大和人


「正直、今現在、私がついて行きたいと思うのは、天皇陛下ではなく皇帝陛下です」


 その言葉に、真備はただ口を開けることしか出来なかった。他者から見たら実に間抜けで滑稽な顔であっただろう。

 しかしながら、対する仲麻呂は全く臆すこともなく再び茶を啜る。そして空になった茶杯を手から離すと、底に浮かんだ花の絵を見つめて言葉を続けた。

「私は感銘を受けたのです。あれほど心の広いお方がいるものなのかと。だからあの子たちの言ったことは少なからず当たっているのですよ。私は天皇陛下に国を託された遣唐留学生でありながら、それに背いた大逆人だ。あのような指摘をされて当たり前です。でもね、私はあの国を捨てたいわけではない。私はあの国の力になりたいと強く願っている。でも、日本に帰ってしまったら、それが困難になると思うのです。なぜなら······」


 ──貴方がいるから。


 真備の目をまっすぐに捉えて紡がれた言葉。しかしその目には、今までのいたずらっ子の如き光はなかった。ただ代わりのように、小さな炎が宿っている。

 人はその炎を何と呼ぶのだろう。ある人は「信頼」と呼び、またある人は「嫉妬」と呼ぶのかもしれない。それは真備に対する全て、真備に抱く感情の全てであった。

「私は貴方に負けたくない。でも、日本にいて輝くのは貴方だ。あの藤原にも支配されない、皇族の血筋からも邪魔されない。そんな都の外から来た貴方だからこそ、きっとあの平城ならの京の光となれる。貴方にはそれだけの力があるんです。でも、でもここだとどうだ」

 仲麻呂は真備をより強く見つめた。確か最後の高楼の夜にも、彼はライバル心を明らかにした。しかし、今回の意志は比べ物にならないほどに強い。それは雄々しい龍の如く、真備の瞳に光を突き刺す。

「この国において、貴方はきっと私に勝てない。ここにいる限り、貴方はただの遣唐留学生でしかない。ならば、私がこの国の光になってみせようじゃありませんか。空だけが頼りの四つの船を導く、日本のためだけの月となってみせようじゃありませんか。だから、私は日本へは帰らない。その時が来るまで、ずっとここで待っておりましょう。たとえ、己の日本の名を忘れようとも、己の身がここで土になろうとも、それでも私は大和人やまとびとだ。誰がなんと言おうと大和人だ。だから何とでも言いなさい。だって他人にとやかく言われようとも、私は信じていますから。私が大和人であることは、きっと、きっと、貴方が覚えていてくださると」

 燃え盛る炎のような言葉。しかし、最後の言葉だけは、地に注ぐ月光のように優しかった。

 貴方だけは忘れないでいてくれる。

 そこには、真備に対する信頼の全てが詰まっていた。それだけ真備を頼りの綱としているのだろう。仲麻呂が真備に託す己と故郷の希望の全てが、重く 、強く、言葉に詰まっていた。

 ──ああ、この男は自分が思っていたよりも強かだ。

 真備は初めてそう思った。もちろん、仲麻呂の強さはこれまでにも見てきた。しかし、それでも守るべき存在なのだと、どこかで認識している自分がいた。仲麻呂は、触れれば折れてしまうほどに繊細で、可憐な花に見える。だからこそ、真備は気づかなかった。彼は可憐な花でありながら、見えない根は力強く唐の大地に張っている。嵐にも折れないほどに、地中の奥深くに太く強い根が刻まれている。

 それが、今明らかになった。人生の全てをかけて、荒波の中をのし上がろうとするしぶとさ。真備に故郷と己の全てを託そうとする傲慢さ。この仲麻呂という男は、陰謀蠢く大唐国で花を咲かせるような、強かで鬼の如き男なのだ。


 そう思うと同時に、真備はかつて勉学の師・趙玄黙ちょうげんもくの言葉を思い出した。

 ──確かにそなたには彼にかなわぬ部分があるが、逆に彼がそなたにかなわぬ所もある。互いにそれを補えばいいのじゃ。そうすることで、そなたら二人は日本国の希望となろう。

 あの時は言葉の意味が良く分からなかった。しかし今になって思う。真備は日本で、仲麻呂は唐で。そうやって互いに国内外から力を添えれば、きっと国をも動かせる。


 真備は思わず笑みを漏らした。目の前の男は相変わらず花のように美しいが、花と棘、花と毒とは紙一重。ならばもう案ずることはあるまい。

「分かったよ。覚えてるに決まってるだろう。お前は確かに大和人だ。それは俺が保証してやる。だから俺が迎えに来るまでに野垂れ死んだりするなよ? お前を迎えに来た俺らが迷わないよう、海の道しるべとなって唐を照らせ。俺は欠けた月も枯れた花も持ち帰る気は無いからな」

 些か意地悪な笑みを浮かべた真備に、仲麻呂は一瞬目を丸くした。しかし直ぐにくしゃっと頬をゆるめてみせる。

「ええ、ええ。絶対に今より輝いて見せますとも。貴方も驚く程に偉くなって、日本の力を唐の人々に見せつけてやりますよ」

 高らかに顔を上げて笑う仲麻呂に、真備は呆れたように目を細める。彼が誰に何と言われようとも、きっと動じない自分がいる。それほどに、真備も仲麻呂のことを信頼した。

 きっと、あの館では今もなお宴が開かれているのだろう。しかし、二人にとってはわずかな茶と茶菓子だけで十分だった。なんと言っても、心は未来への希望で満ち溢れていたのだから。


 こうして、新たな年は始まった。明るく陽気な洛陽の街に相応しく、実に生き生きとした年明けである。

 しかしながら、新たな門出には波乱万丈な旅の予兆も付き物。現に見知った顔の男が一人、神妙な面持ちで、長安から洛陽へと旅路を急いでいたのだった。





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