好敵手


「聞いてたのか、仲麻呂」

 青い顔をする真備に、仲麻呂は「ええ」と頷く。

「仕事が予定より早く終わったので来てみたのです。でもギリギリ間に合いませんでしたねぇ。何だか宴が始まってしまって声もかけづらいですし、今日はとりあえず引きあげようかと」

 仲麻呂がそのまま館を後にしようとするので、「ちょっと待て」と袖をひく。

「お前、いいのか?」

「何がです?」

「まるで恩知らずみたいな言い方されて······」

 静かな声で言う真備は、まるで子供を心配する父のような表情をしていた。柔らかく差し込む冬の日差しが、顰められた眉間に影を落とす。それはどこか懐かしい、あの平城ならの両親を彷彿とさせるような真剣な顔。

 仲麻呂は思わず「ふふっ」と笑みを漏らした。呆れたような、微笑ましいような、そんな愛おしいものを見つめる時の笑みだった。

「本当に、貴方は私を子供のように扱うんですね。あのくらいの嫌味など言われ慣れていますよ」

 そう言うと、仲麻呂は掴まれたままの自分の袖を見下ろす。真備は気恥ずかしくなったのか、咄嗟に「悪い」とだけ呟いて仲麻呂の袖から手を離した。

「とりあえず、他人様ひとさまの屋敷で立ち話もなんですし、私の屋敷でお話しませんか?」

 柔らかな笑みとともに紡がれた言葉に、真備は面をくらったように口を噤む。しかししばらくして、いつもの生真面目な表情に戻ると、「ああ」と仲麻呂の後に続いた。


 初めて訪れた彼の屋敷は、上流貴族とまではいかないが思いの外立派なものであった。しかし、考えてみればそうである。彼は、この正月から皇帝の皇子に近づくことをも許された男だ。この屋敷だって、きっと皇帝である李隆基から授かったものだろう。目を引くような豪勢さはないが、妻子のいない彼が住むには十分広いように思える。

 そんな邸宅を見て、真備は少し違和感を覚えた。今まであの小さな小さな高楼で笑いあっていた同郷の友。彼の歳が己より下なこともあって気軽に話してきたが、改めて考えると、真備との身分の差は日本においても唐においても明白である。それを思うと、なんだか目の前の友が一気に遠い人となったようで、ぼんやりとした寂しさを感じた。


 そうこうしているうちに、気づけば客間の椅子に腰掛けていた。日当たりの良い優しい部屋ではあるが、何だか妙に殺風景である。まるで、ここは仮の住まいであると物語っているようにも見えた。

「随分家具が少ないな」

 茶を運んできた使用人が部屋を出たのを見計らい、真備はぽつり呟いた。

「ああ、まだ荷解きが終わっていないのですよ。長安の屋敷に粗方の物は置いてきてしまいましたし」

 ああ、そうか。真備は今更のようにここが長安ではなく洛陽であったことを思い出した。右手にある窓から外を覗けば、どこか長安よりも穏やかで陽気な空が広がっている。

「じゃあこの屋敷はつい最近貰ったばかりなのか?」

「ええ、主上がこちらにいらしたのと同時に、我々に屋敷が割り振られました。なのでこれは元々 洛陽ここにあった家ですね。この街もかつての都ですから、官僚達が移転できるくらいの屋敷は残っておりましたよ。それに今回の飢饉が治まれば主上もまた長安にお戻りになるでしょうから」

 そう言って茶をすすめる仲麻呂を見ながら、真備は湯のみよりも一回り小さな茶杯を手に取った。口元に運べば、高く優雅な中国茶の香りが鼻をくすぐる。異国の花の香りが混じるそれは口内を包み、さらりと温もりが抜けていった。

「それより、真備さんはいいんですか? 宴に参加しなくて」

 仲麻呂の瞳に気圧されるように目をそらすと、真備は「ああ」と茶杯を置く。

「何だかそういう気分じゃないんだ。まだ年も明けたばかりで疲れてるのかもしれん」

「そうですか。すみませんね、お疲れのところを引き止めて」

「いや、元々声をかけたのはこっちだしな。ゆっくり茶が飲めるなら本望だよ」

 真備が再び茶を啜ると、浅い茶杯はすぐにからになった。仲麻呂はまた使用人を呼んで茶を注がせると、しばらく無言で付け合せの茶菓子をパクパク口に放り込み続ける。しかし、何も言おうとしない真備を一瞥すると、面白がるような笑みを浮かべた。

「ふふ、真備さんは甘いですねぇ。まるでこの茶菓子みたいに」

「は?」

 突然そんなことを言い出した仲麻呂に、真備はキョトンとした顔で動きを止める。仲麻呂はしばらくくすくすと笑っていたが、改まって背筋を伸ばすと茶杯を掴んでいた美しい手をテーブルの下へしまった。

「心配してくれているのでしょう? 私が留学生達にあんなことを言われたから」

 図星だった。心の内を言い当てられた真備は声を出すことさえ出来ない。しかしそんな真備などお構いなく、仲麻呂は柔らかな視線をテーブルに落とす。

「貴方は私を守ろうとしてくださる。それはとても嬉しいのです。でもね、私は貴方が思うほど繊細でもないのですよ」

 そう言うと、仲麻呂はそっと真備を見つめた。それはイタズラを思いついた子供のような、そんな面白おかしい光を宿した瞳だ。どこか幼く、キラキラと輝いている。

「確かに、遣唐当時の私は貴方が思うような弱い存在でした。ただでさえ十七の若造でしたし、実家の阿倍家とて、貴族と言えどもかつての威勢はない。加えて唐の青年たちに混じってしまえば日本人の私など宙を舞う塵のようなものだったでしょう」

 仲麻呂は昔を懐かしむかのように笑みを浮かべる。それは古いアルバムを開いた時のような、そんなホコリ混じりの温かさだった。

「でも、私も次第に社会というものが分かってきたのです。きっと科挙を受けたことがきっかけでしょうね。異国人の若造のくせにと貶され笑われ、周りの受験生達との間にはどこか一定の距離があった。でも、私は勝ったのです。どうにか科挙に及第してみせたのです。あの時は、出世のためだとかそんな思いはサラサラなかった。ただただ周りの受験生達に勝ちたかった。日本人として、大和人として、やってやろうじゃないかと後先考えずに戦いに挑んだんです。今思えば若かったですねぇ、その時はまさか皇帝陛下に目をかけられるとは思いもしなかった」

 名の上がったこの国の長に、思わず眉を下げる。真備もさすがに気づき始めていた。きっと仲麻呂を唐に引き止めたのは、その皇帝なるこの世の天子であろうと。しかし真備ら遣唐使にとっての天子とは、あくまで天皇陛下でなければならない。だからこそ、皇帝陛下に仕えた仲麻呂は遣唐留学生達に裏切り者扱いされた。

 そして、だからこそ、真備は仲麻呂の口から出た次の言葉に驚愕した。

「真備さん、貴方には正直に申し上げておきます」

 彼は、そう前置きをした後に言い放った。悪びれもせず、飄々とした口ぶりで。








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