48 桜子は戦場の天使か
陽が西に傾いていた。兵士たちの影が長く尾を引いている。
黒埼桜子とカリムゴロフキンは、城塞の扉から十数メートルほど離れたところで扉が開くのを待っていた。レッドとジャンが桜子の後ろで待機している。成田はジャンの後ろで体を小さくしている。
西中国共和国西部軍団本部准将ハオランが、ガルバンの門番兵と話をしている。
桜子はもう一度後ろを振り向いた。西中国共和国の兵士千人が、五列になって隊列を組んでいた。軍旗が高く掲げられている。
扉が開いた。
西中国協和国の兵士とカリムゴロフキンが入って行く。その後を桜子はゆっくりと歩いていく。石畳の広場は、城壁に囲まれていた。前方にガルバンの兵士千人が隊列を組んでいる。桜子は後ろを振り向いた。ジャンとレッドがついてくる。その後ろから成田が歩いてくる。
西中国の兵士千人が駆け足で来て、桜子らの側面に立った。
広場に篝火が焚かれた。
銅鑼の音が響いた。
ガルバン兵士たちの間から、白マントを纏った白髪の老人が現れた。彼は数歩歩いて立ち止まる。
「わたしは、ガルバンの長老ガンダソリートです。今はガルバンの兵士と市民の信任を得ている。わたしは、ガルバンの代表としてあなた方を迎える」
「わたしは、西中国共和国西部軍団本部付准将ハオランです。ところで、ガルバンの統領は、どうしました」
西中国の兵士が名乗り、そして尋ねる。
「数日前、西の国へ逃亡した」
ガンダソリートは口惜しそうに呟いた。
「こちらが、ジュンガルの筆頭執政官カリムゴロフキン、そしてクロサキサクラコ」
ガンダソリートはゆっくりとした足取りでカリムゴロフキンに近寄ると、手を差し伸べた。カリムゴロフキンの手を両手で握ると、彼は桜子に視線を向けた。
「あなたが、サクラコ?」
「はい」
「兵士たちから聞いていました。ジュンガルには、サクラコという名の天使がいると」
ガンダソリートは笑顔を浮かべ、桜子に手を差し伸べた。
「わたしたちは、サクラコ、あなたに降伏します。よろしいですか」
桜子は頷いた。
「わたしたちの降伏の条件は」
「その前に」
桜子はガンダソリートの言葉を遮った。
「ガルバンは何故ジュンガルに兵を向けたのですか」
「マーラの拘束のためです。その旨をジュンガルの最高指導者に伝えたところ、突然、ジュンガルが魔法を使って、我らを攻めてきたのです」
「マーラは何者なのです」
「彼女には、魔性のものが棲みついていた。その魔性のものをこの世から消し去るためです。大群を差し向けたのは、我らの統領の指示、力ずくでことを成し遂げようとしたのです。あわよくば、ジュンガルを滅ぼそうとしたのかもしれません」
「降伏の条件をお聞きします」
「第一に、ここにいる兵士千人と市民五千人全員の命と財産の保障です。第二にガルバンの捕虜全員の解放です。第三にガルバン市民、兵士全員の西中国共和国への移住です」
ガンダソリートはそこまで言うと、大きな吐息をついた。
「西中国共和国の仲介の労に感謝しています。最後の条件ですが、シルクロード交易の利益の半分を、今まで通り西中国に渡すことです」
桜子はカリムゴロフキンを見た。彼は黙って頷いた。
「わかりました。その条件を呑みます」
「わたし、ハオランは、この講和に立会人としてサインします。もしジュンガルが約束を破ることがあれば、われわれは、ジュンガルと戦うことをためらいません。ご安心ください」
広場に丸テーブルと椅子が二脚運ばれてきた。
テーブルに二枚の書状と二つのペンが置かれる。ガンダソリートが座る。向かい合ってカリムゴロフキンが座る。二枚の書状には、すでに講和条件が箇条書きで書かれてある。それぞれ一枚の書状に、ガンダソリートとカリムゴロフキンが署名する。そして書状を交換してそれぞれの名を署名する。次にハオランが座り、立会人としてそれぞれの書状に署名した。
桜子はテーブルと椅子が持ち去られた後もその場に立ち尽くしていた。
桜子の周りに誰もいなくなった。
ガルバンの兵士の一人が、桜子に向かって敬礼した。成田が桜子の肩に手を回した。
「サクラコ、もう終わった。帰ろう」
桜子は扉に向かって歩き出した。外に出る前に、もう一度振り返った。ガルバンの兵士二千人が桜子に向かって敬礼していた。
城塞都市を囲んでいた天幕の撤収が始まっていた。暗くなった東の空に。無数の松明の灯りが揺らいでいる。西中国共和国十万の兵士が、近くまで押し寄せていた。
ララモントが仁王立ちしていた。
カリムゴロフキンはまっすぐ彼女の所に歩いていき、講和の書状を渡した。ララモントは何も言わずに受け取った。
カリムゴロフキンはそのまま闇の中に消えていった。
彼は覚悟していたのだろうか。これからの自分の行く末を。
ガルバンの名も知れぬ兵士たち、想像できない決断と行動を行うカリムゴロフキン。彼らの思いが胸に満ちてくる。
涙が頬を伝って流れた。
桜子はしばらくその場を離れることができなかった。
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