごい傷……痛い?」
「いや、痛くはない」
ネメアがこんこんとわざとらしい咳をした。あはは、と努めて朗らかに笑って見せて、おどけて舌をだした。
だが、それはお道化にみせかけた本当の咳だった。
彼女の体調はここのところ、確実に悪くなっていた。日中は寝たきりで、夜半にやっと起き上がってくる。ベッドの中で三十分は苦しそうにもがき、それが終わると何食わぬ顔で部屋から出てくるのだ。
わたし、死ぬのと言った彼女は、本当にその通り、死へと坂を転げ落ちるように近づいているように見えた。
俺は彼女が死の恐怖を抱えていることを知っていた。だから、少しでも彼女の心配事を減らしてやりたかった。死への旅路はせめて心休まって行ってもらいたい。それが俺の想像できる優しさの模造品だった。
「キミを吸血鬼にした男は、消した」
「消した?」
「ああ、殺したと言い換えてもいい」
「本当に?」
「ああ、俺に出来ぬことはないさ。こと異能の敵に関しては、な」
俺はそう言って、ネメアの肩に優しく自分の手を添えた。
ネメアはわざと嬉しそうに笑った。
だが、それが偽りであることが分かった。俺は俺の演技をし続けたせいで、他人が自身の感情に演技することを見破れるようになっていた。
「嬉しくないのか?」
「嬉しくないわけじゃないわ」
俺の部屋に入ると、ネメアは当然と言った顔で俺のベッドに座った。
そして、くつろいだようにベッドに仰向けに寝転がった。
俺は立ったまま、ネメアを見下げた。
「今さら、わたしを吸血鬼にした相手がどうこうとか、どうでもいいの」
「そうか」
じゃあ、お前の望みはなんなのだ?
俺はネメアに少しでも優しく死んでほしいと、この時そう思っていたのだ。
「わたしの、望み?」
「ああ、お前の夢」
ネメアは照れくさそうに笑って、言った。
「お嫁さん」
俺は着ていたカットシャツを脱いだ。血で染まったそれを、無造作にゴミ箱に入れた。上半身を露出して、しかし恥ずかしくは感じなかった。俺はネメアの寝ているベッドに、潜り込むように横になった。
「そうか」
俺がネメアに抱き着くと、彼女は目を細めた。
少しだけ、血の匂いがした。
俺たちの関係はいつの間にか、奇妙な同居人から変化していた。例えば家族のように俺たちはこの屋敷での時間を過ごしていた。彼女は俺をまるで夫のように扱った。その兆候は最初から、彼女の「あなた」という俺への呼び方から見て取れた。
だが、俺も彼女を妻のように扱ったかと言えばそうではない。どちらかと言えば俺は彼女に甘えているだけだった。まるで赤子のように彼女を抱きしめた。ネメアはくすぐったそうだ。だが、何も言わなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます